第15章 訣別
医療棟の廊下は、昼の光を透かすガラス窓が連なるせいか、どこか病院らしからぬ静けさがあった。
ライナスは革の書類挟みを左手に抱え、医療隊長へ提出する報告書の束を軽く整えながら、廊下を迷いなく歩く。
途中、外科病棟の入り口から看護主任であるジェーンが出てきた。
数枚の記録紙を手にしている。
「アシュフォード大尉。定時報告でいらしたのですね。医療隊長は、まだ前の打ち合わせが長引いているようです」
ライナスは頷いた。
「そうか。……ところで、昨日の第一歩兵隊の者の怪我だが、経過はどうだ?」
彼女は手にした紙束の中から、一枚を差し出した。
「こちらが処置経過です。腫れは引きつつありますが、軍医からは明日の様子を見て判断とのことです」
「了解した。午後の訓練からは外すよう、第一隊長に知らせておく」
「それと、第三隊の訓練で、軽い脱水が数名出ました。軍医補佐官からも報告があったと思いますが、こちらでも記録をまとめています」
彼は紙を受け取り、書類挟みの中へ丁寧に収めた。
「……あの隊は補給のタイミングが遅れがちだな。第三隊長へ注意喚起しておく」
「お願いいたします」
「では、このまま医療隊長に報告へ行く。何かあれば軍医か補佐官へ言付けてくれ」
「承知いたしました」
彼は軽く頷くと、それ以上ジェーンに目を向けることなく、医療隊長室へと歩みを進めた。
ライナスの足音が遠ざかっていく。
廊下の奥へ吸い込まれるように消えたその背を見つめ、彼女はそっと息を吐いた。
立ち姿は昔と同じ。
けれど、纏う空気は以前よりずっと落ち着き、責任を背負う者の静かな重みがあった。
外科病棟へと踵を返し、ジェーンは書類を綴じ紐にまとめていく。
「……主任……。あ、あの……よろしいですか……?」
横から話しかけられ、ジェーンは視線だけ向ける。
「何かしら?」
声をかけてきたのは、採用されたばかりの若い看護師だ。
周囲をチラッと見て、ひどく言いづらそうに唇を噛む。
そして──、思い切ったように口を開いた。
「昨日大尉の奥様が来られて、きょ、今日は……、大尉とも普通にお話しされていましたけど……。その……、主任は、大丈夫なんですか……?」
途端、空気が凍った。
さすがのジェーンも、書類を綴る手が止まり、驚きに目を見張った。
周囲の下働きの手が止まり、近くの看護兵たちはぎょっとして振り返る。
別の看護師も固唾を呑んで見守っているのがわかった。
ジェーンはゆっくりと向き直った。
その目元には怒りも動揺もなかった。
「……大丈夫、とはどういう意味かしら?」
看護師は言い淀む。
「あ、えっと……、その……噂が……その、主任と大尉は、その特別な、仲だって……」
束の間、ジェーンは呆気に取られた。
わたし、主任のこと尊敬してるんです。指示は的確で、厳しいけど優しくて。だから主任が辛い思いをしているのなら……、と看護師はもごもごと続けていたが。
まさかここまで直球で問いかけてくる者がいるとは、思わなかった。
けれど──
ジェーンはそこで少しだけ微笑む。
それは呆れの混じった微笑。
(やっと……)
彼女は、このときを待っていたのかもしれなかった。
「大尉と私は、そのような関係ではありません」
辺りにも通るような声での、きっぱりとした否定に、周囲が息を呑んだ。
「…………!」
「わたしたちは職務で共に働いただけ。それを特別な仲だなんて、大尉にも──奥方様にも、失礼でしょう?」
「す、すみません……!!」
「奥方様がいらしたときだって、気まずいも何もありません。わたしは大尉と不正な関係など、一度も持っていませんから」
言いながら、ジェーンの胸の端がちくりと痛んだ。
けれど素知らぬ顔で、続けた。
「噂を信じて、わたしを心配してくれたのなら、ありがとう。噂だからと放っておいたけれど、でも、大尉にも、奥方様にも失礼になる噂は、今日で終わりにしましょう」
