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第27話 線を越える

 扉を開けると、妻は床に座り込んでいた。

 扉のすぐ内側。

 椅子にも、寝台にも辿り着けず、膝から崩れ落ちたまま。

 涙は、まだ止まっていない。

 声を上げることもなく、ただ静かに、滂沱のように流れている。

 肩は、小さく上下していた。

 呼吸は浅く、整えようとする意思すら見えない。

 視線はどこにも定まっておらず、ライナスが入ってきたことにも、気づかなかった。


(……考えられない状態だ)


 そう理解するより早く、胸の奥が、強く締めつけられた。

 普段の彼女を、彼は知っている。

 感情を制御し、言葉を選び、立場を守る人。

 その彼女が、ここまで崩れている。

 せめて床から引き上げたい衝動が立ち上がるが、彼は一歩、止まった。

 ゆっくりと息を吸う。

 距離を保ったまましゃがみこみ、妻と視線の高さを合わせる。

「……ここにいる」

 それだけを、短く告げる。

 彼女の肩が、ほんのわずかに揺れた。

 気づいたのか、それとも、ただ涙が溢れただけか、彼には分からない。

 それでも、立ち去らなかった。

 鎧を脱いだままの彼女の前で、逃げないと決めたから。


 *


 妻はしばらく動かなかった。

 そのまま沈黙が続いたが、彼女はやがて壁に縋って立ち上がり、差し出された椅子に黙って座った。

 泣き腫らした目で、けれど背筋は崩していない。


「話がしたい」


 妻の呼吸が整ってきた気配を感じて、彼は切り出した。


「俺たちは、お互いのことを、ちゃんと話してこなかったと思う」


 結婚前、手順に沿って、やり取りをした。

 時に会い、手紙を交わす。

 互いの好きなものを尋ねたり、行ってみたい場所を伝えたり。

 あれは、本当に形式的なものに過ぎなかったのだと、今なら分かる。


「君が何を考えて、どうやって生きてきたのか、……知りたい」


 言い訳も、謝罪もしない。

 ただ素直に。


「それを知りたいと思う俺のことを、否定しないでくれると、嬉しい」


 思っていることを伝えようと思った。

 妻の視線が、わずかに動いた。


 雷雨は、まだ続いている。

 窓を打つ雨音が、一定のリズムで部屋を満たしていた。


 妻は、しばらく黙っていた。

 それから、乾いた声で言う。

「……今さら?」

 ライナスは苦笑いした。

「今さら、だな」

 静かに認める。

「でも、今だから──」

 雷が、近い。

「ちゃんと話せて、ちゃんと聞ける気がする」


 妻だけじゃない。

 ライナス自身も。


 妻は、唇を噛んだ。

「……遮ったりなさらない?」

「遮らない」

「否定したり……」

「しない」

「途中で、あなたの正しさを持ち出さない?」

 彼は一瞬だけ目を伏せた。

「……努力する」

 正直な言葉だった。


「……座って」

 小さな声で言われたが、彼は、椅子を引かずに待った。

 勝手に近づかない。

 その姿を見て、椅子を指しながら、彼女がもう一度言った。

「……そこに掛けて」

 今度こそ、彼は椅子に腰を下ろした。



「……さっきは」


 しばらく、沈黙が続いた。

 やがて妻が言いかけて、止まる。

 彼はその沈黙を奪わず、じっと待った。

 彼女は迷ったように、視線をウロウロと彷徨わせ、伺うようにライナスを見た。


「遮らないって、言っただろ」


 今の妻は、まるで幼な子のようだ、と彼は新鮮な気持ちで思う。

「言葉に詰まるなら、待つ。話しにくいなら、そう言ってくれていい」

 それから。

「俺に聞きたいことがあれば、遠慮なく聞いてほしい」

 妻は、視線を上げた。

「……聞かれるの、嫌ではないの?」

 彼は、少しだけ考えてから答えた。

「聞かれない方が、傷つく」

 それは、興味がないと言われているのと同義だから。

