第4章 冷たい執務室
石の壁が音を吸い込み、足音さえも遠い井戸の底で響くように、小さくなったような気がした。
廊下の壁には地図が掛けられ、油の匂いのするランプが均等に並んでいる。
外套が揺れるたびに光る薄紅が、この灰色の廊下には、あまりに目立っていた。
士官たちが通るたび、一瞬だけ向けられる視線の意味を理解し、彼女は不快に思った。
けれど、ここはあの人の場所。
(……場違い、というのはこういう感覚なのね)
副隊長は無駄な言葉をまったく挟まず、すれ違う兵に軽い合図だけで動線を変えさせる。
肩をわずかに動かしただけで、若い兵士が足を止める、言葉にしない命令。
軍人らしい動き。
(夫も……ここで、こうして働いているのかしら)
並ぶ扉の奥からは、短い報告の声や足音。
いくつか階段を上がり、廊下を曲がり、やがて、他より少し広い扉の前で彼は立ち止まった。
「こちらが大尉の執務室でございます。大尉がお戻りになるまで、こちらでお待ちください」
彼はノックをしてから扉を開け、一歩下がった。
彼女は一瞬ためらい、それから中へ足を踏み入れた。
「大尉には私から急ぎ伝令を出します。少しだけお待ちください」
「ええ、ありがとう」
扉が閉まり、士官の足音が遠ざかっていく。
石壁の部屋は思ったよりも狭く、扉が閉まると、空気が止まった。
部屋の中は、小さな暖炉と書き物机、書類棚、来客用の簡素な椅子が二脚ほどで、窓の向こうに、防壁や砲台が見える。
書類は角を揃えて積まれ、使い古しの羽根が数本、ペン立ての中に立ててあった。
机の上は整然としている。
唯一乱れているのは、開いたままの報告書の頁だけ。
エリーマイヤは机の端に指を置きかけて、やめた。
暖炉の火は小さく、紙の上にうすい橙色を落とすだけ。
部屋の匂いはインクと革と、乾いた石。
優雅な社交界も、華やかな音楽も、柔らかな灯りもない。
彼女の知る「家」の匂いは、どこにもなかった。
外で鐘が鳴った。
短い音が石壁に反響し、そこでようやく彼女は息を詰めていたことに気付いた。
*
扉の向こうで、低い声がした。
「隊長、奥方がお待ちです」
返事の声は聞こえなかった。
ただ、靴音が廊下を渡ってくる。
一歩ごとに、遠い記憶が近づいてくるようだった。
彼女は背筋を伸ばし、扇を広げた。
「……ここまで来るとは」
扉が開く。
低い声が、空気を震わせた。
ライナスが立っていた。
軍服の立襟に指をかけたまま、彼女の姿を目にとめ、一瞬動きを止めたが、何事もなかったかのように横を通り過ぎると、書き物机の向こうに回った。
「久しぶりだな」
「ええ、三年ぶりです」
エリーマイヤは、穏やかな声で。
完璧な抑揚で、まるで社交の場での挨拶のように、浅く会釈をした。
机を挟んで、距離は三歩。
それ以上は、どちらも動かなかった。
「……息子たちは息災か」
「ええ。とても」
(よく仰いますこと。生まれたばかりの次男をほとんど見ずに去ったのは、誰かしらね)
三年ぶりの夫は、日に焼け、精悍さが増したように見えた。
義父とともに書類仕事ばかりをしていた頃、いつも目の下にできていた隈は、もうない。
「お忙しそうですこと」
「勤務だ」
「そう。……妻を迎える暇もないほどに?」
その声は穏やかに聞こえたが、静かに棘を含んでいた。
「……軍嫌いの君が、こんなところまで足を運ぶとはな。何か用が?」
軍嫌い。
彼女の眉が、かすかに上がる。
「いいえ。ただ、少し面白い話を耳にしましたのよ」
彼女はまるで、王都の茶会で噂を交わすように、ゆっくりと視線をまっすぐに向けた。
「ここでは、あなたとある女性看護師が──とても懇意になさっている、とか」
彼の目が一瞬だけ細められ、書類の端を指で押さえながら、静かに言葉を落とした。
「なるほど。……用はそれか」
「話を逸らさないでちょうだい」
「くだらん」
彼は一蹴した。
「……勤務上の報告だ」
「随分と念入りな報告のようですわ」
「必要なことを話しているだけだ」
冷たい静寂が降り、ふたりの間の空気が軋む。
「その必要が、家の恥になれば困りますの」
「君が困るのか? 家が困るのか?」
その一言に、空気が変わった。
彼女は思わず口を閉ざす。
それでも背筋は伸ばしたまま、視線だけで反論した。
彼は短く息を吐く。
「ここは戦場と同じだ。誰と話すか、誰に指示を出すかも任務のうちだ。君の社交界のように、噂で動く場所じゃない」
夫の言葉に、彼女は一瞬、言葉を失った。
軽く笑われたような感覚が、胸の奥でひやりと広がる。
その冷たさが、やがてじわりと怒りに変わっていく。
無意識にドレスの布を掴んでいた。
爪の跡が白く残るほど強く。
(やはり、彼は何もわかっていない──)
その思いが、喉の奥で苦く渦を巻いた。
「……それでも、あなたの名が、わたくしの綻びになるのはご免ですわ」
それ以上、言葉を続ける必要はないと悟り、彼女は裾を翻した。
夫には、何を言っても伝わらない。
そう確信して、扉に向かう。
去り際、扉の金具に手をかける指がわずかに震える。
けれど、振り返らなかった。
扉が閉まると、ライナスはゆっくりと息を吐いた。
机の上の書類に視線を戻したが、文字は霞んで見えた。
窓の外、鐘の音が響く。
冷たい音。
まるで誰かの名誉が崩れ落ちる合図のように。