周囲がざわめき、悪意をもって噂を吹聴していた下働きの一人が、視線をそらして顔を伏せる。
ジェーンは、それを見て見ぬふりをした。
誰かを責める気はない。
ただ、もう、ここで終わりにするのだ。
看護師は涙ぐみながら、深く頭を下げる。
「すみません……! 噂を信じたまま、そのままにしてしまって……」
「いいのよ。誰もわざと広めようとしたわけではないのでしょう?」
とうとうその場にいた何人かが顔を伏せて、居心地悪そうに立ち去った。
——あの日の記憶が、胸を刺す。
「……君と暮らしたい。ずっと離れたくない」
ライナスは言葉を探すようにして、けれど真っ直ぐに彼女の目を見て、そう言った。
「君と、家庭を持ちたい」
軍人としての冷静さが溶け落ちて、ただの一人の男に戻る瞬間。
その真剣さと、ジェーンが承諾した後のはにかむような表情に胸が熱くなり、涙が滲んだことを今でも覚えている。
が、それと同時に脳裏に浮かんだのは、昨日、医療棟で目にした「彼の奥方」の姿だった。
(──あの方……)
質の違う布地の外套。
揺るぎない歩き方。
自分にはない、生まれついた品格。
目にした瞬間、心の深い場所がざわついた。
「あなたにはもっとふさわしい人がいる」
かつて彼へ告げた別れの言葉が、あのときの声の温度そのままに胸に戻ってくる。
そして彼の祖母だという、伯爵未亡人が訪ねてきた日のことを思い出した。
目立たぬよう地味な色合いの外套を纏っていてさえ、威厳のある佇まい。
ただそこに立っているだけで、周囲の空気が変わるほどの存在感。
老婦人は丁寧に、しかし鋭い眼差しで冷たく告げた。
「貴女が悪いわけではないわ。けれど孫が背負う家は、貴女のような暮らしを許容するわけにはいかないの」
値踏みするように、ジェーンの姿を頭から足先まで見てきたが、出てきた言葉は、怒声でも侮蔑でもなかった。
ただ静かに、淡々と、揺るぎなく。
だからこそ逃げ道がなかった。
「孫は、いずれ家を継ぐ。支える者には、それにふさわしい世界の教育が必要だわ。あの子が後継者としての教育を受けていなかった分、なおのこと」
「あなたでは無理だ」とは言われなかった。
けれど、すべてがそう語っていた。
俯いた視線の先に見えた気に入りの靴の、擦れた靴先がやけにみすぼらしく見えた。
老婦人は最後に、こう告げた。
「貴女にも良縁を紹介して差し上げましょう。……それでよろしいですね?」
ジェーンが受け入れることを疑いもしない声。
圧。
その瞬間、胸の奥で保っていた何かが、音もなく崩れた。
彼が背負う家の名、家の未来。
(あれは、わたしに選べる道じゃなかった)
思い返せば胸が締めつけられる。
彼は何も知らない。
そして今、あのとき「ふさわしい人」と呼んだその存在が、現実として目の前に立った。
(……本当に、ああいう方の隣に立つべき人だったのね)
彼と奥方が並ぶ姿は見ていない。
見ていないのに、想像するだけで痛かった。
城塞で思いがけず再会したときに。
職にありつけず途方に暮れている彼女を助けてくれたときに。
彼女の言葉をきっかけに、一緒に訓練案を考えたときに。
ほんの少しも心が動かなかったとは言わない。
過去のライナスの面影を探して、あの時のように、あの眼差しがまた自分に向けられたら……と夢想したことさえある。
けれど、彼の瞳が揺れたのは、再会したあの時だけ。
(私は、もうただの看護職の一員。……これでいいの。そうじゃなきゃいけない)
ジェーンは綴った紙束を抱き直し、場全体に向けて言った。
「仕事に戻りましょう。──ここは、医療棟よ」
その瞬間、空気が一気に引き締まり、「噂にまみれた空気」が消え去った。
彼女のその背はまっすぐで、迷いのない看護主任そのものだった。
その影には、彼女だけが抱えてきた過去の痛みがゆっくりと沈んでいた。




