第26章 境界線の向こう側
扉が、妻の力で強く閉められた。
「……出ていって!」
悲鳴のようなその声が、ライナスの胸を深く抉る。
何が起きたのか理解できず、呆然としているうちに、妻の細腕で扉の外に押しやられた。
扉の外、廊下に出ると、雨音に混じって、雷鳴が轟いている。
だが、扉の向こうで妻の荒い呼吸が聞こえる気がした。
しばらく動けなかった。
背筋を、冷たいものが落ちていく。
(……何が……起きたんだ?)
一度も想像したことがなかった。
妻はいつも強く、毅然としていて、完璧で。
こういう感情の乱し方をするなど、決してしない人だと思っていたから。
夫婦として、互いの未来を尊重しあうために提案したつもりだった。
価値観があまりにも違う。
これ以上続ければ、疲弊する。
自分の理想を押し付けてはいけない。
そして、彼女の理想に、自分はなれそうにもないし、なりたくなかった。
妻には、彼女にふさわしい生き方がある。
そう思ったからこその提案だった。
なのに──彼女は、泣いていた。
怒りでも、悲しみでもなく、もっと深い何かで。
(……拒絶? いや、これは……何だ……?)
妻の顔が脳裏に焼き付いていた。
涙で濡れ、光を無くした瞳。
頬をつたった雫。
声にならない呼吸。
そして、あの言葉。
「弱いわたくしは……必要ないのだもの」
ライナスの喉がぐうっと痛くなる。
「完璧だから、求められたの」
(必要ない……? 完璧だから?)
(そんなつもりは、一度も……)
なぜ彼女があそこまで取り乱したのか、理解が追いつかない。
妻の価値観は、「貴族として」完璧であること。
夫婦とは役割の共同体。
弱さを見せるという発想がない。
ずっと、そう思ってきた。
けれど……。
(……俺は……彼女の何を見てきた?)
ライナスは壁に手をついた。
(彼女は、俺と意見が合わないから、泣いたんじゃない)
(離縁と言われたから泣いた、というよりも……)
押し隠していた何かが、内側から突き崩されたような。
あれは──
「存在そのものが否定される」という恐怖の涙だった。
その事実が胸を締めつける。
(俺は、そんなつもりでは……)
妻の涙が脳裏から離れない。
「完璧にふるまってきたのに」
「強くあろうとしたのに」
「嫌でも男性に縋って生きていくしかないのに」
ライナスには、想像できない世界だった。
妻には、弱さなどないのだと、思っていた。
それほどまでに彼女は完璧だった。
弱さを隠しているのではない。
弱さという概念を持てないほど、生きてきた世界が違う。
彼は、初めて知った。
そして、気づいた。
(俺は、彼女と支え合って生きていきたかったんじゃないのか……?)
離縁の提案は、誠実さから。
互いの未来を尊重しようとしただけ。
でも妻にとっては、人生を否定される瞬間だった。
(違う……)
(俺は、彼女を傷つけたかったわけじゃない)
おなじ道を、彼女と進むと決めた。
逃げ道がなくなっただけと言い切った彼女の、華奢な肩を、思い出した。
あのとき、自分は決めたはずだ。
守られるだけじゃない。
自分も彼女を守る、と。
恋する気持ちからじゃない。
愛でもない。
けれど、彼女は同志で、家族だった。
胸が痛む。
妻の涙は、理解できない痛みをはらんでいた。
守りたいと思っていたはずの相手を、自分の言葉で追い詰めた。
その事実は、どう言い換えても消えない。
それなのに──、
脳裏から離れないのは、あの表情だった。
怒りでも、皮肉でも、体面でもない、鎧を纏っていない顔。
出会ってから、一度も見たことのなかったもの。
貴婦人としてでもなく、正しい妻としてでもなく、ただ、限界まで耐えてきた人間の顔だった。
……泣かせた。
それだけで、十分にやらかしている。
けれど、
彼女がようやく自分とおなじところに立ったような、そんな気がして。
そう思ってしまった自分に、ライナスは小さく息を呑む。
喜びじゃない。
安心でもない。
でも、これを見てしまった以上、もう、何もなかったふりはできない。
取り繕った言葉で済ませることも、正しさを並べて距離を取ることも。
あの鎧を、また無理に着せるわけにはいかなかった。
上手に話す必要はない。
正解を言う必要もない。
ただ──逃げない。
それだけでいい。
彼は、扉の前に立った。
ノックをする指が、わずかに震える。
それでも、引っ込めなかった。
「……入ってもいいか」
声は低く、飾り気のないものだった。
話せるかどうかは、わからない。
けれど、泣かせたまま、背を向ける男でいるつもりはなかった。




