序章
街が静まり返った夜。
様々なネオンで彩っている歓楽街では、酔った状態で道をふらふらと歩いている男達の姿や、露出度の高い服を着た女達などで溢れて賑わっている。 そんな街とは正反対にある真っ暗な道を、とある一人の男が息を切らしながら懸命に走っていた。
「くそっ……」
後ろを振り返らずに、全力で背後から迫る“死神”から逃げようとする男。 さっきまで降っていた雨のせいで服はびしょ濡れになっており、身体に張り付いていて走りにくそうだ。しかし男にはそれを気にする余裕が一切ない。“死神”から逃げ生き延びようとひたすらに足を動かす。
「どーこーにーいーるーのーかーなーぁー?」
狂ったように笑う“死神”に捕まりたくない。ただただその一心でひたすら走り続ける。
「畜生……っ!」
しまった、と思った。
男がこの街に来たのは2ヶ月前の事。 土地勘なんてほぼ無いにもかかわらず、がむしゃらに逃げ続けている男。それでも頭の何処かで男は感じていた。
こうなってしまった以上、多分捕まるんじゃないかということ。“死神”が何で自分を追いかけているのかおおよそ見当はついている。もし仮に追いつかれたとしたら待っているのはおそらく地獄だろう。たとえ撒いたとしても今まで通りの平和な生活は送れなくなるだろう。
そして気付いた時には、とうとう裏路地の細い道に男は紛れ込んでしまっていた。このような道はすぐに出ないと、行き止まりに当たる可能性が高い。そうすれば必ずあの“死神”に捕まってしまうだろう。
その時の事だった。己の直感通り右に曲がった瞬間、そこで男に恐れていた事が起きてしまう。そう、ついに行き止まりにぶつかってしまったのだ。
(このままではまずい)
そう思った男はぐるり、と周囲を確認する。行き止まりのそこにあるのは積み重なった段ボールに、ビール瓶が入っていたと思われる空き箱、そしてそれらが積み重なっている壁替わりの緑色の高いフェンス。
(あの高さなら飛び越えれる……?)
いや、無理だと男は思った。そのフェンスのみだったら飛び越えられたかもしれないが、積み重なっている箱類を踏み台にしてしまうと大きな音を立ててしまい“死神”にばれる可能性が高いだろう。そう思った男は今ならまだこの来た道を引き返してこの先にある大通りに出れるのではないかと思い、くるり、と向きを変え、足を大きく一歩踏み出そうとした。
しかし、その一歩は出ずに終わってしまう。何故なら、ついに“死神”に見つかってしまったからだ。
月明かりに照らされその容貌が明らかになる。服装は黒のパーカーに黒のスキニーパンツ。全身真っ黒の服装な理由は所々についている赤黒い液体が顔についているからだ。
「あれれーぇ?鬼ごっこは終わりですかぁー?」
ついに、ついに見つかってしまった。早く、早くここから逃げ出さないと。
「…し…、“死神”っ……!!」
情けないくらいに顎は震え、歯と歯はうまくかみ合わず言葉にならない。さらに、恐 怖で足が、身体が全く動かない。ここで、終わってしまうのか。そう思った時だった。
「………“待て”」
低く、囁くような声が響いた。
「……え?」
にたり、と笑っていた"死神"が急に真顔になっている。いや、真顔というよりは拗ねた顔と言った方が正しいのだろうか。男は恐る恐る声の聞こえた方へ震えて強ばった身体をゆっくりと向けた。そこにいたのはーーー。
「来るの早くないですかー、ボスー?」
突如現れた謎の男。“死神”と似たような真っ黒な服装をしているが1つだけ違う点があった。それはフードを深々と被っている事。“死神”と呼ばれる男もフード付きのパーカーを着ているが一切被っていない。そう、まるで顔を隠しているかのように。
「誰だ…?」
男の問いに応えたのは“死神”だった。
「俺の主」
「は……?何言って……」
何言ってやがる。そう男が言い終える前にその言葉は空気に溶けて消えた。男から少し離れていたところにいたはずの“死神”が一瞬のうちに間を詰め、鳩尾を思いっきり殴ったからだ。
「ぐっ……」
かなり強烈な一撃だったそれにより男は顔をしかめ、体勢が崩れかけた。そのまま“死神”は男の腕を強く引き、自身の膝で鳩尾を蹴る。胃液だと思われる液体が口から垂れ、二度も同じ所をやられたせいか男は地べたに蹲った。その無様な格好に“死神”は愉快そうに顔を歪めながら問う。
「アハハッ、なぁんでぇそんな体勢になってんのォ?あんただってぇ、ボク達と似たようなことぉしてんじゃん?あれぇ、もしかしてぇやられた事ないんですかぁ?」
「………」
「えーっ、無視ですかぁ?」
「そこまで、だよ」
今の今まで黙っていた謎の男がそう言い、一歩ずつゆっくりと優雅に男と“死神”の元へ近づいていく。彼から漂う謎の威圧感に圧倒され、男はジリジリと後ずさる。
「………ねぇ」
「ひっ……」
「うわーぁ、怖がられてるじゃないですか~」
先程の不気味な笑みではなくクスクスと笑いはじめる“死神”。
「……取引しない?」
「と…りひき?」
うん、と頷きながら少しずつ男の元へと距離を縮めていく謎の男。怯える男は身体が全く動かないらしく、ついに彼等の間は歩幅一つ分の距離になる。露わになった謎の男の顔を見た瞬間男は驚いた。すっと通った綺麗な鼻筋、薄桃色をした薄い唇、雪原のように日焼け一つない純白の肌、そして…ブラウンとヘーゼルの瞳。
「あぁ…驚いた?オッドアイなんだ、この瞳」
そう微笑するその男。その瞳に見惚れてしまっていたのは言わないでおこうと男は心の内で呟く。
「あ、そうだ。取引についてなんだけど……」
耳元で囁かれた内容に男は驚愕して目を見張る。その様子が余程面白かったのかクスクスと笑い始める謎の男と”死神”。
「あんた…一体何者だ」
そう男が問うと、唇に笑みを残したまま謎の男は背を向け何処かに立ち去ろうとする。そして少しだけ顔を男の方に向け、口を開いた。
「そうだな……」
その男が零した名は空気に溶けて消え、2人はその場から立ち去っていく。
そこに残された男は茫然とその場に座りつくし、気付いた時には真っ暗だった空がスミレ色になっていた。