第19章 雷鳴
医療棟から客室に戻り、エリーマイヤは静かに紅茶を飲んでいた。
雨足は強くなり始め、雷鳴が近付いてくる気配がしている。
雨の音に混じって、ノックが二度、控えめに響いた。
「若奥様。……若旦那様がいらっしゃいました」
予想していなかったわけではない。
どこかで来るだろうとは思っていた。
でも、鼓動がわずかに跳ねた。
「入ってもらって」
扉が開き、ライナスが姿を見せる。
軍靴は濡れ、軍服の襟元は少し乱れていて、今日が慌ただしい一日だったことが分かる。
「少し時間ができた」
それだけ言って、夫は何か言いたげに口を開いたが、そのまま黙り込んだ。
エリーマイヤは嘆息すると、侍女に席を外させる。
「今日はどうなさったの?」
彼女から水を向けられ、彼は口を開いた。
「……噂の件だが、君の働きで、ずいぶんと落ち着いたらしい。兵士たちも、医療棟の者たちも」
彼の目が明らかに和らいだ。
「……俺にはできないことだ」
(分かっているわ。あなたは、こういうことが本当に苦手ですものね)
彼女は優雅な仕草で、ティーカップをソーサーに戻した。
「そうね。あなたは不器用だもの。でも、気に入ってもらえたならよかったわ」
ライナスは、真摯な眼差しで彼女を見つめた。
「……君には本当に手間をかけさせた。悪かった」
なんとなくその瞳を見ていられず、彼女はフイと視線を逸らして立ち上がった。
「そうね。……こういう噂で妻が動かなければならないなんて、二度と起こしてほしくはないわね」
エリーマイヤは息を吐いた。
そして、今日対峙した彼女のことを思い返す。
エリーマイヤがライナスの妻だと知っていて、何事もないかのような、動揺ひとつ見せない落ち着きぶり。
私情を露わにしない、冷静さ。
「あなたが、……医療棟のあの方とどういう関係であるにせよ、とても優秀な方だと分かりましたわ」
夫の瞼がピクリと動く。
「立場を弁えていらっしゃるようですし、あなたの愛人を務める方として、才覚がありそうでしたわね」
エリーマイヤは続けた。
「噂は、これでしばらく静まるでしょうけれど……、ただ、噂が立つとわたくしの立場にも響きます。体面だけは守ってほしいの。囲うのであれば、静かに。どうか、もっと上手に立ち回ってくださいませね」
一息に言いきって、夫に背を向ける。
なぜか、彼の顔を見て言うことができなかった。
長く、──居心地悪い静寂が訪れた。
「……愛人など、いない」
やがて聞こえてきた声は静かだったが、その奥に鉄のような冷たさが潜んでいた。
エリーマイヤは瞬きする。
「……そう」
脳裏に、今朝、看護主任の話題を出した時の夫の動揺が通り過ぎた。
(今は、愛人ではないということ?)
(どちらにしても、彼女と何もなかったということではないわ)
「あなたがそう言うのであれば、それでもいいわ。今更、どうでもいいことよ」
「……何?」
彼の声に険が混じる。
「噂と事実は違う。君は事実を知ろうとしたか?」
(…………それは)
言葉が喉にひっかかる。
言葉に詰まった妻の姿を見て、ライナスは自分の卑怯さに歯噛みした。
ヘイスティングスから、今日の医療棟での報告を聞きながら、胸の内側で何かが溶けていくような、妙な感覚があった。
妻らしい、計算された振る舞い。
噂を沈める技。
兵士たちにまで礼を尽くす落ち着き。
正直、驚いた。
軍嫌悪の妻が、まさか「軍の空気を整える役」になるとは思っていなかった。
だから礼を言いに来た。
それだけだったのに。
(……愛人?)
その言葉が、そのまま突き刺さっている。
なぜだろう。
怒りではなかった。
ただ、冷たい虚しさ。
事実を教えなかったのは、自分だ。
ジェーンの今の姿は、守れなかった自分の弱さそのもの。
弱さを妻に見せるのが、怖かった。
事実を伝えられない後ろめたさが、ライナスにはあった。
それでも──。
(俺がいつ……誰かを囲った? あんな噂、くだらないと放置していただけだ)
だが、妻にしてみれば、それは「放置」では済まないことなのだろう。
「……噂で夫婦の在り方を語るのはやめろ。俺は、誰も囲ってはいない」
妻はライナスの目を見据えた。
その瞳に怒りは見えない。
嫉妬も哀しみもない。
「それでも、わたくしは体面を守るのが務めよ。あなたがどう思おうと」
ただ、必要な処理だけをしている口調。
それが、逆に胸を刺した。
(……体面の話か)
彼女は「妻の務め」として淡々と対応する。
彼自身の感情など、彼女の中には存在しないかのように。
彼はため息をつくでもなく、ただ静かに言った。
「……やはり、君とは、根本が違うな」
妻は昔から変わらない。
それでも昨日は、その変わらない姿勢に好感を持った。
それは彼女が、彼に理解を示そうとしていると感じたからだ。
でも、──違った。
ライナスの奥が、静かに閉じた。
「君と俺は合わない」
彼女は微笑んだ。
完璧な貴婦人の微笑み。
「そうね。わたくしたちは、最初から違っていたわ」
仮面のような微笑を見て、ライナスの中に苦い思いが広がる。
彼女には、必要ないというのだろうか。
安らぎも、信頼も、家庭としての安心も。
──本当に?
そして気付いた。
彼の愛人を許容している彼女の中では、逆も有り得るのだと。
それが有り得る世界に、妻は平然と立っている。
そのことに、ライナスの背が、ゾッと凍った。
(俺は、自分の知らないところで、誰かと妻を分け合う関係を夫婦だとは思えない)
(共に生きる相手には選べない)
何より、ライナスが耐えられそうになかった。
そして静かに、苦しい決断が胸の中で形を持った。
「エリーマイヤ。……離縁しよう」




