第16章 アシュフォード大尉夫妻
その夜。
将校食堂での懇親会は、静かに始まり、静かに終わった。
エリーマイヤはそこで、初めて夫の上司たちと正式に顔を合わせた。
司令官の大佐、基地司令部付きの少佐達。
いずれも貴族出身者で、言葉遣いも距離の取り方も、社交界と変わらない。
形式的な挨拶と短い言葉の応酬。
夫の軍への貢献と王都の話題。
彼女は求められるままに応じ、過不足のない礼を尽くした。
軍という場所にありながら、この空間だけは、紛れもなく貴族の世界だった。
(……ここにいる限り、彼は一将校で、わたくしは一将校の妻なのね)
そう理解したところで、将校たちの懇親は区切りを迎える。
そして、本当の意味での「懇親会」が始まった。
*
今晩のメインは、こちらだった。
ライナスに伴われて第二歩兵中隊の詰所に近づくにつれ、エリーマイヤにもはっきりと分かるほど、空気が変わっていった。
笑い声、遠慮のない声量。
建物の外まで漏れ聞こえてくるざわめき。
その場所は、これまで彼女が近付いたことのない区域。
「俺の部隊の詰所だ。普段は一兵卒も使う場所だが、今晩は夜勤当番以外の下士官クラスと、医療隊から数人呼んでいる」
夫が扉を開いた瞬間、その場にいた兵たちの視線が、一斉にこちらを向いた。
ほんの一瞬の静寂と、直後に揃った敬礼。
彼が軽く頷いて中へ進むと、兵たちは道を開けた。
「隊長、奥方殿!」
「どうぞこちらへ!」
誰かが声を上げ、ざわめきが戻る。
エリーマイヤは、詰所の中を静かに見回した。
彼女の世界にはない、軍人たちの汗と生活の匂い。
規則正しく灯った油灯は、丁寧に整えられている。
壁際には簡素な卓が並べられ、小さな金属のカップに入った温かい根菜のスープ、切り分けられた黒パンと燻製肉、香りのよいハーブ飲料、温められた葡萄酒が置かれていた。
どれも、立ったままでも手に取りやすいものばかり。
本来、貴婦人が足を踏み入れる場所ではない。
けれど彼女は、表情を変えなかった。
副隊長のヘイスティングスが、中央に一歩進み出る。
「隊長の奥方殿をお迎えし、本日はささやかではございますが、中隊一同、心ばかりの席を設けさせていただきました」
その言葉に、長年この地にいる軍曹たちが、深く、静かに頷いた。
エリーマイヤの隣に立っていたライナスが一歩前に出て、周囲を見渡す。
大仰な動きではない。
だが、その動きだけで、場が静まる。
「──皆」
そして、傍らに立つ妻の方を見る。
視線は長くない。
だが、確かに向けられた。
「妻の急な訪問にも関わらず、こうして迎えてもらえたことを、ありがたく思っている」
エリーマイヤはその場で優雅に会釈を返す。
「今夜はこのような場にお招きいただき、感謝いたします。ご一緒できて光栄ですわ」
完璧な角度に完璧な間、そして柔らかな雰囲気。
高貴な身でありながら、軍人たちに好意的な上官の妻。
それだけで十分だった。
ほどなく場が動き出し、誰もが彼女と言葉を交わそうと周囲に輪ができた。
「奥方殿。この駐屯地の冬は厳しゅうございますが……、隊長は、いつも部下を励まし、よくご指導くださいます」
夫よりも年配の古参の軍曹が、杯を置き、姿勢を正す。
その言葉をまっすぐに受け止め、エリーマイヤは頷いた。
「そうですの。夫のそうした姿を伺えるのは、とても嬉しいものです。けれど、それも皆さまの支えがあってこそだと、わたくしも夫も感じておりますわ」
軍曹の表情が、誇らしげに輝く。
側についているヘイスティングスは、何も言わず、静かに聞いていた。
軍曹たちとの会話がひと段落した頃、将校食堂でも一緒だった若い中尉が、改めて姿勢を正して彼女の前に出てきた。
「奥方殿。改めまして、本日はお越しいただき、ありがとうございます」
声は落ち着いている。
訓練場で部下に指示を出す時と同じ、はっきりした声。
彼女は彼を見て、微笑んだ。
「小隊長でいらっしゃるとか」
「はい」
「……訓練の折、拝見しましたわ」
中尉は、少し驚いたように目を瞬かせる。
「……あの時?」
「ええ。とても、堂々となさっていました」
その一言に、中尉の背筋が、わずかに伸びた。
彼女はほんの少しだけ茶目っ気を含みながら、上品に笑んだ。
