第25話 謙虚なおっさん、女神の天罰を回避する
その日、アルカディア王国の地下通路は、いつもと違う神聖な光に満ちていた。
湿った石壁に純白の光が揺らぎ、カビ臭い空気までもが清められたように感じられた。鎖の鈍い金属音も、その光の中ではどこか遠くで響くようだった。
誠一が、ごく自然な流れで【スティール】を使い、女神アクア・ディアーナから純白のレースショーツを奪ったのだ。
それはもはや、彼にとって呼吸をするようなものだった。
ふわりと、空から舞い降りる白い羽根のように、あるいは夜明けの霞が晴れるように、パンツを奪われた女神は、まるで水面に咲く一輪の花のように、誠一のいる城の地下牢へと召喚された。
「今度はまた、どんなくだらない用事で呼び出したのですか?」
女神は、ため息交じりにジト目で誠一を睨んだ。
その透き通るような青い瞳には、呆れと諦めが混じり合っている。どこか疲れたような、しかし慣れきった表情は、まるで長年の腐れ縁のようだ。
「あっ、お疲れ様です。女神様――今回は真面目な用事です!」
誠一は、バカげた用事で女神を呼び出し、あーだこーだ言いながら戯れたいだけのおっさんではない。
彼は昨日、魔族ベリアルとの戦闘で負傷したシルヴィアの治療をお願いしたかったのだ。
誠一はアリア姫とセレニア王妃と協力し、傷ついたシルヴィアを人目のつかない地下通路まで運んでいた。彼女の騎士服はべっとりと血で赤黒く染まっている。浅い呼吸が、痛々しく胸郭を揺らしていた。床に滴る血の匂いが、一層痛ましさを際立たせる。
その傷を治してもらうために女神を召喚したのだ。
他にも城には負傷者がいたが、彼ら全員の治療まで女神にお願いするのは、さすがに「やりすぎ」のように思えた。幸いなことに、ベリアルは人間を奴隷にするつもりだったので、致命傷を負っている者はいない。
これは、神に奇跡を頼むほどの「絶体絶命の危機」ではない、と誠一は判断した。
誠一はこの世界に転移してから此の方、神に対する敬意を欠いてはいなかった。
いや、正確には、「使えるものは使うが、相手に嫌われるような真似はしない」という、世渡り上手な凡人タイプ。
「なるほど、彼女の治療ですか。そのくらいならまあ、良いでしょう。……まったく、怪我を負った城の兵士を全員治療してくれなどと言ってきたら、ついイラっとしてこの国に三日三晩大雨を降らせ、大洪水を発生させて懲らしめているところでしたよ」
女神はそう言いながらも、掌から温かい光を放った。
まるで朝焼けの光が差し込むように、あるいは夜空に浮かぶ満月が照らすように、その光がシルヴィアの傷に触れると、見る見るうちに傷口が塞がり、元通りになっていく。血に濡れていた騎士服も、魔法で洗われたかのように綺麗になった。
女神の癒しの光は、まさに奇跡だった。
血の匂いが薄れ、清浄な空気が満ちる。
「さすが女神様! 治癒能力も半端ないですね!」
神罰にビビった誠一は、内心でわざとらしく大げさに女神を褒める。表情筋がぴくぴく痙攣するのを必死で抑えながら、口角をこれ以上ないほど吊り上げた。
「いやぁ、やはり謙虚に『知り合いだけ治療して』と頼んだ俺の判断は正解だったようですね! 常日頃から女神さまに対する感謝を忘れたことはありませんよ! ね、女神様?」
誠一は、これ以上ないという満面の笑みで女神に媚びる。その笑顔は、まるで貼り付けたような、しかしどこか必死な胡散臭さを漂わせていた。
「何が謙虚ですか、ショーツを盗んでおいて偉そうに……」
女神はジト目で誠一を睨んだ。
その視線は、誠一の魂胆をすべて見透かしているかのようだ。
氷のような視線が、誠一の軽薄な笑顔を射抜く。まるで額に直接、冷たい指を突きつけられたような錯覚に陥る。
「だって愛しの女神さまに会いたいじゃないですか! 会いたければパンツを盗むしかないんですよ!」
誠一は、両手を広げて力説する。
もはや開き直りだった。
観念したような、しかしどこか満足げな表情で、まるで舞台役者のように身振り手振りを加える。
「まあ、良いですけどね。あなたの馬鹿は今に始まったことではないですから」
女神は呆れながらそう言ったが、その頬は、ごくわずかに赤らんでいた。
まるで夕焼けの雲の切れ間のような、淡い赤色。
その一瞬の赤みが、地下牢の白い光の中で、奇妙なほど温かく映った。そして、どこか楽しそうにも見えた。彼女もまた、誠一とのこの奇妙な関係を、まんざらでもないと思っているようだった。
