予兆
何故逃げているのか。
何から逃げているのか。
解らないまま俺は逃げていた。
黒い靄が視界を濁らせる中、声が響いた。
『こっちだ!早く!』
正面に有るのは駅だ。
その改札へ続くのであろう階段の中腹辺りで、男が大きく手招きをしていた。
すがり付く思いで階段前にたどり着き、一段目に足を掛ける。
しかし、次の一歩は踏み出せなかった。
俺を呼んでいた男の真後ろに、「奴」は立っていたから。
『危な…ッ』
言い終わる前に、真っ赤な液体が飛び散った。
倒れた男の首元からは、どくりどくりと赤い噴水が断続的に溢れ出る。
生きたままかっ捌かれた喉から漏れ出るひゅうひゅうという苦し気な呼吸音が、やたらと大きく耳に響いた。
『ッ!!』
不意に「奴」の視線が上向く。
底無し沼の様な暗い瞳が俺を捉えた。
そうだ、俺は「奴」から逃げているのか。
見据えられたまま動けない状態で、何処か他人事のように俺は納得した。
『やっと…諦めたのか…?』
一段、一段。
赤く濡れたスニーカーが距離を詰めてくる。
少しずつ「奴」の姿が見えてきた。
真っ白であっただろうパーカー、黒いジーンズ。
しかし顔はパーカーのフードに隠れて良く見えなかった。
声と体格で恐らく男だろうと解る程度だ。
『諦め…る?』
『その方が楽だろう?』
「奴」の手には鈍く光るサバイバルナイフ。
諦める、ということは。
『俺に死ねって…?』
『ー…は、…で、良いと言っているんだ。』
急に「奴」の台詞にノイズが混じる。
聞き取れなくなった言葉がもどかしくて、俺は気付かない間に一歩距離を縮めていた。
『だから、…に…て…ればいい。それが出来ないなら…』
「奴」が笑った。
『いっそ、消えろ…』
胸に突き立てられたナイフ。
突如襲う浮遊感。
痛みを感じる間もなく俺は意識を手放した。
ピピピ…
鳴り止まない携帯電話のアラーム。
汗にまみれた身体を起こし、先程までのが夢だったと理解した。
やけにリアルな夢だった。
誰も居ない部屋で大きく息を吐き出す。
そうする事で何とか気を落ち着ける事が出来た。
まだ鉛の様に重たい身体を引き摺って、風呂場へと向かう。
蛇口を捻り、湯になりきらないままの水を勢い良く頭へぶちまけた。
徐々に冷えていく頭。
漸くまともに思考回路が働きだした。
(あの場所は…昔住んでた地元か…)
今となっては実家も無いので行くこともない場所。
何故今更あんな場所が夢の舞台になったのか。
(あの白いパーカーとジーンズ…スニーカー…見覚えがある…)
何処かで見た気がするが、それは思い出せない。
気持ちの悪さだけが腹の中に残って思わずえずいた。
気分は最悪なままだったが、たかが夢で仕事を休む訳にはいかない。
ノロノロと緩慢な動作でスーツを羽織り、ビジネスバッグを片手に俺は家を出た。
マンションのエントランスを出ると、大家と住人らしき年配の女性が立っていた。
無視する訳にもいかないので、その背中に挨拶をする。
「おはようございます。」
「っ、あぁ…橘さん、おはようございます」
「どうかされたんですか?」
「それがねぇ…朝ゴミを捨てようと思ったら、ごみステーションが大変な事になってて…」
「はぁ…」
年配の女性の方が答えてくれたのだが、その顔色は真っ青だった。
口にするのも気が引けるのか、それっきり口を嗣ぐんでしまった彼女の後を継ぐように大家が言葉を続けた。
「猫の死骸がな、捨てられとったんよ…」
「猫…ですか?」
「あぁ。しかも一匹じゃない。何匹かは…数える気にもなれん…酷い事にバラバラにされとるみたいでな、見てくるか?」
大家が溜め息を吐いた。
流石に確認する根性は無いので、俺は首を横に勢い良く振った。
「そういう訳だから、警察に今通報した所だよ。橘さんも不審者には充分注意してくれよ?」
「はは…まぁ、気を付けます。」
夢の内容が内容だっただけにぞっとする話だ。
今日はなるべく早めに帰ろうと心に決めて、俺は会社への道を急いだ。
最寄りの駅に着くと改札は人でごった返していた。
駅の電光掲示板には「人身事故」の文字。
とことん今日はついてない。
俺は小さく舌打ちをした。
辛うじて普通電車は動いているようなので、意を決して人混みの中へ飛び込む。
ホームには警察官らしき姿がちらほらと見てとれた。
自殺にしては些か数が多い気がする。
何か事件性が有ったのだろうか?