「将校食堂でお会いした時とは……、ずいぶん印象が違いました」
彼は耳まで赤くなりながら、しかし言い訳はせずに答えた。
「……お恥ずかしい限りです」
「いいえ」
エリーマイヤは、即座に首を横に振る。
「緊張なさるのも、自然なことですわ。けれど訓練の場での姿は、部下の方々もあなたを信頼しているように見えました」
彼は感激したように息を呑み、深く一礼した。
「……ありがとうございます」
主だった部下をひととおり妻に引き合わせたあと、上官が傍にいては話しかけづらいだろうと判断したライナスは、あえて少し距離を取って、妻の様子を見守っていた。
彼女は中尉との会話のあと、ひとりの伍長に目を留めると、自分から声を掛けている。
(……? ……ああ)
(あいつは、司令部までの案内役をやらせたって、ヘイスティングスが言っていたな)
それに思い至り、ライナスは驚く。
国境での妻の行動には、驚かされてばかりだ。
軍嫌いの彼女が、体面を守るためだけに、連日感じの良い妻を演じるばかりか、軍人だらけの懇親会にまで参加している。
さらに、ただの案内役である下士官の顔を覚えていて、礼まで言うとは。
ある意味、徹底していると言うべきか。
(……そういうところは、変わってないな)
懐かしさと、可笑しさが同時に込み上げ、思わず笑ってしまった。
ほんの一瞬の、素の笑み。
だが、エリーマイヤは視界の端で、その瞬間を見逃さなかった。
「……?」
ゆっくりと振り向き、彼に近寄って、眉をわずかに寄せる。
「……今。わたくしを見て、笑われました?」
声は小さい。
だが、はっきりと鋭い。
ふたりの様子を窺っていた詰所の空気がざわつく。
(えっ……?)
(奥方殿、突っ込んだ……?)
(てか、隊長、笑った……?)
急に詰め寄られ、ライナスは視線を逸らした。
「……いや」
「いや、ではありませんわ」
妻の視線が、逃がさない。
「確実に笑いましたわよね。何か……わたくし、いたしまして?」
下士官たちの心の声が、詰所を満たす。
(いたしましてって……)
(いや、何も……)
(痴話喧嘩か? 隊長、逃げろ……)
兵たちの心の声など聞こえないライナスは、納得いかない妻の視線を正面から受け止め、静かに言った。
「いや……。変わらないなと思って」
「……え?」
「良い意味でだ」
「良い意味とはなんですの? どの口が言いまして?」
エリーマイヤの声が、ほんのわずかに強まる。
彼は周囲に聞こえないよう、ほんの少しだけ声を落とした。
「……自分の信念のためなら、好き嫌いを理由にしないところだ」
彼女が一瞬、言葉を失う。
「……それは、変わらないなどと言われるようなことではありませんわ」
「いや。……ここが軍だろうと相手が誰だろうと、必要だと判断したら、自分が立つ」
エリーマイヤは、怒っているのか恥ずかしいのか、分からない表情になり、言葉を探しているようだったが。
結局見つからず、拗ねたような仕草で葡萄酒の杯を傾け、口を噤んだ。
その所作がまた、息を呑むほど優雅で完璧な貴婦人の動きでありながら、可愛らしくて──。
過去、妻とは何度となく意見が合わず言い争った。
お互い、譲れないものがあったからだ。
結婚生活は、苦い記憶の方が多い。
今回も妻がやって来たと聞いて、彼ははじめ警戒していた。
彼女は身分に忠実だ。
ライナスが大切にしているものを、今度は直接傷つけていくのではないかと、そう思った。
けれど彼女は、彼だけでなく、誰も傷つけない方法を選んだ。
信念は変わらないけれど。
それを守るための方法は──
(彼女は少し変わった……?)
変わらないために変わった彼女の姿は好ましいと、そう思ってしまったことに、ライナスはまた自覚なく笑ってしまう。
「今また笑いましたでしょう!?」
エリーマイヤが、即座に言う。
「今のは絶対に笑いましたわ!!」
「……いや、笑ってない」
「嘘をおっしゃい!! 眉が動きましたわ!」
「それは笑ったとは言わない」
「言います!」
詰所のあちこちで、必死に笑いを堪える気配が広がる。
ヘイスティングスは、天井を仰いだ。
懸命にも誰も口にはしなかったが、その場にいる全員が、普通の夫婦なんだなと、笑いを噛み殺しながら同じことを思っていた。




