第1章:三十路の童貞、禁断の懇願
「まさか、三十路になっても童貞だったなんて。ちょっと引くわ、秀樹」
居酒屋のざわめきの中で、俺——吉沢秀樹は、目の前の幼馴染——北川麗奈に、冷たく、それでいてどこか面白がるような視線を浴びせられていた。
麗奈は、昔から誰もが振り返るほどの美貌の持ち主だ。
しなやかな黒髪に、切れ長の瞳。
今は人気小説家として活躍し、その知性と美しさはさらに磨きがかかっている。
一方の俺は、平凡なサラリーマン。
大学卒業後、実家の小さな印刷会社に入り、特に波風のない人生を歩んできた。
ついさっき、酔っ払った勢いで、つい口を滑らせてしまったのだ。
三十年間、誰にも言えなかった秘密を。
麗奈は、枝豆を摘まみながら、くすくすと笑う。
その笑い声は、周囲の喧騒をも切り裂くような、透き通った音色だったが、俺の耳にはチクリと刺さる棘のようだった。
「だってさ、秀樹。高校の時だって、大学の時だって、私には色んな噂が入ってきてたのよ? あの『高嶺の花』の麗奈と、いつも一緒にいる男の子、って。もしかしたら二人はデキてるんじゃないか、なんて言われてたんだから」
「そんなの、ただの憶測だろ。お前と俺は、ただの家族みたいなもんだ」
「ふふ、家族、ね。でもね、秀樹。私がずっと傍にいたから、他の女に興味が持てなかった、とか言ったら、少しは慰めになった?」
麗奈の言葉は、慰めどころか、俺の心の奥底に封印していた禁断の想いを、容赦なく抉り出す。
そうだ。
俺が他の女性に目を向けられなかったのは、いつだって麗奈の存在が、俺の心を独占していたからだ。
しかし、麗奈は俺にとって、あまりにも遠い存在だった。
麗奈は俺の親友である淳史と付き合い、結婚し、そして三年前に離婚した。
その間も、俺はただの「幼馴染」として、彼女の傍にいただけだ。
彼女への想いを告白するなんて、淳史への裏切りだと思ったし、何より、この「家族」という居場所を失うのが恐ろしかった。
「冗談はよせよ、麗奈。俺が他の女に興味を持てなかったのは、単に俺に魅力がなかっただけだ」
精一杯の強がりを言ったが、麗奈は俺の目を見据えて、真面目な顔になった。
「本当に、未経験なのね。筆下ろし……誰にもされてないのね、秀樹」
その瞬間、俺の胸に、長年の屈辱と、麗奈への切望が、激しく渦巻いた。
三十年間、ずっと隠し続けてきたコンプレックス。
それを、今、一番大切な幼馴染に、からかい混じりの口調で指摘されている。
麗奈は、男を知っている女だ。
小説家として、人間の心の機微や、男女の愛憎を深く理解している。
そんな彼女に、俺のこの惨めな現状を突きつけられるのが、たまらなく悔しかった。
その時、酔いが回りきった俺の口から、信じられない言葉が飛び出した。
「麗奈……頼む。俺の筆下ろしを、お前にしてほしい」
居酒屋の喧騒が一瞬遠のき、麗奈の瞳が大きく見開かれた。
その表情には、驚き、戸惑い、そして……微かな興味の色が混じっていた。
「秀樹……今、なんて言ったの?」
「聞こえなかったのか? 俺の……俺の初めてを、お前に捧げたい。お前になら……バカにされたままで終わるのは嫌だ。お前に、男として認められたい」
それは、三十年分の積年の想いと切実な願いが混ざり合った、禁断の懇願だった。
麗奈は、グラスに残ったビールを一気に飲み干し、静かに答えた。
「……ふふ。あんた、本当にバカね。いいわ、秀樹。どうせ私だって、最近はネタ切れ気味で刺激が欲しかったところよ。ただし……」
麗奈の唇が、蠱惑的な弧を描く。
「ただし、これは『家族の儀式』なんかじゃない。これは、小説のテーマよ。あんたは、私の最新作の『題材』として、私に抱かれることになるわ」
俺の胸は、期待と罪悪感、そして得体の知れない興奮で、激しく脈打ち始めた。




