第7章 好奇と妬みと悪意と
エリーマイヤはヘイスティングスに案内され、兵士たちが訓練する場所へやって来た。
行きたいところはあるかと問われ、「夫が仕事をする場を見たい」と伝えたからだ。
しかし。
(どうして朝から、こんなに声を張り上げるのかしら……)
軍人なんて、粗野で野蛮で、自己中心的な集団だと考えていたエリーマイヤにとって、この時間はなかなか苦痛だった。
平静を完璧に装うことは、彼女にとって日常だが、夫との仲を疑わせないために、感じよく見せる必要があるのだ。
噂を払拭する。
こんなことがなければ、絶対に訪れることはなかっただろう。
「午前の基礎訓練は、小隊ごとに行います。隊長は全体の監督役ですので、本日は……そちらに」
副隊長が指した先には、兵士を前に、指示を飛ばす夫の姿があった。
彼は砂地に入り込み、中尉や軍曹が兵を動かすのをじっと監督している。
胸が静かにざわついた。
自分の知っている夫とは、また違う表情がそこにあったから。
冷静で、鋭く、迷いがない。
(あ。あの方、食堂でお会いした小隊長だわ)
中尉が号令を発する。
「──前へ、進めッ!」
兵が叫ぶたびに、知らず、身体が勝手にすくむ。
土を踏みしめる音が重なる。
短い掛け声、きびすを返す靴音、整然とした動きの中に、わずかな乱れがあれば軍曹が叱責する。
(……思った以上に、厳しいのね)
彼女は思わず背筋を伸ばした。
その近くでは、別の小隊が銃の分解訓練をしており、さらに遠くでは整列練習をしていた。
練兵場は一望できるほど広いが、動いている兵はそれぞれ違う訓練に従事している。
ふと、ライナスが視線を動かし──、彼女のいる方向へ、目を向けた。
その目はまたすぐ訓練へ戻ったが、彼女は束の間ぎくりと固まる。
(わたくしが何をしにきたのかって、警戒している……?)
ヘイスティングスが静かに言った。
「では、奥方殿。訓練はこのあたりで。本日のご案内を続けさせていただきます」
深く息を吸い、エリーマイヤは練兵場の景色を後にした。
*
「夫は医療連絡官も兼ねているとか。その……医療棟も拝見できたらと思いますの」
朝、希望を尋ねられてそう答えた時、ヘイスティングスの瞼の奥が揺れたのを、彼女は見逃さなかった。
ライナスは毎日のように医療棟に通っているという。
件の女は、間違いなく医療棟にいるのだろう。
ならば、ますます行かない理由はない。
彼の職務に関係ある場所だと知っていて、訪ねなければ、避けていると思われる。
「夫に愛される妻」とまではいかなくても、「問題のない夫婦」であると印象付ける必要はあった。
そんな彼女の考えを知ってか知らでか、ヘイスティングスは丁寧に医療棟まで先導した。
そして、医療棟の影が視界に入りかけた時──
「副隊長! 至急、確認を……!」
石畳を駆けてくる靴音が聞こえた。
「奥方殿、申し訳ありません。少々こちらでお待ちいただけますか」
そう言って彼は伝令を受けて駆けていった。
医療棟の前には、病人用と思われる搬入口へ続く短い回廊があり、薬草を干した匂いが微かに漂っている。
彼女は回廊の影に立ち、副隊長を待つことにした。
埃っぽい軍の匂いよりも薬草混じりの空気の方が、呼吸しやすかった。
「若奥様、お寒くはありませんか?」
侍女が気遣うように声を掛けてくる。
「ええ、大丈夫よ。……ほんの数分、待つだけでしょうから」
──そう言った瞬間だった。
「ねぇ聞いた? 昨晩も病棟に、第二の隊長が来てたんだって」
回廊の向こうの方から、下働きらしき女たちの声が、近づいてきた。
壁一枚挟んだこちらには、気づいていない。
声はそのままこちらへ聞こえてくる。
「え? 第二の隊長って、昨日奥方が訪ねてきたって言ってなかった?」
もう一人が声をひそめる。
「そうなのよ! それなのに、昨晩も医療棟に来てるの!」
心臓が跳ねた。
(ライナスのこと、だわ)
「奥方が来てるのに、あの女のところに行ってたってこと?」
わー男ってやだーと三人目の声が喚く。
「そりゃ来るでしょ。あの隊長、看護主任の様子、なんだかんだずっと気にしてるもの。奥方が来たこと、宥めるとか慰めるとかしてたんじゃないの」
「えー? あの隊長、そんな感じだっけ?」
「わかんないじゃん。恋人の前で変わる男なんて、たくさんいるもの」
「まあ、そうね」
「……主任殿もさ、なんだかんだ毎朝ぴしっとしててさ。誰かさんに見られるの、期待してるよね?」
「そうそう! 隊長がまた見に来るかもって、仕事にも気合い入れちゃってさ」
女達はくすりと笑い合う。
エリーマイヤは息を呑んだ。
これは──。
別の下働きが囁く。
「隊長の奥方、もしかして医療棟に来ちゃったりするのかな」
「うわー。あの女がどんな顔するのか、見てみたいわ」
ほんとほんと、と女たちの笑い声が響く。
「あの女も、ほんとよくやったよね。もともとは、医療棟にも出入りできない日雇いだったくせに」
「ねー。隊長に身元保証までしてもらって、今じゃあたしらを顎で使う看護主任だよ」
三人はさらに声を落とし、悪意で形作られた噂を続ける。
「大尉様のお気に入りだからねぇ。じゃなきゃ、主任までなれないでしょ」
「あの堅物そうな隊長も、所詮男ってことだね。他の看護師とは態度違うもん」
「それ、思ってた! やっぱりあるよね。あの女、顔は可愛いから」
指先が冷えていく。
(身元保証……?)
くすくす笑う声が遠ざかり、やがて消えた。
静寂が落ちる。
彼女は息を吸おうとしたが、肺の奥が固まって動かなかった。
侍女が心配そうに声を落とす。
「若奥様……?」
エリーマイヤは淑やかな微笑みを作った。
「大丈夫よ。ただ、風が冷たいだけ」
噂と戦略が跋扈する社交界でもめったに耳にしないくらい、明け透けで、悪意に満ちた話だった。
事実と推測と感情が、下世話な結論となって、語られている。
この噂は、医療棟の中から育っている。
そして、それに油を注いでいるのは夫なのだ。
(馬鹿な男──)
足音が近づいてきた。
規則正しい、硬い靴音。
ヘイスティングスが戻ってきたのだ。
「お待たせいたしました、奥方殿。では、医療棟の中をご案内いたします」
エリーマイヤは微笑んだ。
完璧な「貴婦人の微笑」で。
その微笑みだけが、彼女の誇りだった。




