表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/34

第26章 境界線の向こう側

 扉が、妻の力で強く閉められた。


「……出ていって!」


 悲鳴のようなその声が、ライナスの胸を深く抉る。

 何が起きたのか理解できず、呆然としているうちに、妻の細腕で扉の外に押しやられた。

 扉の外、廊下に出ると、雨音に混じって、雷鳴が轟いている。

 だが、扉の向こうで妻の荒い呼吸が聞こえる気がした。

 しばらく動けなかった。

 背筋を、冷たいものが落ちていく。


(……何が……起きたんだ?)


 一度も想像したことがなかった。

 妻はいつも強く、毅然としていて、完璧で。

 こういう感情の乱し方をするなど、決してしない人だと思っていたから。


 夫婦として、互いの未来を尊重しあうために提案したつもりだった。

 価値観があまりにも違う。

 これ以上続ければ、疲弊する。

 自分の理想を押し付けてはいけない。

 そして、彼女の理想に、自分はなれそうにもないし、なりたくなかった。

 妻には、彼女にふさわしい生き方がある。

 そう思ったからこその提案だった。

 なのに──彼女は、泣いていた。

 怒りでも、悲しみでもなく、もっと深い何かで。


(……拒絶? いや、これは……何だ……?)


 妻の顔が脳裏に焼き付いていた。

 涙で濡れ、光を無くした瞳。

 頬をつたった雫。

 声にならない呼吸。

 そして、あの言葉。


「弱いわたくしは……必要ないのだもの」

 ライナスの喉がぐうっと痛くなる。

「完璧だから、求められたの」


(必要ない……? 完璧だから?)

(そんなつもりは、一度も……)

 なぜ彼女があそこまで取り乱したのか、理解が追いつかない。


 妻の価値観は、「貴族として」完璧であること。

 夫婦とは役割の共同体。

 弱さを見せるという発想がない。

 ずっと、そう思ってきた。

 けれど……。


(……俺は……彼女の何を見てきた?)


 ライナスは壁に手をついた。

(彼女は、俺と意見が合わないから、泣いたんじゃない)

(離縁と言われたから泣いた、というよりも……)

 押し隠していた何かが、内側から突き崩されたような。

 あれは──


「存在そのものが否定される」という恐怖の涙だった。


 その事実が胸を締めつける。

(俺は、そんなつもりでは……)

 妻の涙が脳裏から離れない。


「完璧にふるまってきたのに」

「強くあろうとしたのに」

「嫌でも男性に縋って生きていくしかないのに」


 ライナスには、想像できない世界だった。

 妻には、弱さなどないのだと、思っていた。

 それほどまでに彼女は完璧だった。

 弱さを隠しているのではない。

 弱さという概念を持てないほど、生きてきた世界が違う。


 彼は、初めて知った。

 そして、気づいた。


(俺は、彼女と支え合って生きていきたかったんじゃないのか……?)


 離縁の提案は、誠実さから。

 互いの未来を尊重しようとしただけ。

 でも妻にとっては、人生を否定される瞬間だった。

(違う……)

(俺は、彼女を傷つけたかったわけじゃない)

 おなじ道を、彼女と進むと決めた。

 逃げ道がなくなっただけと言い切った彼女の、華奢な肩を、思い出した。

 あのとき、自分は決めたはずだ。

 守られるだけじゃない。

 自分も彼女を守る、と。

 恋する気持ちからじゃない。

 愛でもない。

 けれど、彼女は同志で、家族だった。


 胸が痛む。

 妻の涙は、理解できない痛みをはらんでいた。


 守りたいと思っていたはずの相手を、自分の言葉で追い詰めた。

 その事実は、どう言い換えても消えない。

 それなのに──、

 脳裏から離れないのは、あの表情だった。

 怒りでも、皮肉でも、体面でもない、鎧を纏っていない顔。

 出会ってから、一度も見たことのなかったもの。

 貴婦人としてでもなく、正しい妻としてでもなく、ただ、限界まで耐えてきた人間の顔だった。


 ……泣かせた。


 それだけで、十分にやらかしている。

 けれど、

 彼女がようやく自分とおなじところに立ったような、そんな気がして。

 そう思ってしまった自分に、ライナスは小さく息を呑む。

 喜びじゃない。

 安心でもない。

 でも、これを見てしまった以上、もう、何もなかったふりはできない。

 取り繕った言葉で済ませることも、正しさを並べて距離を取ることも。

 あの鎧を、また無理に着せるわけにはいかなかった。


 上手に話す必要はない。

 正解を言う必要もない。

 ただ──逃げない。

 それだけでいい。


 彼は、扉の前に立った。

 ノックをする指が、わずかに震える。

 それでも、引っ込めなかった。


「……入ってもいいか」


 声は低く、飾り気のないものだった。

 話せるかどうかは、わからない。


 けれど、泣かせたまま、背を向ける男でいるつもりはなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