第29章 出立
扉が叩かれたのは、昼を少し回った頃。
エリーマイヤはすでに起きて、髪も整え、書き物をしていた。
「……入るぞ」
「ええ」
侍女が礼をして、部屋を出て行く。
ライナスは部屋の中を一度見回し、それから短く言った。
「無理はするな」
「分かってるわ」
彼は一睡もせずに勤務しているはずだが、仮眠をとった妻の心配をする余裕まであるらしかった。
そんな夫の方に向き直って、エリーマイヤは静かに告げた。
「明日、帰ることにしたの」
それは、昨日の午前中になんとなく決めていたことではあった。
ライナスに告げるタイミングがなかっただけ。
彼は一瞬視線を上げたが、驚いた様子はなかった。
「そうか」
「ええ」
言葉はそれだけだった。
しかし、少しだけばつが悪そうな顔で、彼女を見る。
「見送りは──」
「いいわ」
彼女は、先に首を振った。
「仕事が溜まっているのでしょう」
予想外の彼女の訪問は、彼の日常を大きく乱したはずだった。
夫は、それを否定しない。
「悪いな」
「いいの……」
ただでさえ忙しそうにしていたのに、昨日にいたっては、一晩中エリーマイヤにつきあってくれた。
そして多分、今も、合間を縫って来てくれた。
深い紺灰色の立ち襟。
彫りのある控えめな銀ボタン。
責任の重さを感じさせる肩章。
彼女は、軍服の夫の姿を心に刻むように、じっと見つめた。
「……来て、良かったわ」
彼女の言葉に、夫はかすかに目を見張ったあと、わずかに笑んだ。
「そうか」
「ええ」
彼と、まだ話していたいと感じていた。
もう話すことなんてないくらい、話したというのに。
そう感じる自分自身が、不思議だった。
けれど、これ以上、領地を空けるわけにはいかない。
彼女にもやるべきことがあるのだ。
それに。
客人として、これ以上の滞在は不作法だった。
エリーマイヤは、夫の邪魔をしたいわけではないのだから。
「……気を付けろ」
「ええ」
相変わらず愛想のない言い方だったが、そこには、確かに彼女を案じる色があった。
「……離れがたいものだな」
夫が呟く。
「手紙を書く」
約束というより、まるでそれが当然のことのように言われ、エリーマイヤは微笑む。
別々の生活をしている中で、彼が彼女に手紙を書かなかったことはない。
ただし、その中身は子どものこと、領地のことに終始していた。
今言った手紙は、そういう類のものでないことが、彼女にも分かった。
「楽しみにしているわ」
彼は頷き、それ以上は踏み込まずに部屋を出た。
それが、国境での夫との別れになった。
*
翌朝、城塞都市の朝は、思ったよりも穏やかだった。
夜明けの冷え込みがまだ石畳に残り、城内を抜ける道には、人の気配がまばらにある。
エリーマイヤは、来たときと同じ道を歩いていた。
馬車は城門の内には入れない。
だから、城門までは歩くしかない──。
それは、この都市では当たり前のことだった。
けれど、来た日の足取りと、今日のそれは、まるで違う。
来たときは、視線の行き先も定まらず、周囲の音がやけに大きく聞こえた。
今日は、足元の石の並びや、朝の空気の匂いに、意識が向いた。
後ろには、侍女と従僕。
隣を歩くのは、副隊長のヘイスティングスだった。
派手な装いではない。
見送り役という立場に過不足のない、軍人としての正装姿。
「城門までは、そう遠くありません」
淡々とした声。
「ええ。来たときにも通りました」
そう答えると、ヘイスティングスは小さく頷いた。
「……あのときは、少々慌ただしかったですね」
ほんのわずかな笑みが、口元に浮かぶ。
彼女も、同じことを思い出していた。
先触れもなく到着し、急遽任を受けた若い伍長が、必死に案内してくれたこと。
あれから、まだ数日しか経っていない。
それなのに、ずいぶん前のことのように感じる。
城門が近づくにつれて、兵の姿が目に入るようになった。
見回りの第二歩兵部隊。
見送りのために整列しているわけではない。
あくまで日常の配置。
それでも、エリーマイヤとヘイスティングスの姿に気がつくと、動きが止まった。
懇親会で言葉を交わした軍曹が、気づいて軽く背筋を伸ばす。
視線が合うと、彼は静かに敬礼した。
副隊長が軽く答礼し、エリーマイヤも自然に礼を返す。
それを合図にしたように、周囲の兵たちも、それぞれ敬礼をした。
深くも、過剰でもない。
だが確かに、彼女を送り出す空気が漂っていた。
彼女は思う。
(ああ……)
自分は、この城塞都市に、彼らに受け入れられていたのだ。
隊長の妻として。
そして、一人の来訪者として。
ヘイスティングスは、それを静かに見ていた。
ただ、歩調を少しだけ緩める。
城門が、視界いっぱいに広がった。
外には、待たせてあった馬車。
御者が帽子を取って一礼する。
「ここまでです」
ヘイスティングスが立ち止まり、きちんとした距離を保って言った。
「短い間でしたが……。どうか、お気をつけて」
エリーマイヤは、少し考えてから答える。
「お世話になりました」
それは、形式的な挨拶ではなかった。
彼は、深く頭を下げる。
「……また、いらしてください」
万感の思いを感じる声音に、彼女は微笑みを返した。
馬車に乗り込む前、彼女は一度だけ、城内を振り返る。
城門の向こう。
石の街路。
兵たちの背中。
鐘の音。
──夫は、いない。
それでも、この場所の至るところに、彼の気配がある。
馬車の扉が閉じられ、ゆっくりと動き出す。
城門を抜けた瞬間、外の空気が変わった。
エリーマイヤは、背もたれに身を預け、静かに息を吐く。
短い滞在だった。
色々あった。
けれど、確かに、ここに来てよかったと思えた。
それだけで、この旅は、十分だった。




