第2章:作家の寝室と、背徳の予感
麗奈の提案は、あまりにも非現実的で、あまりにも甘美だった。
小説の題材。俺は、彼女の創作意欲を満たすための一時的な道具に過ぎない。
理性ではそう理解していたのに、拒否する言葉は喉の奥に引っかかって出てこなかった。
「……題材、か」
俺はかすれた声で繰り返した。
「そうよ。題材。この三十年間、私という『家族』の影に隠れて、性を知らずに育った男の純粋さと、それが破壊される瞬間。最高のテーマじゃない?」
麗奈の瞳は、作家特有の探求心と、女性としての愉悦を同時に湛えていた。
彼女は、俺の童貞という秘密を暴いたことで、すでに物語の扉を開けてしまったのだ。
「場所は……どこにする?」
俺は、もう後戻りできないことを悟り、覚悟を決めて尋ねた。
「私のマンションに来なさい。どうせ、淳史との離婚後、誰にも立ち入らせてないから、静かで邪魔も入らない」
淳史の名前が、俺たちの間に、重い鉛のように横たわった。
麗奈の元夫であり、俺の親友。
その二人が暮らした場所で、俺は麗奈に筆下ろしをしてもらう。
これは、倫理観を完全に踏みにじる禁断の行為だった。
「淳史には……」
「言わないわよ。彼とはもう縁を切っている。それに、これは私たちの秘密の儀式。誰にも知られる必要はない」
麗奈は立ち上がり、会計を済ませると、迷いのない足取りで居酒屋を出た。
俺は、その完璧な横顔を見つめながら、罪悪感と興奮のジェットコースターに乗せられているような感覚に陥っていた。
深夜のタクシーの中、隣に座る麗奈からは、微かに甘い香水と、アルコールの匂いが混じり合って漂ってくる。
その香りだけで、俺の心臓は異常な速さで鼓動していた。
麗奈のマンションに着くと、広々としたリビングは、間接照明と、窓の外の夜景に照らされていた。
彼女の書斎には、読みかけの書籍が積み上げられ、知的な空気が充満していた。
「さあ、秀樹。まずはシャワーを浴びてきなさい」
麗奈は、まるで儀式を司る巫女のように、静かに俺を促した。
その声には、からかいの色は消え失せ、代わりに、厳かな期待が込められていた。
俺が浴室に向かう間、麗奈はキッチンでグラスに水を注いでいた。
彼女の背中を見つめる。
結婚していた頃、淳史と共にこの部屋を訪れたことが何度かある。
その時は、麗奈はいつも人妻としての明るい笑顔を浮かべていた。
だが、今の麗奈は違う。
小説家として、一人の女性として、研ぎ澄まされた鋭い色気を放っている。
シャワーを浴びている間も、緊張で身体が熱を持つ。
鏡に映る自分の顔は、青ざめていた。
三十年間、誰にも触れさせなかった、男としての未熟さ。
それが、今夜、全て暴かれ、そして塗り替えられるのだ。
相手は、この世で一番愛し、同時に一番恐れている女性。
リビングに戻ると、麗奈はローテーブルの前に座り、グラスを手に、俺を待っていた。
彼女は、薄いシルクのガウンを羽織っており、その下には何も着ていないことが、俺にはわかっていた。ガウンの切れ目から覗く、滑らかな肌と、鎖骨のライン。
「秀樹。こっちに来て」
麗奈に呼ばれ、俺は、生唾を飲み込みながら、彼女の正面に座った。
麗奈は、俺の手をそっと取り、掌を上に向かせた。
「怖い?」
「……怖い、っていうより、夢みたいだ」俺は正直に答えた。
麗奈はふっと笑い、その指先で、俺の掌の生命線を辿った。
「そうね。これは、誰にも書けない、私たちだけの小説だもの」
そして、彼女は顔を近づけ、低い声で囁いた。
「いい? 秀樹。あんたの全てを、私に預けなさい。私は、あんたが抱えてきた孤独もコンプレックスも、全て飲み込んで、新しい男にしてあげる」
その言葉は、俺の心の最も脆い部分に深く突き刺さった。
孤独。
そうだ。麗奈が淳史と結婚して以来、俺はずっと、この恋を隠し通す孤独を抱えて生きてきた。
麗奈は、ゆっくりとガウンの帯に手をかけた。
「さあ、私の『題材』。教えてちょうだい。あなたが三十年間、私に隠してきた熱を」
ガウンがはらりと床に落ちる。
そこに現れた麗奈の肢体は、月明かりを浴びて、完全な芸術品のように輝いていた。




