ep1「東京ミッドナイト・アサルト」
午後九時。すっかり古びたアパートの一室に、音もなく開きつつある玄関扉から夜風が流れ込む。
風に混じるのは、微かな硝煙の臭気。
そして、かちりと起こされた撃鉄の音。
まるで影のように扉へ身を滑らせた部隊員たちは、五人続けて室内へと踏み込んでいた。アサルトライフルの銃口が室内を舐めて行き、壁にびっしりと貼り付けられた札の数々が赤外線レーザーに照らされる。
「周辺に敵なし」
「周辺に敵なし」
「周辺に敵なし」
武装済みの侵入者たちは、ほんの数秒で室内を制圧していた。
続々と報告が上がる。敵はいない。そして一人が足を止めた。
「目標を発見」
男が油断なく銃口を向ける先には、てるてる坊主のようにシーツを被った何者かが蠢いていた。全高は1.2mほど、表面体温は約20℃、事前情報と相違はない。
瞬く間にその場へ集まった隊員の内、一人の若者が慎重に進み出て行く。目標へ向けたライフルは、不可視の照準レーザーを目標に浴びせかけていた。
目標が逃げ出さないよう四肢を撃つ、はずだった。
が、若者は撃たない。撃てないのだ。
その場に居た誰もが、何か言いたくなるのを堪えて口を噤む。進み出ていた若者を強引に退かそうと、躊躇いを滲ませる背に手が伸びた。
「既に命令は出ている、これは人ではない処分対象だ。やれないなら退け」
その時だった。
若者だったはずの男から、濃い煙のような陽炎が解け出した。黒髪は白髪へ、戦闘服は黒い外套へ、一秒と経たない内に姿が変わって行く。
「そうか、またか」
唐突に一発の発射炎が室内を照らした。若者が背後に向けた銃口の先では、呆気なく弾けた脳漿が男の後頭部から噴き出して行く。
お前は誰だ。
そう問いたげに見開かれた眼には、直前まで若者だったはずの男の姿が映り込む。年齢に合わぬ白髪、それに隻眼だ――――そして真っ直ぐに向けられた拳銃が、無音の裡に額を撃ち抜いていた。
しかし、銃声は無い。
「……っ!」
白い目標を庇うように、白髪の男は次々に部隊員を狙い撃つ。負けじと撃ち返す部隊員たちは、しかし壁に張り付けられていた呪符の周りで倒れて行く。
ものの数秒で、部屋は再び暗闇に包まれた。
男は人差し指と中指を合わせると、すっと印を切る。鼓膜に掛かっていた圧が消え去ると、再び世界に音が戻って来た。
「ただいま」
男はようやく息を吐くと、部屋に明かりを灯していた。
ゆらゆらと揺らめく暖色光に満たされた六畳半のぼろ部屋。男に向かって勢いよく飛び込んで来るのは、てるてる坊主のようにシーツを被る何者かだ。
「おかえりなさい、ぱぱ!」
「おっと」
男は 駆け寄って来る何者かを――――一人娘を抱いていた。
愛おしそうに細められた目は、壁を覆う呪符の数々を見やる。壁のそこら中に「ぱぱ」「かなえ」と題された落書きが描き込まれていた。
「ぱぱは遅いです。かなえはずっと一人で待っていたのです」
「悪かった。でも、またすぐにここを出なくちゃならない」
「またですか?」
告げた途端、かなえの声音が萎んで行く。
もう猶予はない。それでも男はやや冷たい身体を精一杯抱き締めた。乾いた何かが擦れ合う音、鼻孔をくすぐる仄かな花の香りがシーツ越しに感ぜられる。
この世でたった一人、身を賭して守るべき家族の感触だった。
「だけど、パパがずっと傍にいてかなえを守るからな」
「はい、ぱぱが約束だって」
「そうだな」
男が立ち上がると同時に、背後で倒れていた死体たちもまた、ふらりとよろめきながら起き上がっていた。
無遠慮にも土足で踏み込んで来た彼らが向かう先は玄関、律儀に整列して続々と部屋から出て行く。
――――さて、今度はどこへ逃げる。
肌がひりつくような静寂の中で、男は懐から取り出した煙草を咥える。
