第3章 夫の世界の入り口
陽が沈みかけていた。
アシュフォード領を出て、数日。
馬車が丘陵の坂を下ると、城壁の影が空を切り取った。
城壁の手前には、こちらとあちら、世界を分けるかのように目の前を横切る大きな濠。
濠の水面は鉄のように冷たく光り、角笛の音が短く響いている。
濠を渡る唯一の跳ね橋の前は、衛兵と人の列で賑わっていた。
畑仕事を終えた農夫、荷車を押す行商、籠を抱えた女。
城壁の外で一日の労を終え、門が閉じる前に戻る者たちだ。
紺灰の制服の軍人たちが、ひとりひとり荷物を検めている。
そこにエリーマイヤの乗った馬車が近づくと、ざわめいていた列が静まり、人々が道をあけた。
このあたりで見慣れぬ光沢──磨かれた馬具、彼らの暮らす色とは違う色が、静かに通りを裂いていく。
「止まれ!」
鋭い号令が飛び、御者が手綱を引く。
馬車は揺れながら停止した。
すぐに従僕が飛び降りて深く頭を下げたが、その手には封書も通行証もなかった。
窓を開けて、彼女は静かに告げた。
「ライナス・アシュフォードの妻です。夫に用があってまいりました」
途端。
槍を構えた兵たちが顔を見合わせ、ひとりが馬車の紋章を見ながら、戸惑ったように問いかけてきた。
「アシュフォード……た、隊長の、奥方様、ですか? 失礼ですが、許可証などは……?」
王都の兵に比べ、貴婦人への応対は慣れていない。
彼女は、内心の不快を抑えて受け答えた。
「いいえ。……急ぎでしたので」
離れたところで、兵の一人が詰所へ駆け込むのが見えた。
周囲に小さなざわめき。
「……王都の人か?」「ほら見ろ、馬車の紋章……」「貴族だよ……」
道を開けた人々が、ひそひそと声を落としながらも、不躾にジロジロと見ている。
それは、その場にいる軍人たちもあまり変わりはなく、警戒の色よりも、好奇の色のほうが多い。
しばらく待たされ、やがて確認の声が上がった。
「アシュフォード大尉の奥方様、確認がとれました。通行を許可します!」
鎖が唸り、跳ね橋が降りた。
馬が鼻を鳴らし、馬車はそのまま橋を渡って門をくぐる。
ほどなく、前後を高い城壁に挟まれた場所で馬車が止まった。
ふたつめの門へ進む前に、衛兵の声がかかる。
「この先は道が狭く、馬車は通れません。下乗を」
御者が手綱を引き、馬丁が駆け寄って馬を受け取った。
(仕方ないわね……)
裾を整えたエリーマイヤは、ゆっくりと石畳に降り立つ。
石壁に囲まれた灰色の街の風が、首元に巻いたつややかな薄紅のスカーフを、冷たく撫でた。
侍女と従僕が、彼女の後に続き、その光景に、その場にいた人々が、ほおっと感嘆の声を上げた。
「ほら、動け動け!! 許可が下りたものはさっさと入れ! 後が支えるだろうが」
同じように目を奪われていた兵士が我に返り、慌てて人の列を流し始めたが、その流れを遮るように、ひとりの軍服の男が彼女たちの前へ進み出て、敬礼した。
その瞬間、彼女は無意識に半歩退く。
平静を装っても、大柄な体が間近に迫り、体はわずかに強張った。
彼は、案内が整うまで、しばし待つよう告げ、やがて。
「大尉夫人でいらっしゃいますか!」
紺灰の制服姿の若い青年が、わずかに息を弾ませて駆け寄ってきた。
「遅くなり申し訳ありません。お迎えに上がるよう命を受けました。司令部までご案内いたします!」
そして歩調を合わせるように、一歩前に出た。
靴音が、石畳の道に響く。
好奇と警戒の眼差しを向けられながら、城門を、人々に混じって通り抜ける。
絹の光沢が、夕闇の中ではあまりに鮮やかで、見る者すべてが彼女を見た。
城門の向こうは、言われた通り幅の狭い石畳の道と、覆いかぶさるようにその両側に立ち並ぶ灰色の家々。
窓辺の灯が揺れ、石と鉄の匂いが濃くなる。
こんな世界を、彼女は見たことがなかった。
「道は滑りやすいのでお気をつけください!」
緊張しているのだろうか。
やや声が上ずり、どことなく動きがぎこちない。
社交界では見かけないような、日に焼けた大きな体格の若者が、不慣れながら一生懸命に案内しようとしてくれている。
(この人も、夫の噂を知っているのだろうか?)
初々しさすら感じさせる青年の、縁取りのない短い立ち襟を見つめ、彼女はふと思った。
(もし知っていたなら……、わたくしを見て、一体何を感じているのかしら?)
鷹揚に頷きながら、ゆっくりと後を歩いた。
鉄と油の気配の濃い風が、裾を揺らす。
灰の街を裂くように、スカーフの薄紅色が静かに流れていった。
*
緩やかな勾配の道を先導されるまま進むうち、ふいに視界が開けた。
正面には、周囲よりもひときわ大きな石造りの建物がそびえている。
「こちらが司令本部です!」
建物の前に立った瞬間、空気がひやりと変わった。
城壁の内側に入ってからずっと感じていた石と鉄の気配が、ここではさらに濃い。
「奥方様……。どうぞ、中へ」
そのとき、本部の扉が内側から開いた。
白い手袋を外しながら姿を見せたのは、背筋の伸びたひとりの士官だった。
灯りに照らされたその姿は、まるで紳士のように細身で、どこか優雅さを感じさせる。
貴族らしい物腰なのに、即座に動ける余白と緊張感が漂っている。
そんな人物だった。
兵士が慌てて敬礼する。
「副隊長! 隊長の奥方様をお連れしました!」
副隊長と呼ばれた男は答礼した後、静かに歩み寄り、まっすぐ彼女へ視線を向けた。
その眼差しは、礼儀正しく、丁寧で──そしてどこか、深い事情を読み取るような静かな色。
「アシュフォード大尉夫人。お越しいただき、恐れ入ります。大尉はただいま、医療棟にて少佐へ報告中です。すぐに呼び戻しますので……、どうかこちらへ」
その声音は柔らかい。
だが、その奥にある気配は、読み切れなかった。
責めるでもなく、歓迎するでもなく、静けさだけ。
副隊長は兵士へ、小さく告げる。
「引き継ぐ。伍長、今日はもう休んでいい。助かった」
その言い方は驚くほど優しく、若い兵士──伍長は慌てて敬礼した。
胸に、不思議な感情が生まれる。
(……この方、夫をよく知っている方なのだわ)
言葉には出さないが、副隊長の立ち居振る舞いで、なんとなくそう思った。
エリーマイヤは礼をして、副隊長の後に続く。
灰色の廊下へ踏み出した瞬間、外の空気とは違う冷たい静けさが肌に触れた。
(ここから先は、本当に夫の世界……)
彼女の知らないところで決断し、国境へ去ってしまった夫との再会の時。
副隊長の少しゆっくりとした歩幅は、まるで「覚悟を整える時間」を彼女に与えてくれているように思えた。




