第1章 夏の宮廷
緑滴る季節。
王都の社交期は華やかな盛りを迎えていた。
宮廷様式の白亜の邸宅前には、馬車が連なり、婦人たちの扇が、花のように開いては閉じてゆく。
エリーマイヤ・アシュフォードは、淡いラベンダー色のドレスをまとっていた。
王都の若い貴婦人たちの間で「品位の色」と呼ばれているその色は、彼女の白い肌と静かな笑みを、さらに際立たせて見せる。
「ごきげんよう、アシュフォード卿夫人。ご主人はまだ国境に?」
義父とともに現れた彼女に、このシーズン初めて顔を合わせる夫人が声を掛けた。
「ええ、いつも通りですわ。あの方は王太子殿下のご命を頂いておりますから、わたくしはただ、静かにお戻りを待つだけですわ」」
扇の影に隠れた唇は涼しいまま、返した微笑みは完璧だった。
大広間へ続く回廊を歩くたび、誰かが彼女に軽く会釈をする。
彼女は「そういう夫人」である。
派手な噂もなく、家格も申し分ない。
王都に夫が不在でも、きちんと社交の場に顔を出し、立場を保っている。
「貴族夫人」として、理想的な形。
──少なくとも、そう見えているうちは。
舞踏会の片隅で、彼女はグラスを傾けた。
輪の外で笑いあう令嬢たちの声を聞きながら、「あの子たちも、いずれこうなるのだ」と思う。
結婚とは「社会の椅子」を得ること。
愛などあってもなくても、座る場所がなければ、人は沈む。
エリーマイヤはその理をよく知っていたし、母の涙を見て育った自分だけは、沈むまいと誓っていた。
「聞きまして? ルーベン子爵夫人の件」
隣の夫人が、わざと扇を口もとに寄せて声を潜める。
「愛人との密会が、旦那さまに見つかったそうよ」
「まぁ……」
エリーマイヤは驚いたふりをして、グラスの中の氷を軽く鳴らした。
「ねぇ、どうしてああいう人たちは、隠すということを学ばないのかしらね」
別の夫人が笑う。
「ええ、まったく。あれほど目立つ方だったのに。子爵の面目を失わせることになって、もうどこの夜会にも呼ばれないそうよ」
「お可哀想に……。でも仕方ありませんわね」
エリーマイヤは穏やかに笑った。
彼女がお披露目した頃には、すでに、ルーベン子爵夫人は社交界の花として圧倒的な存在感を放っていた。
華やかな笑顔と魅惑的な仕草、抜群の話術で、彼女はどんな場でも注目の中心だった。
ながらくその座に君臨し続けた。
──けれど、一度しくじれば、それで終わり。
彼女はこの世界には戻ってこれまい。
エリーマイヤはグラスの中の泡を見つめながら思う。
「どんなに美しい花でも、傷がつけば二度と飾ってもらえない」
音楽と笑い声に満ちた夜がいくつも過ぎ、王都の夏が少しずつ息をひそめていく。
扇の舞う宴の季節は終わりを迎え、人々は次の社交の場へ、あるいは避暑地へ、領地へと散っていった。
そのうちエリーマイヤも領地へ発とうかという頃。
いつも通りの仕草で招待状や手紙を整理していると、一通、見慣れた筆跡を見つけた。
『新婚旅行の帰りに、あなたの領地へ立ち寄りたいの──アンナ』
今夏結婚したばかりの、友人からだった。
花嫁らしい、幸福の香りが紙面から立ちのぼるような手紙。
エリーマイヤは指先で封書の縁をなぞり、ほんのわずかに眉を動かす。
その夜、王都に一雨が降った。
夏の終わりを告げる雨だった。