敵に化け、音を奪い去り、死体を操ってもなお、こんなちっぽけな拳銃と生身ではもう逃げ切れない。零れ落ちた汗は、張り詰める緊張の中でジュっと灰を溶かしていった。
「むーっ」
かなえはシーツ越しに非難がましい視線を向けると、男の耳元に囁いて来る。
「かなえ、たばこはきらいです」
「ごめんな、かなえ。ちょっと我慢していてくれよ」
かなえの頭を撫でつつ、男は素早く辺りに視線を巡らせた。
アパートは既に包囲されている。あと数秒も経たずに第二波が雪崩れ込んで来る、強行突入直前の静けさがゾッと背筋を撫でていった。
今この瞬間、残された手段は一つだけだった。
「かなえ、目を閉じていてくれるか」
逃げ場など無いはずの部屋で、男は深々と煙草を吹かし切る。
次に発動させるべき術の仕込みは、既に終わっていた。
瞬間、紙煙草に巻かれた呪符が燃え尽き、古の呪詛で以て常世ならざる者を召喚寄せる。
――――焚焼符法、略式召喚術式起動。
「来い、呪操槐兵〈御霊〉!」
神符が燃え尽きると同時に、燃え散ったはずの灰はベランダの外へ流れ去って行った。二階から降り注いだ灰は華と化し、高速で呪言を唱える男の背には真っ赤な花吹雪が渦巻き出す。
直後、花吹雪はパッと舞い散っていた。
竜巻じみた渦の中からは、人間の七倍近くはあろうかという人影が姿を現す。
それは外套を着込んだ黒子、とでも言うべき外見だった。
巨大な顔を覆う布の奥には、横一列に並んだ十の紅き眼光が覗く。漆塗りの甲冑は深紅に縁どられ、文字通りの漆黒が月光の下に浮かび上がる。
鎮まり返る夜の住宅街に風を巻き起こしたのは、黒紅の巨人だった。
「捕まっていろ、かなえ!」
「うん!」
走り始める同時に、はらりと吹き飛んでいくかなえのシーツ。中から現れたのは月光を吸い上げたが如くに艶めく銀髪の少女。
頭には花かんむりのようにシロツメクサが咲き、服の裾からははらりはらりと葉が舞って行く。
――――かなえは、人ではない。
男はかなえを横に抱きつつ、幾重にも伸びて来た火線から逃れるように走る、走る。
背後から聞こえて来る爆発音、男たちの声と銃声が鼓膜を殴り付けて行く。
『目標を確保しろ! 槐兵に乗り込ませるな!』
男は手にした拳銃で撃ち返しながら、黒紅の巨人めがけて走った。
ベランダから乗り込んで来た敵が前方に立ち塞がる。しかし眉間に向けて拳銃を一射、去り際に死体が手放した警察無線を奪う。走る。
男はそのまま、窓枠を蹴り出していた。
地上5m。二階ベランダから飛び降りた男は、そのまま巨人の胸にぽっかりと口を開ける空洞へ身を滑り込ませた。
「起動開始!」
握り込む操縦桿、踏み込むフットペダル。閉鎖されて行くコックピットハッチの向こうには特殊部隊員が迫って来ている。
膝の上にかなえを乗せた直後、男は操縦桿を押し込んだ。
「行くぞ」
これ以上はここに止まっていられない。
巨人はほぼ垂直に飛び上がると、夜もなお煌々と輝く東京を目指して跳躍を繰り返して行く。眠らない街へ辿り着くのに、それから一時間と掛からなかった。
渋谷区、スクランブル交差点上空150m。
帰途に就いた人々の頭上を、砲弾の如くに滑空する物体があった。一対の腕、一対の脚、外套のように着込んだ腰布をはためかせながら、"それ"は摩天楼の狭間にびゅうびゅうと物々しい風切り音を響かせる。
誰にも正体を悟らせぬままに滑空飛翔するそれを、もし道行く人々が見上げたなら何と言うだろうか。
あれはカラスだ。
――――否、翼はない。
ならば人だ。
――――否、全高は10m近い。
ビルの壁面が迫る。
衝突は必至、ガラスの奥には無数の人影が控えている。
