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第18章 行き着く先

 医療棟の前で、エリーマイヤは足を止めた。

 朝から続く雨は、相変わらず途切れることなく降っている。

 激しくはないが、差した傘の表面を叩き続け、石畳を黒く濡らすには十分だった。


(とうとう、この時がきたわ)


 ここで、終わらせる。

 胸の内で、そう確認する。

 怒りも、問い詰めも、必要ない。

 目的は、ただ一つ。

 ──噂に、引導を渡す。

 正確には、噂そのものではなく、「あり得たかもしれない」と想像してしまえる隙間に。


(わたくしが、正しく振る舞えばいい)


 看護主任を責める必要も、見下す必要もない。

 ましてや勝ち誇る必要など、最初からない。

 やるべきなのは、公式に、公然と、淡々と礼を述べる。

 それだけで十分だ。


 夫がどこまで関わっていて、本当はどうなのか。

 それは、今はどうでもいい。

 ここで私情を挟めば、噂に物語を与えてしまう。

 それだけは、避けなければならない。

(これは、わたくしの役目)

 エリーマイヤが、何事もなかったかのように、礼を述べ、立ち去る。

 それ以上に、噂を空虚にする行為はないだろう。


 こういうとき、いつもの彼女なら、もっと凪いだ気持ちでいることができた。

 けれど、今。

 彼女の心は、いつもより波打っている。


 夫の恋人(・・)というものに対して、エリーマイヤは、嫉妬心を覚えることも、怒りを感じることもなかった。

 けれど、このすっきりしない感情はなんなのだろう。

 自分は、貴族夫人として、正しく振る舞っている。

 それなのに、なぜか心が晴れない。


 一歩先に立った副隊長ヘイスティングスに気付かれぬよう、彼女は背筋を伸ばし、表情と呼吸を整えた。


「ご到着です」


 ヘイスティングスが短く告げると、扉はすぐに内側から開かれた。

 中へ入った瞬間、雨音は、厚い壁と天井に吸われ低くなる。


 廊下には、先日も医療棟の案内をしてくれた軍医部副官のブレナンが待っていた。

「またお会いできて光栄です」

 にこやかに礼をするブレナンに、彼女も微笑んで礼を返した。

「こちらこそ。先日は、医療訓練へのご尽力について、御礼を申し上げることができませんでしたので」

「とんでもない。……大尉の医療訓練案の協力者は、こちらの部屋に集めております」


 彼に案内されたのは、廊下の奥にある一つの部屋だった。

 白衣に身を包んだ者が四名、整然と横一列に並んでいる。

 室内には、その四名のほか、上官と思われる者と、記録係と雑務に当たる医療兵が数名在室しており、部屋の外からは、看護師や医療兵が行き交う気配が絶えず伝わってきた。


 そしてエリーマイヤは、そこで初めて看護主任を目にした。

(彼女が……)

 件の看護主任がどの人か、すぐに分かった。

 そもそも女性は、彼女しかいなかったから。


「本日は、お時間を頂戴いたします」

 ヘイスティングスが、わずかに頭を下げる。

 エリーマイヤは、一歩前に出た。

 外套はすでに脱いでいる。

 簡素な装いだが、身支度に隙はない。

 それでも、裾の内側に残る湿り気が、先ほどまで外にいたことを否応なく思い出させた。


「本日は、お時間をいただきましたこと感謝しております」

 一礼してから、ゆっくりと顔を上げた。

「夫が策定いたしました医療訓練は、皆さまの尽力なくしては、成し得なかったと聞いております」

 そう言って、彼女は控えめな包みを示した。

 中身について、詳しい説明はしない。

「こちらを医療班の皆さまでお役立てください」

 それは礼儀であり、必要な形式でもあった。

「……恐れ入ります」

 一番階級が上であろう者が、代表して受け取る。


 エリーマイヤは一人ひとりに視線を向け、最後に、看護主任に目を留めた。

 白い看護服を乱すことなく着ている、つややかな栗色の髪を無造作に束ねただけの、飾り気のない女性だった。

 彼女は、妻の前で取り乱すことも、優越感に浸るような振る舞いをすることもなかった。

(……なるほど)

 この人は、自分の立場を理解している。

 他の医療隊員と並んでいても、浮くことはなく、それでいて埋もれもしない。


(あの噂さえなければ……)


 その考えが、自然と胸に浮かぶ。

 もしも、悪意を孕んだ噂がなかったなら……。


「──伺いました」


 穏やかで凪いだ瞳が、一度だけ瞬きする。 

「今回の訓練案は、あなたの役割が大きく貢献した、と」

 誰から、とはあえて言わない。

 彼女は、純粋に驚いたかのようにわずかに目を見張ったが、すぐに表情を整えて答えた。

「職務を果たしたまでです」

 淡々とした返答だった。


 エリーマイヤは、評価を重ねることも、感情を添えることもせず、静かに頷いた。

「それでも、お礼を言いたかったのですわ」


(……相応しかったのかもしれないわ)

