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第6章 妻の戦い方

 薄いカーテン越しに冷たい朝の光が差し込み、城塞の鐘が低く響いた。

 ここが国境──。

 その事実だけで、胸がざわつく。


 思考が冴えわたりすぎて、昨夜はよく眠れなかった。

 いや、アンナから話を聞いてから、深く眠れた日はない。


 侍女が静かに言う。

「若奥様、兵舎の方角から朝の号令が聞こえます」

(……彼も、今ごろはあの中にいるのかしら)


 昨日、久しぶりに会った夫とは、緊張と距離を纏ったままだった。

 夫が一蹴した話は、夫の部下の反応から、決して軽いものではない。

 彼女が知るのは、夫と看護師の女が親密だという、曖昧なものだけ。

そもそも彼女の知る夫は、女性と気軽に距離を詰めるような、そんな迂闊な性質ではない。

けれど、それが「広まる」ということは、周囲がそう思わざるを得ない、何かを感じているということ。

(事実かもしれないわね……)

事実であれば、夫はなおさら、妻である彼女には、言わないだろう。

(けれど、これが広がってもらっては、わたくしが困るのよ)


 エリーマイヤは、貴族夫人として完璧に装いながら、優雅に立ち上がった。



 そろそろ誰か訪ねてくるだろうと思われた頃。

 ゆっくりとした丁重なノックの音が響き、扉の外に副隊長が姿勢よく立っていた。


「第二歩兵中隊副隊長、ヘイスティングス中尉でございます。奥方殿、改めまして本日からのご案内役を拝命いたしました」


 一息でそこまで言って、副隊長──ヘイスティングスは一瞬だけ目を伏せた。

 貴族のような物腰の彼でも、貴婦人を前にするのは緊張するらしい。

「……失礼がないよう努めます」

「こちらこそ、よろしくお願いいたしますわ」

 礼を返すと、彼の肩がわずかにほぐれた。


 彼は控えめに言う。

「奥方殿、もしよろしければ……、将校食堂にて朝食をご一緒いただければと」

 その意外な提案に、エリーマイヤは瞬く。

 本来なら、部屋食でも構わないはず。

(将校食堂? 朝から見知らぬ男たちと?)

 王都でもアシュフォードの館でも、友人の家に招かれた時にも、朝食は部屋でとるのが普通だった。

(なんて世界なの……)

 軍服姿の男たちに囲まれる自分を想像し、眩暈を起こしそうだった。

 そんな彼女の心の内を知らぬヘイスティングスは、にこやかに説明する。

「一般の兵とは別に、将校だけが利用できる専用食堂がございます。大尉は任務の関係で、ご一緒できないとのことでしたが、大尉と同じ階級の士官もおりますので、皆、奥方殿にご挨拶を、と」

(……であれば、わたくしが行かなければ、(ライナス)の立場が弱く見えてしまうわね)


「ええ、参りましょう。せっかくですもの。夫の働く場所も、この街の空気も知りたいわ」

 彼は明らかにホッとし、部屋を出て、丁寧に案内を始めた。


 *


 エリーマイヤが食堂の空間に足を踏み入れると、ざわっと空間に微かな揺れが走った。

 皿の金属音が止まる。

 思いのほか多くの将校が長卓を埋め、その視線が一斉にこちらを振り向いた。


「アシュフォード大尉の奥方がお入りです」


 副隊長ヘイスティングスは彼女の半歩後ろに控え、場を静かに見渡している。

 低い天井に沿って並ぶ、厚い梁、石造りの壁は灰色で冷たく、ところどころに掛けられた古い軍旗の赤が、朝の光を反射してわずかに柔らかさを与えていた。


 正面中央に座していた大柄な将校が、椅子を引いて立ち上がった。

 夫と変わらないくらいの歳だろうか。

「奥方殿。ようこそ、国境へ」

 表情は穏やかで、礼儀正しい。

 他の士官たちもそれぞれ丁寧に頭を下げた。

 落ち着いた、軍人らしい統制の取れた動き。

 彼女も淑女として、完璧な礼を返す。


 あたりを見渡すと、卓の端に明らかに固まっている人物がいた。

 ひときわ若い青年。

 彼はスプーンを持ったまま固まり、目が合うとびくりと跳ね、立つべきか座るべきか理解できず、椅子を半分引いたまま停止している。


(……まあ)


