第2章 客人は不穏を誘う
館の大広間で、エリーマイヤは深緑色のドレスを整えていた。
鏡に映る自分の姿は、いつも通り完璧。
裾の折り目も、結い上げた髪も、笑みの角度も。
それでも、胸の奥で何かがわずかに軋む。
彼女が王都の喧騒から戻って、ふた月。
王都で受け取った手紙の通り、これからエリーマイヤの友人が領地を訪れる。
夫の侯爵を伴って。
秋の光は、柔らかかった。
けれど風にはもう、ひやりとした冬のはじまりの匂いがほんの少し混じっている。
エントランス前には、噴水と円形花壇。
ダリアとマリーゴールドが並ぶ花壇のずっと向こうに、ブナやライムの木々が見える。
両開きの荘厳な扉の脇の燭台には蝋燭が灯され、アシュフォード領の館は、賓客を迎えるためどこか華やいでいた。
玄関両脇に使用人たちが立ち並び、中央に伯爵家当主の義父、その右手に義祖母である元伯爵未亡人が控えた。
夫は不在、エリーマイヤは伯爵を挟んで左手に立った。
馬車の車輪が砂利を踏む音が聞こえ、やがて二頭立ての馬車が滑り込んできた。
若く美しい夫人とやや年嵩の侯爵は、気品に満ち、年齢差を感じさせないくらい似通った穏やかな空気を纏っている。
旧友に会いたいという妻の願いを聞いて、新婚旅行の帰途にアシュフォード領に立ち寄った侯爵は、いかにも愛妻家らしく見えた。
侯爵夫妻と伯爵、老夫人の儀礼通りの挨拶の後、侯爵夫人アンナはエリーマイヤの姿に目をとめ、口元を緩めて、その手を取った。
「エリー。あなたがこうして出迎えてくださって、またお会いできて、とても嬉しいわ」
エリーマイヤは微笑む。
「ようこそ侯爵夫人。すっかり奥様になられて……、お幸せそうですわね」
「いやだわ、エリーったら。わたしたちの仲なのよ。昔みたいに話してほしいわ。でも……ええ、そうね。とても幸せだわ」
柔らかな笑みがこぼれ、空気が和らいだ。
昼餐が終わると、侯爵と伯爵は席を外し、女たちは客間でお茶を楽しんでいた。
客間には秋の花が飾られ、銀のティーセットが静かに光を返している。
お茶の香りに包まれながら、穏やかな会話が続いた。
王都の流行、舞踏会、季節の料理──どの話も、礼儀正しい微笑のまま通り過ぎていく。
その中で新婚のアンナが語る夫の話は初々しく、場を和ませた。
「彼はわたしをとても大切にしてくれるのよ。まるで夢のような毎日で──」
アンナの左手で輝く金の指輪が、光を受けてきらめき、夫の名を口にするたびに、その声音に幸福が滲む。
「彼ったら、戦の跡地を見たいと言うの。怖いけれど……不思議と、彼が隣にいると怖くないの」
「愛の力、というものかしら」
「ええ、そうかもしれないわ」
恥じらうような笑顔に、微笑んだまま、エリーマイヤの喉の奥で何かが鳴った。
彼女が侯爵と結婚すると教えられたときと同じような息苦しさを、ふと覚えた。
アンナは悪い娘ではない。
決して愚かではないし、見えない規律に縛られ、品評に晒され続ける貴族社会の中で、彼女とのひとときは、数少ない心休まる時だった。
それでも。
この女を、かつて見下していた。
美しく、恋に恋して、現実を見ない夢見がちな娘。
エリーマイヤよりも身分が低かった彼女は、自分のように、いやそれ以上に「貴族の女」としての覚悟を持たねば、守られはしないのだと信じていた。
──なのに。
今や彼女は、エリーマイヤ以上のすべてを手にしている。
目の前のアンナは幸せの形そのもので、彼女の笑顔のどこにも、不安の影など見えなかった。
彼女の押し殺した内心の痛みなど知らないアンナは、新婚旅行の話を嬉々として語った。
「そういえば──旅行の途中で、国境都市に滞在したのだけど、エリーの旦那様の評判をたくさん聞いたわ。とても素晴らしい方だそうね」
唐突に夫の話題が出て、エリーマイヤは僅かに目を見張った。
それを誤魔化すかのように、慣れた仕草でティーポットを傾け、侯爵夫人のカップに静かに茶を注ぐ。
「二杯目は少し深い味わいになりますのよ」
「まあ本当? ありがとう」
あたりに淡くなったベルガモットの香りが漂った。
アンナはカップを持ち上げたまま、ほんの一拍、言葉を探すように黙った。
「実は、そこで……少し気になる話を耳にしたのです」
そう言って、アンナはまず、元伯爵未亡人の義祖母の方を見た。
「そう。聞いておきましょう」
「アシュフォード卿は、医療部隊と協力して、画期的な新しい訓練を導入なさったとか。その訓練のおかげで負傷兵の回復が格段に早まった、と」
「まぁ……そう」
カップに注ぎ入れる紅茶がほんのわずか揺れる。
「最初は、ただの称賛だと思っていたのです。けれど、その、協力した看護師の女性ととても親密だと……」
老夫人の視線がこちらに流れた。
「今のところ、この話はあの都市の中だけだと思うわ。事実かどうかは、わからない。けれど、あなたが知らないままでいるのは、良くないと思ったの」
そう言って、アンナはエリーマイヤを見つめた。
「そのような話があるのね」
一呼吸して、彼女は、落ち着いた声で言った。
老夫人も落ち着き払った声音で、続けた。
「早く知らせてくださって、助かりました。……噂というものは、放っておくと、形を持ちますからね」
エリーマイヤは完璧な「平静さ」を保った。
夫の名が、妻以外の女と並べて語られる。
それだけのこと──けれど、それが貴族社会で、どれほど自分の立場を揺らすか。
世界から退場させられたルーベン子爵夫人の姿が、エリーマイヤの脳裏を過った。
彼女は唇の裏を噛み、泰然とした形を崩さないようにした。
ティーポットを持つ指先に力が入っていたことを、ただ誰も見ていなかっただけ。
秋の光がアンナの肩を照らし、きらめく。
エリーマイヤは、その光の中で──ひとり、静かに息を詰めていた。
*
その夜、侯爵夫妻の目のないところで、元伯爵未亡人は静かに言った。
「妻たるもの、夫の不始末は自らの恥と心得なさい」
針のような声だった。
女の立場は弱い。
夫の不品行が、事実なのかそうでないかは関係ない。
そのような話が流れること自体、妻の評価につながるのだ。
隅に押しやったはずのルーベン子爵夫人の姿が、頭の中に再び蘇った。
翌朝、宿泊した客たちを見送ってから、エリーマイヤは馬車を命じた。
「わたくし、自ら確かめてまいります」
冷たい朝の風が、石畳の落葉を翻す。
香りは遠ざかり、かわりに金属の冷たい匂いが鼻を掠めた。




