第13話 侵入者を迎え撃つ女神の罠、そして奪われたファーストキス
誠一は心配性なので、女神アクア・ディアーナに防犯装置の設置を依頼した。
彼の脳裏には、日本で見た闇バイト強盗のニュースが、恐怖と共にフラッシュバックしていたのだ。この快適すぎるヒモ生活が、あの時のニュースの被害者のように脅かされるのは、絶対に嫌だった。
「誠一さん、こんなところに強盗など来ないでしょう?」
女神さまは、呆れたような顔で誠一を見下ろす。
その青い瞳には、微かな困惑の色が浮かんでいた。
ごもっともな指摘だ。
ここは城の中でも重罪人を閉じ込めておく特別な牢獄。犯罪者を逃がさないための部屋なのだ。普通に考えれば、泥棒がわざわざこんな奥までやってくるはずがない。
「いやいや、世の中何があるかわかりません。不安で仕方ないんです!」
誠一は必死に訴える。
彼の頭の中では、泥棒が古びた金属製のバールを片手に、この部屋に不気味な影を長く引きずりながら侵入してくるイメージが膨らんでいた。
「仕方ありませんね」
女神さまもなんだかんだ言いながら、罠を設置してあげることにした。
その視線は、どこか諦めと優しさが混じり合ったものだった。
このくらいの頼みなら聞いてあげるくらいには、誠一のことが気に入っている。彼女は小さくため息をつくと、優雅に指を鳴らした。静寂を破る、涼やかな音。
「さあ、設置しましたよ」
「えっ、もうですか!? さすがは女神様! 仕事が速い!」
誠一は目を輝かせた。
その瞳には、驚きと期待が同時に宿る。
しかし、すぐに思い出す。
「あっ、でも、姫様や王妃様、それにシルヴィアさんは通れるようにしてください」
「わかっています。その三人は問題なく通れますから」
女神は涼しい顔で答える。
「ちなみに、どんな罠なんでしょうか? 毒を塗った矢が飛び出したり、巨大な落とし穴に槍が設置されていたり、とかですか?」
誠一は目をキラキラさせて尋ねる。
彼の脳内では、ハリウッド映画に出てくるような派手なトラップが繰り広げられている。
「水の罠です」
女神の言葉に、誠一はズッコケそうになった。
(なんだ、上から水をかぶせるだけの罠か。せっかく設置してくれたのに文句を言うのも悪いが、正直しょぼいよな)
彼はそれを想像し、どのような罠かを確認しておきたくなった。
泥棒に対して有効でないのなら、もう一度ちゃんとした罠を作って貰おう。女神さまにリテイクを言い渡すのは忍びないが、自分の身を守るためだ。
「あの、女神様、どのような罠が設置されているのか確認しておきたいので、自分でかかってみていいですか?」
「ええ、まあ、別に構いませんが、では一時的にあなたにも作動するように調整しますね」
女神は少し楽しそうに答える。
口元に微かな笑みが浮かんでいるように見えたのは、気のせいだろうか。
「お手数をおかけします!」
誠一はそう言うと、牢屋のドアを開けて外に出る。
重厚な鉄の扉が、軋む音を立てて開いた。
そして、意気揚々と地下通路をまっすぐに進んだ。
(さて、どこで水が降ってくるか……。突然だったらビックリして逃げ帰るかもだが、来ると分かっているのなら足止めにもなりはしないだろう。せいぜいちょっと濡れるくらいで済む)
誠一は女神の仕掛けた罠を甘く見て、呑気に歩を進める。彼の顔には、「どうせ大したことないだろ」という油断がにじみ出ていた。
そして、その瞬間、罠が作動した。
彼の周囲に、突如として青白い光が瞬き、ひやりとした冷気が肌を撫でる。
次の瞬間、空気が軋むような音と共に、透明な壁がせり上がるようにして大量の水が発生した。
その水は、ただ降ってくるのではなく、まるで意思を持ったかのように、空間そのものから溢れ出す。
無数の水滴がきらめき、瞬く間に膨張していく。
誠一の全身を包み込み、巨大な水球を形成する。
その水球は、外の世界を歪ませて映し出し、まるで別の次元に閉じ込められたかのようだ。周囲の光が屈折し、彼の視界は青く染まる。
誠一は水球の中心に吸い寄せられて、身動き一つ取れない。
水の中で、もがく誠一。
視界は水によってぼやけ、周囲の音が遠くなる。
肺が、酸素を求めて熱く焼けるような痛み。手足を必死に動かすが、外に出ることはできない。藻掻けば藻掻くほど、身体が水の重みに引きずり込まれる感覚に襲われる。
どのような力が働いているのかは分からないが、水の中心に引き寄せられてそこから動けないのだ。
(し、しぬ、死んでしまう!)