 夫の人生に関わる女性として。

 あるいは──夫の傍に立つ者として。


 *


 エリーマイヤが去った後。

 医療棟の部屋の中に、わずかな間が落ちた。

 残された人たちは誰も、すぐには口を開かない。

 医療棟特有の、器具のかすかな金属音と、紙をめくる微かな音、看護師や衛生兵たちのざわめきが、部屋の外から聞こえてくる。


「……では、各自、業務に戻ってくれ」

 軍医からの言葉を合図に、室内の者たちはそれぞれの持ち場へと戻り始めた。


「……思ってたのと、違ったな」

 部屋の外で作業をしていたひとりが、ぽつりと呟いた。

 誰に向けた言葉でもない。

「何が?」

 と、別の者が返す。

「もっと……こう、何かあるかと思ってた」

 言葉を選びながら、曖昧に手を動かす。

「修羅場、ってやつ?」

 誰かが小さく鼻で笑った。

「修羅場なら、仕事にならんだろう」

 その通りだ、というように、数人が無言で頷く。

「奥方様、淡々としていらしたな」

「ええ。礼だけ言って、それで終わりだった」

「主任も、いつも通りだったしな」

 室内にいた者が、同意する。

 昨日、ジェーン本人が否定していたとはいえ、この場にふたりが揃うのだ。

 期待されていた衝突。

 張り詰めた空気。

 言葉にされない確執。

 ──そのすべてが、存在しなかった。

「あれで何かあるなら、逆に不思議だ」


「……まだ、そんなこと言ってるんですか」


 声がして、話をしていた者たちはぎょっと振り返る。

 横を通り過ぎた、看護主任ジェーンだった。

 声は低く、誰かを咎める調子でも、笑い飛ばすほどの軽さでもない。

 話をしていた者たちは、気まずげに目を逸らす。

 彼女は半ば呆れたように、それ以上は何も言わず、外科病棟へと去っていった。


 看護主任の背中を見送り、持ち場に戻った医療隊員たちだったが、備品棚の陰で、待ち構えていた数人に捕まった。


「……どうだった?」


 勢い込んで尋ねられるが、答えられることはそう多くない。

「どうって……、形式通りに御礼言って、それで終わり」

「正直……」

 別の男が、言葉を選ぶ。

「奥方様が噂を知ってたのかどうかすら、分からなかった」

「だよな」

 誰かが、小さく息を吐く。

「やっぱり、噂は完全な噂ってことか。……大尉にも申し訳ないというか、顔向けできないな」

「何も言わないのをいいことに、好き勝手、想像してたから」

 そこへ、別の声が続く。

「そういえば。前に一回、第二の副隊長から注意があったよな」

「ああ……」

「根拠のない話を広げるな、ってやつ」

「素直に聞いとくべきだった」

 一瞬、苦い沈黙が落ちた。


「ここまで主任が噂にされるのって、……逆におかしくないか?」

「……嫉妬、だろ」

 ぼそりと、静かな声で男は続けた。

「そもそも看護主任が主任に抜擢されたのは、仕事ができるからだ。それを、面白くない人間がいたんじゃないか」


 噂は、誰かの感情から生まれたもので、事実から生まれたものではなかった。

 それが、ようやく腑に落ちた。


 そこへ、少し遅れて、女の声が挟まる。

「……でもさ」

 空気が、わずかに揺れる。

「本当に、何もなかったって言い切れる?」

「完璧に隠してたか、……奥方公認って線もあるんじゃない?」

 その瞬間、別の女が、はっきり言った。

「それ、失礼よ。今日のやり取り、見てた人たちが言ってるじゃない」

「様子を探るとか牽制するとか、そんな空気、一切なかったよ」


 年上の女が、淡々と告げる。

「これ以上続けるなら、問題になるわよ。噂話で人の評価を貶めるのは、立派な職務違反よ」

 居心地悪そうに、疑いを口にしていた女たちが視線を逸らす。

「……もういいわ」

「行こ」

 短く言って、その場を離れた。


 残された空気の中で、男の一人がぽつりと漏らす。

「……女って、こえーな」

 すぐに、別の女が返す。

「その場に残ってる私たちも、女なんですけど?」

 誰かが吹き出す。

「悪い悪い」

「でも今のは、性別どうこうの話じゃないな」

「人の問題だ」

「……確かに」

 作業に戻りながら、誰かが言った。


 噂は、否定されたわけでも、裁かれたわけでもない。

 ただ、続ける理由を失った。

 そして医療棟は、いつもの忙しさへと戻っていった。


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