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『おっさん、異世界でヒモになる ~パンツを盗んだら、なぜか女神と姫と王妃と女騎士に懐かれました~』  作者: 猫野 にくきゅう


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第21話 臆病勇者と魔剣士ベリアル

 異世界に召喚された高校生勇者――

 鈴木裕也は今、人生最大のピンチを迎えていた。


 彼に関する「臆病者」という噂は、彼の召喚されたアルカディア王国全土へと広がり、街を行く人々から嘲笑の的になっている。冒険者ギルドの掲示板には、彼の臆病さを揶揄する落書きが、日に日に乱暴な筆致で増えている。


 そんな彼だが、聖剣の所有者でもあった。


 彼の右手には、神々しい輝きを秘めた聖剣が握られている。

 この聖剣を装備すると、敵の動きがまるでスローモーションのように、手に取るように把握できるのだ。


 剣自体の切れ味も異常で、素人同然の彼が使っても、鋼鉄の魔物の外皮を切り裂くのは朝飯前だった。


 「ヒュッ」と、軽く振るうだけで風を斬る乾いた音が響き、その刃は冷たく冴えわたる光を放つ。


 だから、彼は魔物退治で意外なほどの実績を積み重ねていた。

 聖剣さえあれば、彼は文字通り大活躍できたのだ。


 しかし、聖剣には困った欠点があった。


 それが、時折、何の前触れもなく消えるというアクシデントだ。それは一日十分間。原因は不明だが、その間はただの男子高校生に戻ってしまう。


「あいつは、肝心なところで逃げる。あれさえ、なけりゃな」

「まあ、強いんだけどな。でも肝心なところで剣が消えるんだよな」

「やたらと、ナンパしてきてウザいです」

「自分がモテるはずだと思ってて、相手するのがしんどい」


 これが勇者・鈴木裕也に対する、冒険者たちの評価である。


 強いのに臆病、そしてモテないと分かっているのにナンパ癖がある。

 とにかく彼は、完全な無能ではなかった。


 そのおかげで、食うに困らないだけの収入と宿代は確保できていた。



 ***


 そんな勇者の元に、ある日、不穏な影が忍び寄る。


 ギルドの木製の扉が「ギィィ」と鈍い音を立てて開いた。

 その軋む音は、どこか不吉な響きを帯びていた。


 そこに現れたのは、魔王軍幹部、ベリアル。


 彼は勇者が出入りしているという冒険者ギルドの情報を掴み、直接乗り込んできたのだ。


 漆黒の全身鎧は、わずかな光さえも吸い込むよう。その表面は、鈍く光る硬質な金属の塊だった。腰には人間一人分はあろうかという巨大な両手剣が、重々しく吊るされている。


 その眼光は鋭く、獲物を射抜く猛禽類のごとし。

 全身から漲る重苦しい魔力は、ギルドの賑やかな空気を一瞬で凍り付かせた。


 室内に満ちていた酒と汗の匂いや人々のざわめきは、泡が弾けるように消え去り、氷のようなピリピリとした緊張感が漂う。


 ベリアルはただの力自慢ではない。


 彼は魔界最強の剣士であり、噂の勇者の実力を見極めるため、自ら手合わせを所望しにやってきたのだ。


「勇者スズキ・ユウヤはどこだ。我は魔王軍幹部ベリアル。勇者との手合わせを所望する」


 ベリアルの低い、響くような声がギルド内に響き渡ると、それまでガヤガヤと賑わっていたギルドは、墓場のように静まり返った。


 冒険者たちは一斉に彼の方を向き、顔色を失う。

 武器に手をかける者もいたが、その威圧感に気圧されて、誰も動けない。室内の空気は、まるで鉛のように重かった。


 裕也はギルドの隅で、依頼書を眺めているふりをしていた。


 心臓がドクドクと不規則に鳴る。

 その鼓動は、まるで警鐘のように彼の耳に響いた。しかし、ここで逃げれば、臆病者の噂がさらに広まり、彼のプライド(もし残っていればだが)はズタズタになるだろう。


「……僕のこと、ですね」


 裕也は意を決して立ち上がり、よろめく足取りでベリアルの方へと歩み寄った。


 ギルドの木製の床を踏むブーツの音が、ひどく大きく聞こえた。

 二人はギルドから出て、街の道の真ん中で向き合う。空はどんよりと鉛色に曇り、今にも雨が降り出しそうな、不穏な空気を漂わせていた。


 道行く人々も足を止め、遠巻きに二人を見守っている。

 その無数の視線が、裕也の背中に突き刺さる。


「ほう、貴様が勇者か。噂に違わぬ臆病そうな面構えよ」


 ベリアルは冷笑を浮かべた。

 その巨大な剣を抜き放つと、「ゴォン!」と重厚な金属音が鳴り響き、足元の砂ぼこりが舞う。その動きは速く、並の剣士では反応すらできないだろう。


 剣の表面には、黒い魔力が薄くまとわりつき、鈍く、しかし禍々しい光を放っていた。


「さあ、始めようではないか、勇者よ」


 決闘が今まさに始まろうとしていた。

 裕也は聖剣を構え、全身の神経を研ぎ澄ます。


 ベリアルの動きは速い。

 しかし、聖剣さえあれば、対応できるはずだ。「これなら、きっと勝てる!」と、わずかな希望が彼の胸に灯った。手のひらに感じる聖剣の確かな重みが、彼に自信を与えた。



 だが、丁度その時だった。


 ――ブォン!