 他の士官たちは品よく落ち着いているのに、彼だけが、舞踏会に初めて放り込まれた若い紳士のよう。

 そんなに緊張するものかしらと、どこか面白く感じていると、


「お、お奥方様っ!! た、たた隊長にはいつもお世話になっています!!!」


 声が裏返った。

 勢いよく立ち上がり、椅子が後ろにギッと音を立てて滑る。

 周囲の士官たちの目は、「頑張れ……」と言うように優しく細まる。


 ヘイスティングスが、エリーマイヤの背後から進み出て彼の横へ向かった。

 決して乱暴ではなく、しかし秩序を戻す半歩。

「中尉。大丈夫だ、落ち着け」

 若者は、まるで救われた子犬のような顔になった。


 ヘイスティングスはそのまま自然に彼女の横へ移動して、軽く頭を下げた。

「騒がしくして申し訳ありません。彼は……第二歩兵隊の小隊長でして、隊長の部下のひとりです」

「……まあ、そうですの」

(中尉、小隊長……、彼、大丈夫なのかしら)

 あまりの狼狽ぶりに、彼に隊を統率できるのかとチラリと思うが、おくびにも出さない。

 けれど、こういう不慣れそうな子がエリーマイヤの策には使える。


「お邪魔してしまったのはわたくしなのだから、そんなに構えなくてもよろしくてよ」


 彼女は彼に向かって、おっとりと微笑んでみせた。

 すると、その中尉だけでなく、周囲の士官たちの背中もわずかに揺れる。

 そして、夫の部下に向けるようでいて、周囲の誰にでも届く穏やかな声量で続けた。


「長く離れて暮らしておりますので、夫の働く場所を拝見したいと思っただけですのよ。突然の訪問でしたのに、夫がとても喜んでおりましたから──、こうして皆様にご挨拶できて嬉しいですわ」


 ほんの少し、恥じらいを織り交ぜてみせる。

「何も知らず、夫を慕ってやってきた妻」にも「噂を知って乗り込んできた妻」にも見えるように。

 ヘイスティングスが、横でわずかに身じろいだのが分かったが、気付かぬふりで表情を緩めた。


 若い中尉の目がぱちりと見開かれた。

(あら、耳まで赤くなってしまわれたわ)


「は、はい……っ、奥方様。た、隊長も……そのっ、よよ、喜ばれて……」


 また声が裏返った。

 でもそれがかえって、食堂に笑いを生んだ。

 異物(エリーマイヤ)が現れたことで張りつめていた空気は、完全に解けた。


「奥方殿、お席をご用意しております。どうぞ、こちらへ」

 ヘイスティングスのその声は落ち着いていて、食堂全体を「通常運転」に戻した。

 案内された席に座ると、士官たちの緊張はまだ残っていたが、先ほどの硬さとはまるで違った。

 もう、敵意も探るような視線もない。

 ただ、歓迎の空気だけがある。

 若い中尉の震えも消え、彼はきちんと礼を正して立ち直った。


(まずは上々だわ……)

 ライナスに何かしらの噂がある以上、エリーマイヤの訪問もまた、噂になるのだろう。

 では、噂になるのを見越して、それを逆手に取るまでだ。

 だから彼女は、何も知らぬ顔も、知っている顔もせず、 ただ「感じの良い妻」でいることを選び、その場の空気を自分の方に引き寄せることを選んだ。



 品よく食事を口にするその姿を、やや後方から、ヘイスティングスが複雑そうな眼差しで見つめていたことに、エリーマイヤは気付かなかった。


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