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第17章 嵐の前の……

 その日は朝から雨が降っていた。

 医療棟は、奇妙なほど静か。

 忙しさが消えたわけではない。

 包帯は減り、報告書は積まれ、廊下にはいつも通り人が行き交っている。

 それでも、どこか──空気が落ち着きすぎていた。

 噂が飛び交っていた頃の、あの下世話なざわめきはもうない。


 前日、看護主任──ジェーンは人前で噂を否定した。

 曖昧さの入り込む余地を残さずに、はっきりと。

 それを聞いていた者たちは、今では誰一人、その話題に触れない。

 謝罪も、言い訳もない。

 触れないことが、暗黙の了解になっていた。


 ジェーンはその中心にいながら、いつも通り職務をこなしていた。

 声の調子も、指示の出し方も変わらない。

 誰かと目が合っても、視線を逸らすことはしない。

 昨日、言うべきことはすべて言った。

 それだけのことだ。

 内心がまったくの平穏かと言えば、嘘になる。

 だが、少なくとも──心の中のよどみは、もうなかった。


 そんな折、看護師がひとり近づいてきた。

「主任。司令部から連絡です」

 手を止めて、顔を上げた。

「本日、アシュフォード大尉の奥方が……、医療棟を再訪問されるそうです」

 ジェーンは、驚いた。

(また?)

 それでも、動揺はしなかった。

「理由は?」

「医療訓練での功績に対する御礼、とのことです。大尉の訓練案に関わった者、数名に」

 それは断りようのない、正式な理由だった。

「分かりました。準備を」

 若い看護師が去ったあと、彼女は一瞬だけ、思考を巡らせた。


 奥方のピンと伸びた背筋と凛とした静かな眼差し、たおやかな物腰を思い出す。

(あの方が謝意を伝えに……)

 品位ある高位貴族の婦人。


(とても綺麗な方だった)

(醜いことなど、何も知らないような。すべてが思いのままになるような、そんな方に見えた)

 噂をあのままにしていたら。

(……わたしは、あの方に、どんな思いをさせようとしていたのだろう)

 答えは、もう出ている。

 だからこそ、今は──職務として、迎えるだけだった。


 *


 エリーマイヤは部屋の中から、雨が降るのを眺めていた。

 石の壁に囲まれた城塞都市内は、降りしきる雨のせいで一層灰色に濁って見える。

 時々鳴る鐘の音も、どこか重く鈍く聞こえた。


 予定通りであれば、このあと、ヘイスティングスが部屋に迎えに来るはずだ。

 窓の外を眺めながら、エリーマイヤは思い返していた。



 昨晩の懇親会で、エリーマイヤとライナスが、意図せず軽口をたたきあったあと。

 場はより一層打ち解けたものになり、夫も彼女も、かわるがわる兵たちに話しかけられては杯を重ねることになった。


 医療隊の制服を着た者が声を掛けてきたのは、少し喉を休めようと、彼女が人の輪から外れたときのこと。


「アシュフォード大尉は、奥方とご一緒の時は、あんな感じなんですね」


 意外なものを見たような、微笑ましいものを見たような、そんな声音だった。

 彼女は否定せず、恥じらったような笑みを浮かべてみせる。

「まあ、お恥ずかしい姿を見せてしまいましたわ」

「いえ。今夜はおかげで、場の空気もとても和らいでいるように感じます。大尉は普段、ご家族のことなど、ほとんど話題になさらない方ですから」

 雑談めいた感想だった。

 彼女は小さく笑って、促す。


「医療班としても、日頃からアシュフォード大尉の判断には助けられております。たとえば、医療訓練も──」

 自然に業務の話へと移った。

「大尉は医療班の意見をよく汲み取って、訓練案を組んでくださいました。おかげで負傷者も減りましたし、生存率も大きく向上しております」


 実感を伴った言い方に、彼女は静かに頷き、言葉を返す。

「それは、夫ひとりの力ではなく、医療隊の方々のお力添えもあってのことだと伺っておりますわ」


 その言葉に、医療隊員は嬉しそうに首肯した。

「はい。特に、看護主任の調整が大きかったと思います」

 そこで、ふっと言葉が途切れた。

 彼は逡巡したように一瞬視線を彷徨わせたあと、慎重に口を開く。


「……看護主任については、ご存知でいらっしゃいますか?」


 探る、というよりも、行き違いを避けるための確認・・、という尋ね方だった。

 表情を変えず、彼女は落ち着いた声で答える。


「夫が、身元の保証をした看護師の方ですわね」


 それは「偶然立ち聞いて知った事実」を述べただけの言葉だった。

 けれど、それを知らない医療隊員は、目に見えて安堵した。

「ああ……そうでしたか。なるほど。それでしたら、こちらから改めて申し上げることもありませんね」

 そして、声を和らげて続ける。

「彼女はこの訓練案の発案者のひとりでして、訓練に落とし込むために、医療班の意見をまとめる役を一手に引き受けておりました」

 エリーマイヤは感心したように小さく頷いた。


「……そういうことでしたら」

 少しだけ困ったような顔を作ってみせる。

「昨日、医療棟を案内していただきましたけれど、わたくし、その件について、きちんと御礼を申し上げられなかった気がします」

「いえ! どうかお気になさらず」


 その話はそこで終わったが、エリーマイヤは考えた。

 ああまで医療訓練が評価されているのであれば、改めてきちんと礼を伝えるべきかもしれない。

 そして。

 看護主任へと──、噂へと、とうとう引導を渡すときが来たのだと思った。



 そう決めていたから、朝食後、

「今日は何かしたいことがあるのか?」

 そう尋ねてきたライナスに、彼女は少し歩いてから何気ない口調で口を開いた。

「……今日は、もう一度医療棟へ行こうと思っているわ」

 夫は、足を止めなかった。

 なぜ? とでも言いたげに、視線だけを向けてくる。


「昨晩、懇親会に医療班の方も何人か参加してらしたでしょう? その方たちから、あなたが評価されたっていう医療訓練について聞いたのよ」


 彼は促すように黙って聞いている。

「軍医の方や、補佐官の方、それから──」

 エリーマイヤはそこで小さく息を吸った。


「訓練案に関わった方々に御礼を、と思いまして」


 廊下の突き当たりで、夫はようやく立ち止まった。

「そうか」

 声は落ち着いていた。

 否定の色も、驚きも、言葉の上には出ていない。

「正式に礼を伝えるのは、悪くない」

 理屈としては、正しい。

 だからこそ、エリーマイヤは見逃さなかった。


 ──返事が、半拍遅れたことを。


「看護主任の方も、いらっしゃると聞きましたわ」


 その名を出した瞬間、ライナスの手が、無意識に軍服のもう片方の袖口に触れた。

 すぐに離される。

 彼女の目には、その動きだけで十分だった。

「……そうだな」

 彼はそう言い、短く息を吐く。

「医療棟に連絡しておく。迎えにヘイスティングスをやる」

 それ以上、何も言わない。

 彼女も、問いを重ねなかった。


(──やはり)


 彼女の中で、何かが静かに定まる。

 噂は、根も葉もない空話ではなかったのかもしれない。

 彼は、噂の鎮静化には賛成していた。

 けれどそれは、内容が事実でない、ということとは違う。

 しかし今、それを確かめる意味はなかった。


「では、戻って身支度を」


 彼女はそう告げ、歩き出した。

 彼はその後に続く。

 二人の間に、言葉はなかった。

 だが、昨日であればどこか心地よく感じていた沈黙が、今朝はとても重かった。


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