「分からないままにされる方が、俺は、ずっと苦手だ」

 彼女の指が、膝の上で絡まる。

「……じゃあ」

 普段の妻からは考えられないような仕草で、恐る恐る。

「答えにくかったら……?」

「正直に言う」

 彼は言った。

「今は言えない、とか。それは違う、とか。……たぶん、その方がいい」


 しばらく、雨音だけが続く。

 先に口を開いたのは、妻だった。


「わたくし……」


 そして、彼女は語った。

 幼い日のこと。

 匂わせられて、けれど知らされずに消えた未来。

 新しく押し付けられた役割。

 彼は、ただ聞いた。

 時折、短く問い返す。

「それで、どう思った?」

「悲しかった?」

 妻は、答えた。

 感じた虚無感、無力感、失望。

 そして、何も感じなくなっていった日々のこと。



「……あなたと結婚を決めたのは、役に立てると思ったからよ」

 掠れた声で、静かに告げられた。

「役に立つ人でなければ、わたくしは選ばれないとわかっていた。助けてほしいとか、一緒にいてほしいとか、そういう甘えた感情は……、持ってはいけないと思ってた」


 ここで、ライナスは言葉を失った。

 喉が、詰まる。

(──違う)

 そう言いたい。

 否定したい。

 そんなことはない、と。

 けれど、約束を思い出す。

 遮らない、否定しない。

 彼は両手を組んだ。

「……続けて」

 絞り出すように言う。

 妻は、少し驚いたように、それから、微かに笑った。

 無邪気な少女のような顔だった。

「今の、顔」

「……?」

「言いたいこと、山ほどあるって顔してるわ」

 彼は、苦笑した。

「……ある」

 正直に。

「でも今は、君の番だ」



 夜は、深くなっていく。

 そして、話題は彼に向く。


「……どうして、黙ってらしたの?」

 真正面からの問い。

「あなたが何を考えていたのか、どんな気持ちだったのか。わたくし、知らないわ……」


 言葉に詰まった。

 答えは、簡単なはずだったのに。


 彼は基本的に、自分の感情を述べない。

 家の再建で苦しんでも、妻との価値観の差異に悩んでも。

 正面からぶつかることで好転する事態と、そうでない場合があることを、彼は知っていた。

 だから、衝突することで事態が悪化するとみれば、彼は黙することを選んだ。


 彼は目を逸らさなかった。

「全部が全部、黙っていたつもりはなかった。ただ……、うまく言えなかった」

「わたくしに?」

「君だけに限ったことじゃない。……どう言えばいいのか、わからなかった」

 少し間を置いて、続ける。

「言えば、君は受け止めはしてくれただろうな」

 彼女は、ハッとする。

「それが、嫌だった?」

「違う」

 彼は首を振った。

「情けない話だが、弱いところを見せて、それで何かが壊れるのが、怖かった」

 沈黙が落ちる。

「……結果的に、俺は何も言わないことを選んだ」

 自嘲気味に、息を吐く。

「下手だったな」

 その言葉に、妻の肩から力が抜けた。


「じゃあ、わたくし」

 彼女は、唇を噛んでから続ける。

「わたくしが、あなたを否定してたのは、……傷ついてた?」

「傷つくに決まってるだろ」

 反射で答え、低くなった声に自分で気づいた。

「……すまない」

 息を整える。

「でも、それを言う資格が、自分にあると思えなかった」

 妻の喉が、鳴る。

「……わたくしも」

 彼女が小さく呟く。

「言う資格なんて、あると思ってなかった」


 夜がゆっくりと進んでいった。

 妻が話し、ライナスが答える。

 今度は、彼が話し、彼女が聞く。

 遮らず、否定せず、結論を急がず。

 一晩中そうしていると、雷雨はいつの間にか、ただの雨になっていた。


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