 空間が歪む独特の音が、裕也の耳に届く。

 彼の右手に握られていたはずの聖剣が、まるで煙のように薄れ、キラキラとした無数の光の粒となって、宙に溶けるように消え去ってしまったのだ。


 いつもは安心感をくれる聖剣の重みが、手のひらから完全に失われた。

 握りしめた拳は、空虚な軽さだけを残す。


「なっ!?」


 裕也の顔から血の気が引いた。

 土気色の顔に、冷や汗が噴き出す。


「くっ、やはり、悪霊となったおっさんが、俺の邪魔を!」


 彼の頭の中が真っ白になる。


 目の前のベリアルの顔が、凶悪な魔王にでも見えた。全身の毛穴という毛穴が凍りつくような悪寒が走る。


(聖剣がなければ、こんな化け物と戦って勝てるわけがない。絶対に無理だ。何とか時間を稼がなければ……! そうだ、日にちを改めてもらおう!)


 裕也の脳裏には、生存戦略が瞬時に構築される。

 彼の臆病な本能が、最善策を導き出したのだ。生き残るためなら、プライドなどどうでもよかった。


「いっ、いだだだだだ!!」


 裕也は腹を抑えて、突然、その場にうずくまった。


 顔を真っ青にして、冷や汗をだらだらと流す。

 身体を丸め、まるで激痛に耐えているかのように苦しげな声を出す。その演技は、我ながら完璧だと思った。「これで騙されてくれ!」と、心の中で必死に祈る。


「急に、おなかが痛くなった。これは、病気だ! 不治の病かもしれない! このままでは満足に戦えない。一旦、休戦にして、後日改めて戦おうではないか。お前とて、万全の状態の俺と戦いたいのだろう?」


 裕也は必死に演技をする。


 声は震え、表情は苦痛に歪んでいる。

 しかし、その目は、ベリアルの反応をうかがうように、わずかにきらめいていた。「頼む、信じてくれ……!」と、彼の心は叫んでいた。


 ベリアルは、勇者の小芝居を冷たい目で見抜いていた。

 彼の顔には、呆れと侮蔑の色が浮かんでいる。その表情は、まるで汚いものを見るような眼差しだった。


「……何が勇者だ。ただの臆病者ではないか」


 ベリアルは深く失望したように呟いた。


 肩を落とし、腰の剣を「カチャリ」と音もなく鞘に収める。その動作には、もはや裕也への興味など微塵もないことが見て取れた。


「ち、違う。本当にお腹が……ぐぇ!」

「黙れ、ゴミめ」


 彼にとって、こんな醜態を晒す勇者と戦うことに意味はなかった。


 時間の無駄だとでも言うように、ベリアルは踵を返し、その場を立ち去った。

 裕也は、その背中が遠ざかるのを確認して、ようやく大きく息を吐いた。安堵の息が、冷たい風となって彼の口から漏れた。



 ***


 ベリアルはそのまま魔王城へと帰還し、魔王に報告した。


 薄暗い玉座の間には、湿った、重苦しい空気が満ちている。魔王マモンが座る玉座は、黒曜石でできており、その威圧感を一層引き立てていた。


「魔王様。勇者は臆病者でした。戦う価値もありません」


 魔王マモンは、その報告を聞き、玉座に深く腰掛けた。


 分厚い肉体から、不穏な魔力が立ち上り、周囲の空間を震わせる。

 その威圧感は、ベリアルでさえ背筋が凍るほどだ。巨大な角が、薄暗い部屋の影に溶け込み、赤い瞳だけが暗闇で怪しく光っていた。


「ほう……勇者など、恐るるに足らず、か」


 マモンの目的は人間を奴隷として飼いならし、魔族のために労働させることだった。そのためには、人間側の希望の象徴である勇者の存在が邪魔だったが、どうやら始末する必要はなさそうだ。


「ベリアルよ。ならば、アルカディア王城の制圧を命じる。人間どもに、魔族の偉大さを見せつけてやれ」


「御意」


 ベリアルは恭しく頭を下げた。


 こうして、魔王軍の魔の手が、アルカディア王国に、そして誠一たちがいる王城へと、静かに、しかし確実に迫りつつあった。


 聖剣の予期せぬ消失が、期せずして最悪の事態を招き寄せてしまったのだった。

 すべては、一本の聖剣と、一人の臆病な勇者の「運の悪さ」が招いた、喜劇のような悲劇であった。

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