***
女神が去った後、誠一は王妃とアリア姫、そして治療を終えたばかりのシルヴィアに囲まれていた。三人の女性の視線が、誠一に集中する。
それは、まるで彼が伝説の英雄か何かであるかのような、尊敬と賞賛の眼差しだった。地下牢の薄暗がりの中でも、彼女たちの瞳は星のように輝きを放っていた。その熱い視線が、誠一の頬をじんわりと温める。
「それにしても、誠一さまはお強かったですわね! あの恐ろしい魔族を退けるなんて、びっくりしてしまいました!」
アリア姫が、瞳を輝かせながら誠一を褒めた。
その小さな手は、興奮で小さく握られている。頬は桜色に染まり、声には明確な高揚が感じられた。まるで初めて見る花火に感動する少女のようだ。
「そんな、俺なんて、ただのおっさんですよ……ハハハ……」
誠一は褒められて、だらしなくにやけながら言葉を返した。
しかし、彼の頬はわずかに緩み、内心では悪い気はしなかった。
「もっと褒めてくれてもいいんだぜ?」という心の声が、喉元まで出かかっていた。口元は謙遜しながらも、目尻はとろけそうに下がっている。まるで猫が喉を鳴らすような、密かな喜びが全身から滲み出ていた。
「そんなことありませんわ。城の兵士が束になってかかっても、手も足も出なかったというのに、お一人で退けたのですもの。まさに、この国の守護者ですわ!」
セレニア王妃も優雅に微笑みながら、誠一を褒めちぎる。
その言葉は、誠一の耳には甘い蜜のように響いた。
彼女の穏やかな声が、地下牢の冷たい空気を温めるようだった。その微笑みは、熟練の外交官のように隙がなく、しかし親しみやすさを感じさせた。
「そうです、恥ずかしながら私も、あの魔族には軽くあしらわれてしまいました。誠一殿はいつの間にか、私よりはるかに強くなっていたのだな……」
シルヴィアも、複雑な表情を浮かべながら、誠一を称賛した。
彼女の視線には、かつて見下していた相手への驚きと、素直な尊敬の念が混じり合っていた。わずかに伏せられた視線に、彼女の悔しさとも敬意ともとれる感情が揺れる。その声には、武人としての率直な賞賛と、微かな自嘲が入り混じっていた。
「いやいやいや、俺なんて本当に、ただのおっさんですって……!」
誠一は、その言葉を何度も繰り返した。
本当にその通りなのだが、三人の女性は、誠一を尊敬の眼差しで見つめ続けていた。彼らの目には、誠一が「ただのおっさん」などでは決してなく、危機を救った真の英雄と映っているようだった。
その視線は、誠一の耳には、まるで高揚を誘う音楽のように響いた。彼は、この居心地の良さと、ほんの少しの罪悪感の間で揺れていた。
女神アクア・ディアーナは、誠一がただのおっさんであることは分かっていた。
そして、彼の強さが、単なる「剣術のスティール」による一時的なものだということも。しかし、あえて訂正はしなかった。
誠一にようやく訪れた、この人生初の「モテ期」に水を差すことはないと判断したのだろう。彼女は、透明な瞳の奥に微かな笑みを湛え、まるで子供たちの遊びを見守る親のように、静かに誠一と三人の女性たちのやり取りを天界から見守っていた。
***
それから三日後――。
誠一は王様から、玉座の間への呼び出しを受けた。地下牢の鉄格子越しに、王宮の華やかな喧騒が微かに聞こえてくる。普段は静かな地下牢にも、どこか慌ただしい足音が響く。
『誠一さま、聞こえますか? お父さまがお話があるそうなので、玉座の間までお越しいただけますか?』
アリア姫からの念話だった。
澄んだ声が直接、脳内に響く。
耳元で囁かれたかのような、柔らかな響き。
「王様が? 俺に? はて、何の用だろうか?」
誠一は首を傾げた。
呼び出されて叱られるような心当たりは一切ない。
むしろ、ベリアルを追い払ったのだから褒めてもらいたいくらいだ。
(となると、ご褒美をもらえるのか? でも王様は俺のことを嫌っているからな~)
誠一は、いつものように牢屋から出て、王様の元へと向かった。
冷たい石の床が続く長い廊下を歩きながら、彼は小さくため息をついた。廊下の壁に飾られた豪華なタペストリーや、磨き上げられた鎧が、薄暗い廊下で鈍く光る。足元から伝わる冷気が、彼の少し浮かれた気持ちを現実に引き戻すかのようだ。
(面倒なことにならなきゃいいんだけどな……)
彼の心には、少しの不安と、そしてそれ以上の、漠然とした期待感が広がっていた。
玉座の間の巨大な扉が、彼の目の前に大きく立ちはだかる。
その重厚な扉の向こうに何が待っているのか、期待と不安が交錯する奇妙な高揚感が、胸の奥で渦巻いていた。




