諸説ある小説
小説を読んだことのない某出版社の編集者、藍川とめどと、超有名作家、光峯前後郎の他愛もない会話。
某有名出版社に就職して早くも3年が経過したが、私は今まで小説というものを読んだことが無い。勿論これは嘘で、むしろ実際はかなりの量に手を出している。濫読派であるため漫画は読まないが、基本的に最低限公式に小説と呼べるものならば偏見なく、編集者として恥じない程度の読書はしていると自負している。
「ならば、どうして小説を読んだことが無い、なんて言うのです」
私の今の担当作家で最も古株の、六十代過ぎの紳士として有名な、光峯前後郎先生は、まるで学校教師のように私の独白に答えた。光峯先生の得意とするのは、江戸時代などの過去の時代における推理小説である。現代の読書傾向とはずいぶんそぐわないものだったが、これが世間から大絶賛を受けた。テレビ番組でも何度も取り上げられ、過去に何度か映画化され、はたまたドラマ化、アニメ化もされ、来月にまた有名俳優主演でドラマが始まるらしい。このように人気のとどまるところを知らない大物作家である。私が初めて編集になった時に初めて付いた作家で、デビューし、当時からずっと担当をさせてもらっている。
「私の読み方が悪いのかもしれませんが、これが小説だ!という感覚を今まで一度も味わったことがないんです」
「成程、それは読み方ではなく作家に問題があるようですな」
光峯先生は静かに笑いながら言った。
「いえ…そんなことは…」
「いえいえ、遠慮せずとも実際そうなのですよ、藍川さん。私たちの作品、いえ作品などと洒落た表現を使うのはやめましょうか、私たち作家の原稿は、どのようにして小説となっているか、は御存じですね」
ええと、作家が原稿を執筆し、編集とともにそれを手直し、イラストレーターやフォントを選び、著者の校正。イラストチェックを終え、見本が到着して、晴れて出版。その後印刷料などの振込み。その過程を経て、原稿に書かれた文字の羅列は、やっと小説という体をなして、人々の目に留まっていくようになる。
「藍川さんが思っている通りの手順だと思います。しかし、その過程の中には、その小説が確実に小説である、と決定する項目は無いのです。賞を選ぶのは貴女がた編集者の、誤解を恐れずに言えば独断と偏見によって選別されるわけですからね」
とは言いますが、実際そこまで過酷な選別戦争が繰り広げられているわけではないのでしょう―――、と光峯先生は続けた。確かに、応募された小説の7割もしくは8割は、ページが抜けていたり、応募要項すら守っていなかったり、添削を目的としていたり、もはや物語として成立していなかったりと、あまりに不完全な状態で送られている。
「よくありますね。自分に酔っている、なんて言ったら失礼なんですけれど、とりあえず文字だけ並べておいて終盤まで鬱陶しくつづけて、最後だけいい感じにまとめることによって自分は小説を書いたんだ、という満足感に浸っているのが見え見えな人。こういうタイプが新人賞に多かったです。ですから、独断と偏見というより選ぶべくして選ばれた、と言いましょうか」
とは言ったものの、編集者側でも『選ぶべき』ものを選べない時もあり、そういう場合はその作家のその後の作品の評価に現れるようだ。光峯先生は少し考えた後、
「新人賞をとっただけでそれから創作に関わることをしなくなる、なんて作家さんもいるのでしょう?その人が飽きてしまったのか、別の仕事を見つけたのかは定かではありませんが、それは賢明な判断なのです。もっとも、そういう方は編集者の方が見抜いているのでしょうが…ね」
この場合、賢くて物事の判断が適切、という意味の賢明の方の用い方だろう。
受賞者が作家に向いていないと自覚することを、光峯先生は賢明と表現したが、なるほどなかなか的確な言葉だなあと思った。
私が担当した作家先生のほとんどは、『作家なんてなるべきではない』と口を揃えて仰っている。確かに考えてみればこれほどまでに、自分の努力が反映されるか分からない職業も珍しい。そんな職業に自ら就きたいとする者は、最早自殺志願者と同系列なのだ。
「どんな仕事であれ、創作者はある程度のリスクの中で生きています。私の小説だって今から一分後に世界中全員がゴミ箱に捨てるかもしれませんしね…いえ流石に極端すぎましたか…結局、小説など、その人がどう思ったか、で決まってしまうのですよ」
「私のように文字の羅列としか認識できない、というのも…」
「ええ、それは藍川さんの思いです。貴女がそう思っていれば、貴女にとってはそういうものなのです。しかし、作家が小説として書いたものを小説とすら思われない、というのは私も初めてでしたよ。しかも担当編集さんからね。こりゃまいった」
先生は苦笑しながら言う。
今更ながら、担当作家の、しかも有名作家の前でなんてことを口走ってしまったんだろうという後悔の念が、私の中でやっと芽生え始めた。
「あ…あの光峯せんせ…」
「いえ、実際そんなものです。どれだけ自分で傑作だと思っていたものでも、決して他人とはそれは共有できませんからね。自分の書いた小説を読者目線で読めないという作家自身のジレンマというのもありますね。どうしても客観視できなくなってしまうんです。ですが」
少々悔しいですね―――と、先生は言った。
特に口調は変化していない。だが、ただならぬ妖気を感じて私は顔を上げた。
先生には失礼極まりないことだが、私は小説と呼べる小説を読んだことが無い。それを読んで感動したことが無い。明朝体の羅列だと思って、興奮できない。本来なら編集者としてあるまじき私なのだ。
しかし、そんな告白を前にして光峯前後郎先生は、藍川とめどという、デビュー時からずっと担当している編集者の私をじっと見ている。それは紳士的な通常の姿勢であるが、その目はもはや老人のそれではなかった。灼熱地獄のように熱く、また永久凍土のような冷徹さをもっていて。
そうだ、そうだった。すっかり忘却していた。この先生がどうしてここまで大物の作家になったのかを。どうして決してあきらめることなくここまで辿り着いたのかを。この先生の信念がどれだけ荘厳であるのかは、長年担当だった私は日々痛感していたというのに。
「ならば、見せて差し上げましょう。作家、光峯前後郎の全身全霊をかけた、命を懸けた、かけがえのない、藍川さんが生まれて初めて見ることになる本物の小説を」
この人を心待ちにしていた言っても過言ではない。そしてこれは虚言ではない。目の前の老人紳士の名作家、光峯前後郎には、それだけの力量と、努力値と、覚悟があった。
涙を堪えながら、私は尋ねた。
「私が一番に読んでもいいんですか?」
それに対し、光峯先生はいつものように応えてくれた。
「勿論ですとも。貴女は私の編集者ですよ、藍川さん」