変な所で野次馬根性が出てきて、俺は思わず隣にいた同年代位のサラリーマンに声を掛けていた。
「何か有ったんスか?」
「あー何かホームレスが線路に落ちてたらしいッスよ」
「へぇ、酔っぱらいかな?」
「いや、どうも手足を縛られて線路上に放置されたらしくて、始発電車にはねられてこの有り様みたいな」
「成る程…それで警察が多いのか…」
「お互い大変ですよね、ただでさえ通勤ラッシュなのに。犯人を恨みたくもなりますよ」
「確かに。」
気の良い人だったので、その後も会社の最寄り駅まで色々話した。
お陰で憂鬱だった気分は何時の間にか少し晴れていた。
「橘ー!」
「おぅ、おはよう梁川。」
「お前地下鉄だったろ?大変だったなぁ」
「本当、朝から気分悪いよ。」
偶然会った同僚と話ながらオフィスへ向かう。
エレベーターに乗り込み目的の階で降りたとき、妙な人だかりが出来ていた。
嫌な予感が身体を駆け巡る。
「おっす原!何?この人だかりー」
「あ…梁川…と橘…」
振り返った同期の原は、俺の顔を見た瞬間表情を歪めた。
嫌な予感は確信へ変わる。
「あ、朝来たらさ…橘のデスクが…」
原が身体をずらした所為で見えた自分のデスクに愕然とした。
デスクの上に有った書類はカッターのようなもので切り裂かれている。
無造作に開かれたノートパソコンは何故かワードが立ち上げられており、真っ赤な文字が不気味に羅列されていた。
『消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ…』
それを見た瞬間ぞわりと悪寒が走った。
無理矢理パソコンの電源を落とし、画面を乱暴に伏せた。
「何だよ、これ…悪趣味…」
「橘、取り敢えず警察に来てもらってるから」
上司に促されるまま応接室の方へ通される。
柔らかいソファーに身を沈めながら考えた。
あの夢を見てからおかしい。
見えない何かが迫ってきているようだ。
猫の死骸も。
線路に落ちたホームレスも。
全部俺に見せる目的だったとしたら…
そこまで考えて、俺は首を小さく横に振った。
いくらなんでも全てを繋げるのは馬鹿馬鹿し過ぎる。
もう一度頭を振った所で刑事らしき人物が二人応接室に入ってきた。
「すいません、お忙しい所。」
「いえお構い無く…」
「では手短に、」
手帳を取りだした年配の刑事が目の前に座った。
「何か恨まれるような心当たりは?」
「…無い、と思います…」
「率直に申し上げて、身近な人間の犯行であると我々はふんでます。」
だろうな、と思った。
そもそもあのノートパソコンは会社のIDが無いと立ち上げられない。
しかし、考えてみても普通の仕事しかしてなくて出世の文字すら見えてない自分を恨む人物に心当たりなんて無かった。
「それは、俺も不思議で…」
「…そうですか。では最後に、あなたが昨日退社したのは何時ですか?」
「昨日は…1人で残業してましたが、10時頃に退社したと思います。それが何か…?」
「…」
刑事が手帳に目を落とし、黙り混んだ。
少し考え込んだ後、言いにくそうに口を開いた。
「パソコンの履歴を先程確認したのですが…9時55分にあなたのIDでログアウトしてました。そしてその6分後の10時01分に再びあなたのIDでログインされてます。」
「は…?」
「だから、何者かがあなたがオフィスを出た直ぐ後にあなたのパソコンを使用したということです。誰かとすれ違ったとか、誰か残っていたとかは無かったですか?」
思い返してみても誰かがいた記憶は無い。
すれ違った記憶も。
「…すいません、無いです…」
「解りました。しかし、嫌がらせにしては些か悪質すぎます。不審な事が有りましたら此所に連絡下さい。」
刑事が名刺を取り出し手渡された。
素直にそれを受け取ると名刺入れに仕舞う。
ホームレスの事は別として、猫の事を言おうかと一瞬悩んでから止めた。
口にするのはやはり躊躇われる。
代わりに深々と頭を下げて二人を見送った。
「災難だったな、」
「本当にな。何だって俺が…」
喫煙所で思わず梁川に愚痴が零れる。
煙草を燻らせながら煙混じりの溜め息を吐き出すと、梁川が苦笑いしながらコーヒーを差し出してきた。
「まぁ、恨まれるのは魅力的な証拠ってな。」
「んな魅力的なとこ俺にねぇだろ…別に仕事出来る訳でもなし…」
「仕事だけが魅力じゃないだろ?お前顔はそこそこ良いんだから女関係ってのも考えられんじゃね?」
「彼女も居ねぇのに?」
入社してから、受付嬢の加奈子と約1年程付き合ったがどうも合わず一昨年別れた。
しかも彼女は今営業課の男と付き合っていた筈だ。
やはり恨まれる謂れは無いように思える。
「うーん…例えばさぁ、お前の事を好きな子がいるとしよう。」
「はぁ…」
「んで、その子の事を好きな男がいる。となるとお前は邪魔だよな?」
「すげぇ逆恨みだな…」
「そんなもんだろ、人の恨みなんて。」
やけに具体的な例を出してきた梁川に思考が止まる。
何故コイツはこんな話をする…?
仮にコイツの話に出てきた男がコイツ自身だとしたら?
コイツなら俺のIDを手に入れるなんて簡単だろう?
そこまで考えて、ぞっとした。
酷い疑心暗鬼だ。
証拠も無いのに同僚を疑って。
「橘?」
「いや、悪い…何でも無い。俺、先に戻るな。」
「そか、」
震える手で喫煙所のドアを開ける。
ドアを潜る時に、背後で誰かが笑った気がした。




