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第16章 アシュフォード大尉夫妻

 その夜。

 将校食堂での懇親会は、静かに始まり、静かに終わった。

 エリーマイヤはそこで、初めて(ライナス)の上司たちと正式に顔を合わせた。

 司令官の大佐、基地司令部付きの少佐達。

 いずれも貴族出身者で、言葉遣いも距離の取り方も、社交界と変わらない。

 形式的な挨拶と短い言葉の応酬。

 夫の軍への貢献と王都の話題。

 彼女は求められるままに応じ、過不足のない礼を尽くした。

 軍という場所にありながら、この空間だけは、紛れもなく貴族の世界だった。


(……ここにいる限り、彼は一将校で、わたくしは一将校の妻なのね)


 そう理解したところで、将校たちの懇親は区切りを迎える。

 そして、本当の意味での「懇親会」が始まった。



 今晩のメインは、こちらだった。

 ライナスに伴われて第二歩兵中隊の詰所に近づくにつれ、エリーマイヤにもはっきりと分かるほど、空気が変わっていった。

 笑い声、遠慮のない声量。

 建物の外まで漏れ聞こえてくるざわめき。

 その場所は、これまで彼女が近付いたことのない区域(エリア)


「俺の部隊の詰所だ。普段は一兵卒も使う場所だが、今晩は夜勤当番以外の下士官クラスと、医療隊から数人呼んでいる」


 夫が扉を開いた瞬間、その場にいた兵たちの視線が、一斉にこちらを向いた。

 ほんの一瞬の静寂と、直後に揃った敬礼。

 彼が軽く頷いて中へ進むと、兵たちは道を開けた。

「隊長、奥方殿!」

「どうぞこちらへ!」

 誰かが声を上げ、ざわめきが戻る。

 エリーマイヤは、詰所の中を静かに見回した。

 彼女の世界にはない、軍人たちの汗と生活の匂い。

 規則正しく灯った油灯は、丁寧に整えられている。

 壁際には簡素な卓が並べられ、小さな金属のカップに入った温かい根菜のスープ、切り分けられた黒パンと燻製肉、香りのよいハーブ飲料、温められた葡萄酒が置かれていた。

 どれも、立ったままでも手に取りやすいものばかり。


 本来、貴婦人が足を踏み入れる場所ではない。

 けれど彼女は、表情を変えなかった。


 副隊長のヘイスティングスが、中央に一歩進み出る。


「隊長の奥方殿をお迎えし、本日はささやかではございますが、中隊一同、心ばかりの席を設けさせていただきました」


 その言葉に、長年この地にいる軍曹たちが、深く、静かに頷いた。

 エリーマイヤの隣に立っていたライナスが一歩前に出て、周囲を見渡す。

 大仰な動きではない。

 だが、その動きだけで、場が静まる。


「──皆」


 そして、傍らに立つ妻の方を見る。

 視線は長くない。

 だが、確かに向けられた。


「妻の急な訪問にも関わらず、こうして迎えてもらえたことを、ありがたく思っている」


 エリーマイヤはその場で優雅に会釈を返す。

「今夜はこのような場にお招きいただき、感謝いたします。ご一緒できて光栄ですわ」

 完璧な角度に完璧な間、そして柔らかな雰囲気。

 高貴な身でありながら、軍人たちに好意的な上官の妻。

 それだけで十分だった。

 ほどなく場が動き出し、誰もが彼女と言葉を交わそうと周囲に輪ができた。



「奥方殿。この駐屯地の冬は厳しゅうございますが……、隊長は、いつも部下を励まし、よくご指導くださいます」

 夫よりも年配の古参の軍曹が、杯を置き、姿勢を正す。

 その言葉をまっすぐに受け止め、エリーマイヤは頷いた。

「そうですの。夫のそうした姿を伺えるのは、とても嬉しいものです。けれど、それも皆さまの支えがあってこそだと、わたくしも夫も感じておりますわ」

 軍曹の表情が、誇らしげに輝く。

 側についているヘイスティングスは、何も言わず、静かに聞いていた。


 軍曹たちとの会話がひと段落した頃、将校食堂でも一緒だった若い中尉が、改めて姿勢を正して彼女の前に出てきた。

「奥方殿。改めまして、本日はお越しいただき、ありがとうございます」

 声は落ち着いている。

 訓練場で部下に指示を出す時と同じ、はっきりした声。

 彼女は彼を見て、微笑んだ。

「小隊長でいらっしゃるとか」

「はい」

「……訓練の折、拝見しましたわ」

 中尉は、少し驚いたように目を瞬かせる。

「……あの時?」

「ええ。とても、堂々となさっていました」

 その一言に、中尉の背筋が、わずかに伸びた。

 彼女はほんの少しだけ茶目っ気を含みながら、上品に笑んだ。

