第14章 融解の兆し
扉が開いたその瞬間、将校食堂内の空気が、前日よりも明らかに大きくざわっと揺れた。
スプーンの音が止まり、談笑していた将校たちの視線が、吸い寄せられるように揃ってこちらへ向く。
ほんの一拍。
誰もが息を飲み、けれど何事もなかったかのように、すぐ食器の触れ合う音に紛れていった。
城塞都市にやってきて初めて、エリーマイヤはライナスとふたり揃って人前へ現れた。
昨日、ヘイスティングスに伴われてここへ来た時とは違う。
今朝は、夫と共にここに立っている。
あまりに無遠慮に眺められたため、ライナスはほんの僅か眉を顰めたが、エリーマイヤを慣れた動作でエスコートし、彼女のために椅子を引いた。
視線を上げると、すでに着席していた副隊長のヘイスティングスが、落ち着いたまま静かに礼をする。
昨日の昼には、緊張も緩やかになっていた若い中尉は、ナプキンを握りしめて再び固まっていた。
窓から差し込む柔らかな光が、夫の軍服の徽章を照らしている。
それを見ながら、エリーマイヤの脳裏にほんの少し前の光景がよみがえった。
国境で過ごす二度目の朝。
侍女が用意した湯気の立つ茶を手に、エリーマイヤは静かに身支度を整えていた。
(……そろそろかしら)
昨日と同じように、ヘイスティングスが朝食の案内に訪れるだろう。
そのつもりでいた。
やがて聞こえてきたノックの音に、侍女が扉を開けると、その動きが一瞬止まった。
「……若奥様、若旦那様がお見えです」
(え……?)
胸が軽く跳ねた。
扉の向こうに立っていたのは、軍服姿のライナス。
エリーマイヤは立ち上がり、しかし本人が来るとは思っていなかったため、ほんの少しだけ動作がぎこちなくなる。
「……迎えに来た」
相変わらず無駄のない声音──だが、昨日よりも声が柔らかい。
「……ええ、すぐ参りますわ」
彼は妻の準備ができるまで待ち、自然な動作で扉を押さえ、歩き出した。
廊下に出ると、朝光のなか、二人の影が伸びる。
並んで歩き出してすぐ、ライナスが不意に低い声で言う。
「……昨日」
(昨日……?)
彼女が横顔を見ると、普段と変わらぬ無表情なのに、ほんの少し、どこかぎこちない。
「噂のことだが……、ああいうふうに対処してくれて……助かった」
彼女は瞬きした。
そんな言葉が彼の口から出るとは思っていなかった。
「一度──俺も、言及したことはあるんだ。だが、職務に問題が出ていない以上、それ以上はどうしようもない」
彼が続ける。
「俺に直接言ってくるならともかく、そうでないから、こちらからあまり言うのも却っておかしいしな。軍の中の噂など、どうにもならんことが多い」
淡々としたその声の裏に、初日には見せることのなかった現実への疲れがわずかに滲んでいる。
夫も「放置していい噂」であるとは思っていなかったのだと、そこで彼女は初めて知った。
(彼は、何も対処していないわけではなかった──)
対処しようとしたけれどうまくいかなかったのだと、その事実を彼から告げてきたことに、心が揺れた。
彼女は小さく息を吸う。
「……わたくしは、すべきことをしただけですわ」
エリーマイヤは、夫が何もしてくれないのだと思い、「家の」──自分の体面を守るために、貴婦人の戦い方で臨んだまでだ。
しかしそれが、夫に「助かった」と言わせるとは思わなかった。
「噂を、消すことなどできませんわ。ですから──、向かう先だけを、望ましい方へ曲げてしまうのが一番です。放っておけば、どちらに流れるか分かりませんもの」
ライナスの横顔がわずかに揺れた。
「……君らしい」
静かな苦笑。
しかしその奥に、感心の音色が入り混じっているのを感じ取り、胸の奥が知らず熱くなる。
(彼は、変わった──?)
エリーマイヤの貴族的な対処の仕方を、彼は嫌悪していた。
過去の諍いの日々が、彼女の脳裏を過ぎる。
そんな妻の心中を知らないライナスは、一度短く息を吸い、食堂の扉の前で足を止めた。
「行こう」
声が柔らかかった。
「アシュフォード大尉、今日は奥方と?」
向かいの長卓から呼びかけられ、エリーマイヤは再び食堂のざわめきの中に戻ってきた。
さらに別の隊の大尉が、にやっと愉快そうに笑みを浮かべている。
「いやぁ、昨日は奥方がお一人でいらしたから『おや?』と思ったものですが……。いやぁ、アシュフォード大尉も幸せ者ですな」
ぱきん、と空気が一瞬止まった。
彼女が子犬のようだと思っていた若い小隊長がぎょっとしてその大尉を凝視し、周囲の将校たちが「言いやがった」という顔で視線を逸らす。
ヘイスティングスだけが、苦笑ともため息ともつかぬ表情で、カップを持ち上げた。
(軍人の軽口、というものね)
エリーマイヤはナイフとフォークを静かに持ち上げ、ごく自然な笑みを作った。
怒るところではない。
ここで顔色を変える方が、面倒になる。
右隣の夫を見る。
彼はわずかに肩を揺らしただけだった。
「昨日は突然だったもので、調整がつかなかった。妻には、……迷惑をかけた」
最後の一言だけ、ほんの少し声が優しい。
誰に向けた迷惑かは、言われなくても分かった。
彼女は軽く首を振った。
「いいえ。こちらこそ、勝手に押しかけてしまいましたもの」
それだけで、場の空気はふっと緩む。
「いやいや、いい光景じゃないか」
とその大尉が笑い、若い小隊長はこくこくと何度も頷いている。
エリーマイヤは微笑を浮かべながらも、内心驚愕していた。
食堂に来るまでの会話でも、夫が、彼女の意向を尊重してくれているように感じた。
(わたくしの策に乗ってきている……?)
噂を払拭したいのは、本当なのだろう。
──そこにどんな真実があるのか、彼女は知らされていないが。
「奥方殿。今夜、ご都合がよろしければ、小さな懇親会を開こうと思っております。本格的に寒くなる前に温かい酒でも、と」
場が和やかな雰囲気になったところで、大尉がエリーマイヤに声を掛けた。
「ありがとうございます。喜んで参加いたしますわ」
彼女が笑顔で快諾すると、他の将校たちも顔を綻ばせた。
「よかった! 酒の理由ができましたね」
そして、パンを裂く音、食器が触れ合う控えめな音が戻ってくる。
ヘイスティングスは、この状況を見て、安堵したように目を細めた。
会話も次第に、いつもの訓練や補給の話題へと流れていった。




