第28章 雨上がりの夜明け
ふたりは時間を忘れて一晩中話した。
あのときはどう感じていた?
このときはどうだった?
話の流れで、エリーマイヤは軍人嫌いのきっかけも、全部話してしまう。
ライナスは、話を遮らないという約束を忠実に守っていたが、険しいほどに眉間にしわを寄せていた。
雨音は細くなり、雷も、もう遠い。
たくさんの言葉を交わした。
夜更けを越え、何も喋らない沈黙だけが過ぎることが増えても、その沈黙は、穏やかで心地の良いものだった。
静寂の時間が訪れた後、エリーマイヤは小さく息を吸った。
「……聞いても、よくて?」
夫は、すぐに頷いた。
「ああ」
それは、準備していたというより、待っていた響きだった。
彼女は、その声音に勇気を得たように、彼をまっすぐと見つめた。
「噂の……。彼女のこと」
彼の指が、わずかに動く。
「……事実を、話す」
そう前置いてから、順序を選ぶかのように、ゆっくりと話し出した。
「彼女のことは、昔から知っていた」
エリーマイヤの眉が、ほんの少し動く。
「結婚を約束していた、恋人だった」
誤魔化しも、強調もない。
淡々とした言葉。
「家を継ぐことになって、別れた。正確に言えば、……振られた」
彼女の喉が、鳴った。
彼はそこで一度、大丈夫か、と問うように彼女の顔を見る。
彼女は、促すように小さく頷いた。
「国境に来て、偶然再会した。……彼女は、俺と別れたあと結婚したらしいが、離縁して、この都市で暮らしていた」
言葉が、少しだけ重くなる。
「……困窮していた」
夫は、そこで息を吐いた。
「だから、助けた。それだけだ」
それだけ、という言葉に、彼女は何も言わない。
「……これが、事実だ」
彼が話し終えたあと、部屋に短い沈黙が落ちた。
重いが、張りつめてはいない。
彼女は感情をぶつけなかった。
やがて、静かに口を開く。
「……どうして」
ライナスを見る。
「どうして、すぐに話してくださらなかったの?」
責めるのではない。
理由を知りたかった。
彼は、すぐには答えなかった。
椅子に深く腰を掛け直し、一度、息を整える。
「……彼女のことを、守れなかったからだ」
エリーマイヤの瞳が、揺らいだ。
「彼女は、俺が一度は守りたいと思っていた人だ」
言い切るが、そこに誇りはない。
「それでも、結果的に、守れなかった」
彼は、じっとエリーマイヤを見た。
その瞳に、何が浮かんでいるのかを読み取るように、彼女は、ただじっと見つめ返した。
「俺と付き合って別れて、別の男と結婚して……。後になって、彼女がどんな境遇に置かれていたかを知った」
彼女は口を挟まず、聞いていた。
「……俺は、知ろうともしなかった」
その一言は、短いが、鋭かった。
「忙しいとか、立場とか、理由はいくらでもあった。でも、結局は、目を背けていた」
夫は、そこで初めて、ほんのわずかに視線を落とす。
「今回、助けたのは……、正直に言えば、罪滅ぼしの意味もあった」
胸が静かに詰まる。
「いい人でいたかったわけじゃない。自分がどれだけ弱かったか、突きつけられただけだ」
言葉は、淡々としている。
だが、逃げたりしない、まっすぐな声音だった。
「……それを、君に見せたくなかった」
彼女の視線が、揺れた。
ライナスの言った言葉が、胸を突いた。
彼は、夫婦は、互いの弱さを預けられる関係でいたいと言っていた。
そして、エリーマイヤには、弱さを預けられない、とも。
きっと彼が、彼女に話せなかったのは、彼女にも原因がある──
彼女は、しばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐く。
「正直なのね」
真実を知って、何も感じなかったわけではない。
「……黙っていたのは、優しさではなかったのね」
ライナスは、頷いた。
「弱さだ」
はっきりと。
「守れなかった自分を、君にだけは見せたくなかった」
彼女は、その言葉を、しばらく噛みしめてから言う。
「今は?」
夫は答えに詰まっていたが、やがて観念したように言った。
「今も、見せたいわけじゃない」
彼女は、知らず手を握り締めた。
「ただ、隠したまま一緒にいる方が、……もっと怖くなった」
夜は、ほとんど尽きていた。
雨音は、いつのまにか、ほとんど聞こえなくなっていた。
どこかで雫が落ちる音だけが、響いている。
言葉は十分に交わしたはずなのに、どちらも立ち上がろうとしなかった。
「……ここから、新しく始めるか」
ライナスが、静かに言った。
「今までの続きじゃなくて」
エリーマイヤは、はっと顔を上げた。
(ここから、始める……)
答えを待つように、夫は、決意をたたえたような瞳で、じっと彼女を見つめていた。
目が潤んだ。
彼は、泣いて喚いて、貴婦人として失敗したエリーマイヤを、見捨てるつもりがないのだ。
自己のための不満や欲望、苦しみをなかったことにして、ただ役割だけを果たす。
そんな存在であり続けられなかった彼女の手を、彼は、再び取ろうとしている。
エリーマイヤは、夫を見誤っていたと感じた。
彼は非情になれない人だと思っていた。
そう遠くない未来に、当主として立つ貴族として、致命的だと。
だけど今、昔感じていたような安心感と、似たようなものを感じていた。
けれどそれは、包まれる安心ではない。
肩を並べて立っていられる場所が、ここにあると知る感覚だった。
深く息を吸った。
そして、初めて、こう言う。
「……あなたが完璧じゃなくても。もし……わたくしが、あなたの気持ちを蔑ろにしてしまっても」
声は、震えていない。
「いっしょに、話しながらでよろしければ」
ライナスは、初めて、はっきり笑った。
「それがいい」
雷鳴は、いつの間にか、遠ざかっていた。
外が少し明るくなっている。
夜明けが、静かに訪れた。
雨は、止んでいる。
夫は立ち上がり、外套に手を伸ばした。
「……俺は、軍務に戻る」
いつもの、感情が乗っていないような低い声。
「君は、このまま休め」
エリーマイヤは、驚いて目を瞬く。
「あなた、一睡も──」
「問題ない」
即答だった。
「この程度で、支障は出ない」
その言い方が、あまりにいつも通りで、彼女は思わず笑った。
「……ありがとう」
彼は、扉の前で立ち止まる。
振り返らずに言う。
「起きる頃、……また来る」
廊下に出たライナスの視界に、晴れ間が広がっていた。
雲の切れ間から、朝の光が差している。
何事もなかったように、彼は執務室へ向かう。
けれど──世界は、少しだけ変わっていた。
部屋に残された彼女は、その光を見ながら、静かに目を閉じた。
完璧じゃないまま、休んでいい朝だった。