「将校食堂でお会いした時とは……、ずいぶん印象が違いました」

 彼は耳まで赤くなりながら、しかし言い訳はせずに答えた。

「……お恥ずかしい限りです」

「いいえ」

 エリーマイヤは、即座に首を横に振る。

「緊張なさるのも、自然なことですわ。けれど訓練の場での姿は、部下の方々もあなたを信頼しているように見えました」

 彼は感激したように息を呑み、深く一礼した。

「……ありがとうございます」



 主だった部下をひととおり妻に引き合わせたあと、上官が傍にいては話しかけづらいだろうと判断したライナスは、あえて少し距離を取って、妻の様子を見守っていた。

 彼女は中尉との会話のあと、ひとりの伍長に目を留めると、自分から声を掛けている。


(……? ……ああ)

(あいつは、司令部までの案内役をやらせたって、ヘイスティングスが言っていたな)


 それに思い至り、ライナスは驚く。

 国境(ここ)での妻の行動には、驚かされてばかりだ。

 軍嫌いの彼女が、体面を守るためだけに、連日感じの良い妻を演じるばかりか、軍人だらけの懇親会にまで参加している。

 さらに、ただの案内役である下士官の顔を覚えていて、礼まで言うとは。


 ある意味、徹底していると言うべきか。

(……そういうところは、変わってないな)

 懐かしさと、可笑しさが同時に込み上げ、思わず笑ってしまった。


 ほんの一瞬の、素の笑み。


 だが、エリーマイヤは視界の端で、その瞬間を見逃さなかった。

「……?」

 ゆっくりと振り向き、彼に近寄って、眉をわずかに寄せる。

「……今。わたくしを見て、笑われました?」

 声は小さい。

 だが、はっきりと鋭い。

 ふたりの様子を窺っていた詰所の空気がざわつく。


(えっ……?)

(奥方殿、突っ込んだ……?)

(てか、隊長、笑った……?)


 急に詰め寄られ、ライナスは視線を逸らした。

「……いや」

「いや、ではありませんわ」

 妻の視線が、逃がさない。

「確実に笑いましたわよね。何か……わたくし、いたしまして?」


 下士官たちの心の声が、詰所を満たす。

(いたしましてって……)

(いや、何も……)

(痴話喧嘩か? 隊長、逃げろ……)


 兵たちの心の声など聞こえないライナスは、納得いかない妻の視線を正面から受け止め、静かに言った。

「いや……。変わらないなと思って」

「……え?」

「良い意味でだ」

「良い意味とはなんですの? どの口が言いまして?」

 エリーマイヤの声が、ほんのわずかに強まる。

 彼は周囲に聞こえないよう、ほんの少しだけ声を落とした。

「……自分の信念のためなら、好き嫌いを理由にしないところだ」

 彼女が一瞬、言葉を失う。

「……それは、変わらないなどと言われるようなことではありませんわ」

「いや。……ここが軍だろうと相手が誰だろうと、必要だと判断したら、自分が立つ」

 エリーマイヤは、怒っているのか恥ずかしいのか、分からない表情になり、言葉を探しているようだったが。

 結局見つからず、拗ねたような仕草で葡萄酒の杯を傾け、口を噤んだ。

 その所作がまた、息を呑むほど優雅で完璧な貴婦人の動きでありながら、可愛らしくて──。



 過去(むかし)、妻とは何度となく意見が合わず言い争った。

 お互い、譲れないものがあったからだ。


 結婚生活は、苦い記憶の方が多い。

 今回も妻がやって来たと聞いて、彼ははじめ警戒していた。

 彼女は身分かいきゅうに忠実だ。

 ライナスが大切にしているものを、今度は直接傷つけていくのではないかと、そう思った。

 けれど彼女は、彼だけでなく、誰も傷つけない方法を選んだ。


 信念は変わらないけれど。

 それを守るための方法は──


(彼女は少し変わった……?)


 変わらないために変わった彼女の姿は好ましいと、そう思ってしまったことに、ライナスはまた自覚なく笑ってしまう。


「今また笑いましたでしょう!?」

 エリーマイヤが、即座に言う。

「今のは絶対に笑いましたわ!!」

「……いや、笑ってない」

「嘘をおっしゃい!! 眉が動きましたわ!」

「それは笑ったとは言わない」

「言います!」



 詰所のあちこちで、必死に笑いを堪える気配が広がる。

 ヘイスティングスは、天井を仰いだ。

 懸命にも誰も口にはしなかったが、その場にいる全員が、普通の夫婦なんだなと、笑いを噛み殺しながら同じことを思っていた。


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