第5章 片鱗
扉が背後で静かに閉じる音がした。
エリーマイヤの足は勝手に一歩、廊下へ出ていた。
そして二歩、三歩。
どこへ向かうつもりもないのに、歩かずにはいられなかった。
廊下の空気は冷たく、石壁の温度が、そのまま胸に染み込んでくる。
彼が理解してくれないのは、分かっていた。
三年前、良い別れ方をしなかったのだから、なおさら。
けれど、理解されなかったことより、理解されていた事実の方が、彼女には重かった。
彼女が言葉にしないまま抱えてきたものが、すでに相手の認識の中にあったことが。
そして、もう彼女と、家を守る気がなさそうなことにも。
エリーマイヤは廊下の窓辺に手を添えた。
石の縁は冷たく、その冷たさが、震えそうになる指先を押しとどめてくれる。
廊下を歩く兵士の靴音が近づき、とっさに背筋を伸ばす。
兵士は一瞬驚き、深く敬礼して通り過ぎた。
彼女は、その瞬間だけ「貴族夫人」の仮面を取り戻す。
しかし兵士の足音が遠ざかると、胸の奥のざわつきがまた押し寄せる。
震えを押しとどめるように、肘を抱き、細く短い息を繰り返す。
その数十秒は、ほんの一瞬の出来事。
──背後で、そっと靴音がした。
振り返ると、副隊長が、少し離れた位置で一礼していた。
距離を置いた、控えめな一礼。
「奥方殿……。ご気分のすぐれぬところ、失礼いたします」
彼女が言葉を返す前に、彼は近づきすぎない距離を保ったまま続ける。
「お部屋の準備が整いました。……よろしければ、ご案内いたします」
声は柔らかい。
慰めの色を含まない、ただの誠意。
その誠実さが、かえって胸に刺さる。
彼女はかすかに頷いた。
副隊長はゆっくりと歩き出す。
エリーマイヤが続き、控え室の方から素早く近づいた、侍女と従僕が後ろにつく。
彼女は胸を張り、歩調を乱さず、気品を崩さず前を向いて歩いた。
軍の灰色の石壁の中を、薄紅のスカーフがかすかに揺れた。
副隊長は時折、ほんの刹那だけ振り返る。
その瞬間だけ、彼の瞳に気遣いが宿るが、すぐに軍人の表情に戻る。
曲がり角をひとつ、またひとつ越え、塔の影が差し込む廊下を抜けた。
「こちらでございます」
副隊長が立ち止まったのは、客人用に用意された簡素な部屋。
扉を押し開け、中の灯りを確認してから道をあける。
「また後ほど、夕餉についてお伝えに参ります。それまではどうぞ、ごゆっくりとお休みください」
副隊長が深く一礼をした。
扉が閉まる直前、彼の視線が柔らかく揺れたのが、彼女の心に残った。
*
客室に通されると、エリーマイヤは侍女に頼んだ。
「……少し、お水を」
侍女は深く礼をして出ていく。
扉が閉じた部屋の中に、かすかな石の冷気が戻ってくる。
裾を手で整え、手のひらをそっと組んだ。
夫に、もし情人が必要ならば、それはそれでいい。
けれどそれが、彼女の──夫婦の体面を傷つけるのであれば、話は別だ。
(あなたがどうでもいいと捨てたものを、わたくしは守ってきた)
(貴族として生きるとは、そういうことなのよ──)
今も昔も、ライナスには分かってもらえないけれど。
(だからこそ、わたくしが宛がわれた……)
そのとき。
客室の薄い扉の向こうから、ふと声が聞こえた。
「……でさ、第二の隊長と例の看護主任の──」
「しっ! 来る!」
突然、声が途切れた。
不自然な沈黙。
石壁に吸い込まれるような空白。
エリーマイヤは息を止めた。
(──今のは……)
やがて、侍女が戻る足音が聞こえた。
けれど、その歩調はいつもより少しだけ固い。
扉が開く。
「お水を……お持ちしました、若奥様」
侍女の顔が、どこか迷っているように見えた。
エリーマイヤは微笑もうとして、うまく形にならなかった。
「……ありがとう。何か、あったの?」
侍女は一瞬目を伏せた。
「い、いえ。ただ、視線が……少し、多いような……気がいたしまして」
視線。
その言葉ひとつで、胸が静かに沈んだ。
エリーマイヤはピクリと指を動かし、落ち着いた声を絞り出す。
「そう、気にしなくていいわ」
だが、気にしないことなど不可能だった。
控えめなノックが響いた。
侍女が扉へ向かう。
扉がわずかに開き、外の灯りに照らされた影が立っていた。
副隊長──夫の部下。
静かな眼差しで会釈し、少しだけ間を置いて、口を開く。
「奥方殿、失礼いたします。隊長は外せない任務がありまして、この後しばらく戻られそうにないとのことです。夕餉は、お部屋で召し上がる形でよろしいでしょうか?」
完璧な業務連絡。必要だから来た──それだけの話。
でも、その丁寧すぎる声の奥に、どこか空気を探っている気配があった。
彼女は静かに頷く。
「……お願いするわ」
副隊長は安堵したように、微かに呼吸を整えた。
「ありがとうございます。すぐに温かなものを手配いたします」
そして一歩下がりかけた彼を、彼女は呼び止めた。
「……妙に視線を感じました」
副隊長の表情が、束の間、揺れた。
「わたくし、何か……不手際でも?」
そして、沈黙。
その──わずかに長い、間。
彼女は、その間に、すべてを悟った。
(──彼は、知っている。この場所で、何が囁かれているのか)
廊下で途切れた会話。
侍女の迷った顔。
副隊長の沈黙。
「噂」はある。
しかも、エリーマイヤには知られたくない類のもの。
「奥方が、お気になさることはございません。兵は、……奥方をどうお迎えすべきか測りかねて、つい視線が集まったのでございます」
副隊長は柔らかく丁寧に、しかしぎこちなく続けた。
「……どうか、重く受け取らないでいただければと」
お互いに、それが不自然だと分かっていた。
しかし彼女は、微笑で取り繕った。
「そう、ええ……ありがとう、中尉殿。……明日、夫と食事くらいできるのかしら?」
「確認いたします」
久しぶりに再会を果たした、妻らしい問いをかけると、副隊長は明らかにホッとしたように表情を緩め、深く礼をし、部屋を辞した。
扉を閉めると、彼女は静かに息を吐いた。
真偽のほどは別として、例の噂は、この城塞都市内で広がっている。
それだけは、はっきりと分かってしまった。
こんな馬鹿げた話で、築き上げた世界を壊されてはたまらない。
(ライナスがこのまま放置するつもりなのであれば、わたくしが対処するしかないのだわ)
決意を固め、彼女は、手袋に包まれた手で、閉じた扇子を握り締めた。




