第20章 慟哭
言われた言葉が入ってこなかった。
エリーマイヤは呆然と、夫を見つめた。
「今……なんて……」
声が掠れる。
夫は苦々しい表情で、それでも静かな声でもう一度言った。
「……離縁しよう、と言った」
息が止まる。
理解が追いつかず、頭が真っ白になった。
──離縁。
その言葉が、意味として結ばれるまでに、ほんのわずかな時間があった。
まるで、氷の上を踏み外したように、足場が消えた感覚。
(……なぜ?)
国境に来てからの出来事が、脳裏をよぎる。
医療棟での挨拶。
噂への対処。
懇親会で交わした言葉。
夫が向けてきた、柔らかな視線。
──否定される理由になるような振る舞いはない。
少なくとも、彼自身もそう言っていた。
そこまで考えて、ふと、思考を止めた。
(……違いますわね)
これは、彼女が正しかったかどうかを問われている話ではない。
助けになったか。
役に立ったか。
評価されたか。
そういう話ではない。
(……また、ですのね)
既視感。
遠い昔から何度も味わってきた感覚が、彼女を襲った。
自分の意思とは関係なく、誰かの都合と判断で、立場が、役割が、人生が動かされる。
そして、その先が、はっきりと見えてしまう。
──離縁。
その言葉が、社交界でどう響くか。
どんな声色で囁かれるか、同情の仮面を被った視線を浴びるか。
「やはり何かあったのね」という含み。
微笑みながら、一歩引かれる距離。
招待状の数が減り、慎重に選ばれる話題。
子どもたちに向けられる、探るような目。
安全で、無難で、完璧だった自分が、一夜にして「触れてはいけない存在」に変わる。
それが現実味をもって立ち上がる。
目を見張って固まった彼女に対して、彼はまるでそれが慈悲かのように、幾分か優しい声音で続けた。
「……君は、貴族の婦人として強く、常に完璧であろうとしてきた。俺はそれを尊敬している。だが……」
気まずそうにライナスは、目を逸らす。
彼女の奥底で、ずっと鍵をかけて封じ込めていた何かが、ギシ、と音を立てた。
「価値観も、倫理観も違いすぎる。……俺は、確かにアシュフォードの家に生まれた。だが、ずっと軍人として生きていくつもりだったし、そういう生き方が性に合っている。何の因果か家を継がざるを得なくなったが……」
言葉を切り、そこで彼は、エリーマイヤの瞳を見つめた。
「俺は君のような生き方はしたくない」
まっすぐ、告げられた。
三年前、夫に投げられた言葉が、耳の奥で蘇る。
『君の正義に触れるたび、俺は間違っていると言われている気がした』
『俺の生き方を……一度も認めなかった』
違う。
違う。
(わたくしは間違っていない……!)
アシュフォードの家のために、ライナスのために。
そして、彼女自身の未来のために。
常に貴族夫人として正しい道を選び取ってきた。
良い娘で、良い妻で、良い貴族で。
母のようには、なりたくなかった。
父に期待して、裏切られてまた泣いて。
それなのに、「お父様の帰る場所は、お母様のところなのよ」と泣きながら、呪文のようにエリーマイヤに言い聞かせる。
誰かに心を傾けるということは、あんな惨めな姿になることなのだ。
彼女はそれを、母の姿で知ったから。
それでも。
貴族令嬢として生まれた彼女は、結局はだれかの庇護下にいなければ、生きていけない。
だから、「選ばれる貴婦人」になった。
だってそれが、エリーマイヤが生きるための道だったから。
「あなたと……」
発した声は、思っていたよりも小さくなった。
「考え方が違うことなんて、三年前だってわかっていたことだったわ」
それなのに、どうして今更、離縁などと言い出すのか?
まるで自分が苦しいかのように、夫は顔を歪める。
「夫婦は、互いの弱さを預ける関係でありたい。俺はそう思っている。けれど、君は違う。君にとって俺は、弱さを預ける相手ではない。そして俺も、君に弱さを預けたいとは思えない。君はそれをあげつらうだけだから。……この結婚を続けることは、お互いを苦しめるだけだ」
(わたくしが、あなたを苦しめていたというの……?)
雷鳴が轟き、空が一瞬明るくなった。
雨は一段と激しさを増している。
三年前のあの時、彼は、どんな表情をしていただろう。
昼間に見た、看護師の女の顔が浮かび上がる。
そして、その向こうに、アンナの満ち足りた笑顔が見えた。
(わたくし、夫にそんな大それたことを望んでなんかいないわ)
彼女は、妻として、愛されようなんて望まなかった。
それなのに、どうして。
傾きかけていた伯爵家を共に支え、後継ぎを産み、今回は醜聞になりそうな話を潰した。
ライナスだって、彼女のその手腕を認めたではないか。
それでも、なお、切られるのか。
「……あなた、わたくしを……捨てるおつもりなのね……?」
声が震えた。
彼女が生きてきた意味。
自分が妻であるという拠り所。
家を守ってきた誇り。
「……おい?」
夫が様子を伺うように眉をひそめ覗き込んできたが、もう構っていられなかった。
「わたくしは、……完璧でなくてはならなかったわ。弱いわたくしは……必要ないのだもの。完璧だから、アシュフォード家に求められたの」
すべてが、瓦解していく恐怖。
頭の奥がぐらぐらと揺れている。
今、彼女は、どこに立っているのかさえ、定かではなかった。
自分が何を言っているのかも。
「それでも、足りなかったとおっしゃるの……?」
これ以上、何を差し出せばよかったのだろう。
「お互いに苦しいから、ですって……? わたくしのことを思いやったように言わないで。あなただって、……変わらない」
封印の中で眠っていた感情が、言葉が、涙と一緒に溢れ出た。
「離縁されて、わたくしがその先にどうなるかなんて、あなたは考えもしていない」
あり得ない。
泣くなんて。
夫の前で、涙を見せるなんて。
だが止められない。
「例えどんなに嫌だと思っても、女性は、男性に縋って生きていくしかないのよ……!」
侯爵夫人となったアンナが、幸福の頂点で笑っている。
善良そうな顔の裏で、きっと彼女も嗤っているのに違いない。
愛を求めなかったエリーマイヤは夫に捨てられ、愛を求めた彼女は、夫に愛されながらエリーマイヤを見下ろしている。
元伯爵未亡人の義祖母の刺すような冷たい眼差しが、「役立たず」と彼女を貫く。
社交界から追放されたルーベン子爵夫人。
広げた扇の影で、くすくすと嘲笑される自分。
信じては裏切られる母の、涙。
エリーマイヤを置いて、あっさりと幸せになったあの人。
「わたくしは……、あなたの人生にも、必要ではなかったのね」
幼い自分が泣いている。
捨ててきたあの頃の。
疑わずに、ただ信じていた頃の──
「出て行って!!」