しかし、漆黒の巨人はその体躯に見合わぬ軽やかさを発揮すると、たった一枚のガラスを割ることもなく蹴り出して見せた。
高度な木工技術に支えられた神木製のボディ。
重量にして僅か1t足らずの巨人は、その身軽な機体を、木質性人工筋繊維が張り巡らされた脚で見事に押し出したのだった。
「ぐっ……!」
Gに押しひしがれた苦悶の声が、僅かに零れ出る。
それでも操縦桿を握って離さない男の視線は、巨人の脳髄たるコックピットの壁面を睨んでいる。
「大丈夫か、かなえ」
「うん、かなえはへーきです」
凄まじいGの中で平然と返されたのは、こともあろうにかなえの呑気な声音。
狭い膝上にちょこんと乗せられた彼女は、あくびをかみ殺しながら男の顔を見上げる。
「ぱぱ、そろそろかなえは眠いです」
「夜だものな、おやすみ」
「おやすみ、ぱ……ぱ……」
自由落下へと転じる寸前、二人乗りの巨人はしばし穏やかに風を切る。
乗り込んでいるのは人間と人外。
呑気な寝息が響くコックピットには、しかし手持ちの無線機で傍受した音声も交じり始めていた。
『別働班は目標の確保に失敗。取り逃がした』
『追跡対象は渋谷方面へ逃走中、槐兵に乗っている』
『人の集まる場所に逃がすな、厄介だ』
自らを追い立てる猟犬たちの吼声を耳にしつつ、男はフットペダルの踏み込みを緩めて行った。すると、ふわりと外套を広げた機械巨人が――――呪操槐兵〈みたま〉が空気抵抗を受けて瞬く間に減速する。
着地成功、機体は地上へと降り立っていた。
「ここならどうだ」
スクランブル交差点中心部、歩行者用信号が赤から青へと切り替わる。
途端に、国内最大級を誇る交差点には人々が雪崩れ込み始め、四方から迫る波と化していた。全高10mはあろうかという機体が、魔都の人波に呑まれて行く。
くたびれたスーツ姿の男が、
夜の街に繰り出す学生が、
乾いた茶髪を弄ぶ女が、
機体からほんの数十cm先を過ぎて行く。
数百人もの人間が異様な巨人を掠めて行く。
――――だが、誰一人として視線を向けない。
誰も、交差点の真ん中を占領する人型が見えていない。
否、見えているのに気付けない。
それこそが高度な呪術理論によって駆動する木製の異形、呪操槐兵という究極のステルス兵器の本質だった。
やがて歩行者信号が点滅し始めた頃、交差点を見下ろす大型モニターには一人の黒髪の男が映し出されていた。
ニュース番組の緊急速報だ。
男は流れて来るテロップを読み上げるにつれ、口元を歪めて行く。すっかり色素が抜け落ちた髪と隻眼を除けば、両者の相貌はほぼ一致していた。
水鏡幻也、警官殺傷の指名手配犯。
水鏡幻也、渋谷区を逃走中の凶悪犯。
水鏡幻也、元公安警察所属の逃亡犯。
「人気者になったな、俺も」
「ぱぱ……?」
男はかなえを起こしてしまわぬよう、それでも華奢な身体を抱き締める。
服越しに感じられる葉の感触、かなえはやはり人ではない。
――――だから、どうした。
愛おしい娘の寝顔、これを守る為ならたとえ東京全てを敵に回したって構わない。そう心に誓って全てを裏切った日を、男は決して忘れてなどいなかった。
守らねば。
守り切らねば。
だから、殺さねば。
「悪いやつは皆パパが倒してやる。だからおやすみ、かなえ」
逃げて逃げて逃げて、逃げ回って。
いつ来るかも分からぬ平穏はやはり遠かった。夜はまだ明けそうにない。
長い夜の訪れを悟ったかのように、人ならざる機械巨人は、誰にも気付かれぬまま魔都東京の闇へ紛れ込んでいった。
男――――水鏡幻也が公安警察を裏切ってから、一ヶ月の夜が更けようとしていた。
もう戻れぬ公安警官としての日々へ、彼の意識は遡る。
<カクヨムにて先行連載中>
https://kakuyomu.jp/works/1177354054885880520