水球の中で、誠一は必死に空気を探す。
喉の奥が張り裂けそうだ。頭の中が、白い靄に包まれていく。
しかし、どこにもない。肺が、苦しい。
誠一はやがて力尽き、プカリと水球の中で宙に浮き、動かなくなった。
意識が薄れ、水の冷たささえも感覚から消え失せていく。彼の身体は、水中でただゆらゆらと揺れる人形のようだった。
***
「ぷはっ、はぁはぁ……!」
気がつくと、誠一は牢屋の床に寝かされていた。
ひんやりとした石の感触が、頬に心地よかった。
土の匂いが微かに鼻をくすぐる。
そして、女神が彼の口に自分の口を重ねて、人工呼吸をしているのが見えた。
その唇は、柔らかく、そして温かい。
微かに甘い香りが、鼻腔をくすぐった。
「あの、女神さま……」
誠一は、まだ朦朧とした意識の中で、女神を見上げた。
彼女の顔が、ぼんやりと霞んで見える。
その視線が、どこか心配そうに誠一を見つめていた。
「なんでしょう?」
女神は、何食わぬ顔で答える。
その顔には、少しばかりの悪戯っぽさが宿っていた。
「あの罠は危険すぎるのではないでしょうか? 死ぬかと思いましたよ」
誠一は、真剣に訴えた。
「やりすぎましたか?」
「もし泥棒が来たら、問答無用で溺死じゃないですか!」
「泥棒なら死んでも問題ないでしょう?」
女神は、涼しい顔で首を傾げる。
その言葉に、誠一は言葉を失った。
「もっと別の罠にしませんか?」
「そうですね」
結局、通路に設置する罠は転移魔法陣に決まった。
この魔法陣は、通路に侵入した者を、この城の牢屋の空いている部屋に転移させることになる。
「ありがとうございました! これで安心して眠れます!」
誠一は心底安堵した。
ようやく肩の荷が下りたような気分だった。
顔には、心の底からの解放感が浮かぶ。
これで泥棒が来ても、別の牢屋で大人しくなるはずだ。
「まあ、このくらいは大した労力でもありませんし」
女神は、再び温かいお茶を淹れる。
カップから立ち上る湯気が、ほんのりと甘い香りを運んできた。
「ところで、その、女神さまは俺のファーストキスを奪いましたよね?」
誠一は、少し照れくさそうに口を開いた。
頬が微かに赤らむ。
彼の視線は、女神の唇に釘付けになっている。
「人命救助です」
女神は即答した。
その顔は、微動だにしない。
全く悪びれる様子がない。
まるで当然のことだとでも言うように。
「いや、でも、ファーストキスがあれではあんまりなので、きちんと、その、して貰えないでしょうか?」
誠一は、大胆不敵にも女神におねだりした。
彼の顔は、期待に満ちている。
女神は、少し考える素振りを見せた。
透き通るような瞳が僅かに揺らめき、ゆっくりと誠一を見つめ返した。
そして、小さく頷く。
「まあ、そのくらいなら、良いですけど……」
誠一は、ゆっくりと女神に近づき、その肩に手を置いた。
柔らかな感触が、掌に伝わる。
二人は見つめ合い、お互いの息遣いが聞こえるほどの距離になったところで、目を閉じた。女神の透き通るような白い肌が、すぐ目の前にある。彼女の吐息が、誠一の頬を微かにくすぐった。
そして――
唇を不器用に重ね合った。
それは、おぼろげに覚えている先ほどの命を救うための人工呼吸とは全く違う、甘く、そして優しいキスだった。
時間さえも止まったかのような、静かで、しかし確かな感触。
微かな甘い香りが口いっぱいに広がる。
誠一の心臓が、ドクドクと高鳴る。
身体の奥底から、熱いものがこみ上げてくる。
まるで全身の血が、その一点に集中するかのようだ。
女神の唇は、ひんやりとして、しかし温かかった。
彼のヒモ生活は、また新たな局面へと突入したのだった。
甘く、そしてちょっぴり刺激的な予感に満ちた、新しい日常の始まりだった。




