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第21章 疑わなかったものと選んだもの

 エリーマイヤ・グランデッタの人生は、風で簡単に翻るほど、軽かった。


 伯爵総領家の第一子として生まれながらも、女だったため家を継ぐことはできず、また男兄弟もいなかったことから、次期伯爵は父の弟──叔父だと言われていた。

 当主の父は、放蕩を絵にかいたような人物で、あちこちに愛人を作り、遊び歩いていた。

 そんな父のどこがよかったのか、母はそんな父を一途に愛し続け、父が愛人のもとへ行くたびに泣いて悲嘆に暮れていた。


 父が留守にするたびに、母は子ども部屋を訪れた。

「お父様は、わたくしたちを大切に想っていますからね」

 母は泣いていた。

 けれど美しく泣いていた。

「愛は素晴らしいの」と言うために泣いているみたいで、エリーマイヤはうまく呼吸ができなかった。


 愛されれば、幸せになれる。

 愛されなければ、母のように泣いて暮らすことになる。

 愛とは、なんて痛ましいものなんだろう。

 

 けれどエリーマイヤだって、物語に出てくるような「王子様」に憧れていた。

 自分を幸せにしてくれる王子様が、きっと現れるのだと、信じて疑っていなかった。

 そのときは、まだ。


 *


 小さなエリーマイヤが、いちばん楽しみにしていたのは、夏と冬。

 年に二度、グランデッタの領地の屋敷に「帰ってくる人」がいた。

 全寮制の学校から、長い休暇のたびに戻ってくる、従兄。

 ジョー・グランデッタ。

 エリーマイヤの父の弟、その息子だ。

 その知らせが届くと、使用人たちは目に見えて忙しくなった。

 客間の寝具が新しく替えられ、食卓には彼の好物が並び、父は学業について、領地について声をかける準備をする。

 彼が来ると、屋敷の空気が少し柔らぐ。

 使用人たちの動きは慌ただしいのに、不思議と張りつめない。

 それはきっと、彼が誰に対しても穏やかで、なかでも特に、エリーマイヤに優しかったからだ。


 ジョーが帰ってくると、世話係(ナニー)と母親、使用人と触れ合うだけの退屈な日々が一変する。

 彼は、エリーマイヤのことを「小さな妹」のように扱った。

 彼女が顔を上げると、彼の声は、いつも上から降ってきた。

 廊下を歩くときは、必ず彼女の歩幅に合わせる。

 書庫に入るときは、高い棚の本を無言で取ってくれる。

 庭で転びかけたときには、何も言わずに手を差し出した。

「ほら」

 それだけで、十分だった。

 叱ることも、命じることもない。

 彼のそばにいると、守られている、という感覚が確かにあった。



 子ども部屋付きの教育係から、「淑女としてのふるまい」を学び始めたばかりのある夏の日、エリーマイヤは帰ってきた従兄の荷解きを眺めていた。

 制服の畳み方はきっちりしていて、靴は磨かれ、鞄の中身も無駄がない。

「ジョー兄様、学校って、大変なのでしょう?」

 うんと背伸びして、大人ぶった口調でそう尋ねると、従兄は少し困ったように笑った。

「まあね。でも──」

 一度、言葉を切ってから、彼は続けた。

「君がここで穏やかに過ごしていると思うと、悪くないな、と思えるよ」

 それは、甘い言葉ではなかった。

 けれど幼い彼女には、それで十分だった。

 自分の存在が、誰かの支えになっている。

 それだけで、胸が温かくなった。



 冬の夜、暖炉の前で彼女が眠ってしまったときのこと。

 気づけば、毛布がかけられていた。

 ジョーは隣の椅子に腰かけ、書物を読んでいる。

「起きていてもいい?」

 目が覚めた彼女が小さく尋ねると、彼は視線を上げた。

「無理はしなくていいからね。……でも、起きていたいなら、ここにいなさい」

 その声は、落ち着いていて、優しかった。

 エリーマイヤは思った。

 この人のそばは、安心する。

 理由など、考えなかった。



 夏の領地での過ごし方は、穏やかだった。

 それは、エリーマイヤが本格的に家庭教師(ガヴァネス)から学ぶようになっても、変わらなかった。

 午前中は、彼女の勉強を見る。

 といっても、教師のように厳しくはない。

「ここは、こう読むんだよ」

 そう言って、エリーマイヤの指の先をそっと紙の上に導く。

 間違えても、声を荒げることはない。

「大丈夫。今は完璧じゃなくてもいい」

 その言葉に、彼女は何度も救われた。


 午後になると、屋敷の庭を歩いた。

 ジョーは、領地の話をよくした。

「この川は、春になると増水するんだ」

「南の森は、昔は境界線だったんだよ」

「いずれ、きちんと知っておいた方がいい」

 いずれ、という言葉が、なぜかエリーマイヤの胸に、自然に落ち着いた。

 彼は、未来を語るとき、いつも彼女をその中に含めていた。


 だから。

「将来は、二人を結びつけることになるだろう」

 大人たちが何気なく口にした言葉を聞いたとき、エリーマイヤは驚きこそすれ、恐れなかった。

 だって、未来を思い描くと、そこにはいつも──自分の歩幅に合わせて歩いてくれるジョーの姿があったから。

「ジョー兄様が、エリーの王子様なの」



 それから数年後のある日、近隣の屋敷で小さな昼餐会があった。

 エリーマイヤはまだ幼く、正式に社交界へ出る年ではない。

 けれど「顔見せ」という形で、同席することになった。

 馬車を降りるとき、ジョーは迷いなく彼女に手を差し出した。

「大丈夫。僕がいる」

 その言葉は、社交辞令ではなかった。

 席では、彼は彼女を「飾り物のお人形」のようには扱わない。

 話題を振りすぎることもなく、かといって、放っておくこともない。

 彼女が緊張して言葉に詰まると、自然に話を引き取ってくれた。

 ──まるで、これが当たり前であるかのように。


 帰りの馬車の中、エリーマイヤは小さく息をついた。

「疲れた?」

「……ちょっとだけ」

 するとジョーは、少しだけ困ったように笑った。

「無理をさせたかな」

 そう言いながらも、その声には後悔よりも、責任の響きがあった。

 エリーマイヤは思った。

(ジョー兄様は、わたしを守ることを自分の役目だと思っているんだわ……)

 それは、嫌な感じではなかった。


 ただ、静かで、穏やかで、信頼できる人。

 この人の隣なら、きっと穏やかで、正しく、幸せな人生になる。

 そう、疑いなく思えたのだ。


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