第13章 失われたものと背負ったもの-3
そんな生活が続き、家がなんとか持ち直した頃、王太子からの命令が届く。
『国境防衛駐屯地 歩兵第二中隊 隊長として着任せよ』
軍高官から推薦あっての、異例の抜擢だった。
エリーマイヤは、ライナスが軍に戻ることに意見してきたが、封蝋に押された王太子の紋章を見て、結局口を噤んだ。
彼女とはどこまでいっても相容れない。
彼は、妻と距離を置けることに、どこか安堵している自分がいることを感じていた。
夫婦は静かに、「別々の道をしばらく歩く」ことを選んだに等しかった。
こうしてライナスは、結婚4年目で国境へと向かった──
*
退役してもうずいぶん経ったと思っていたが、国境での任務は、彼にすぐに昔の勘を取り戻させた。
国境はいつ何時、何が起きても不思議ではない要所。
城塞で再会したヘイスティングスは、「お前、昔はもっと人間だったぞ」と苦笑したが、ライナスには笑えなかった。
そして、その日は突然訪れた。
国境での任務にも、部下たちにも慣れ、かつて中途半端に断ち切られていた軍人としての生き方を謳歌している最中でのこと。
非番の日、ライナスは城塞都市の内外をつぶさに見て回ることにしている。
守りに不備はないか、城壁に異常はないか、街の様子はどうか、そういう観察を怠らないのだ。
軍施設の外にある井戸場は、明け方のため人気が少なく、湿っていた。
そこに、見覚えのある横顔を見た。
一瞬、見間違いだと思った。
そうでなければならなかった。
けれど、薄汚れた布で腕を拭いながら、彼女──ジェーンは、ゆっくりとこちらを向いた。
驚きよりも、戸惑いの方が早く表情に浮かんだ。
「……ライナス、様……」
声が震えている。
あの日以来、何年経っただろう。
彼女の頬には痩せた影があり、指先には荒れた皮膚が残っていた。
(なぜ、彼女が国境に……?)
「……勤務を?」
話しかけるつもりはなかった。
けれど、彼は茫然としながら、気付けば問いかけていた。
「いえ。……正式な雇用ではありません。手伝いをさせていただいているだけです」
「手伝い? ──夫は?」
かつて彼女は、勧められたという縁談を、受け入れるつもりのように見えた。
ジェーンは躊躇い、ほんの少し苦笑して言った。
「離縁されて……、戻る場所もありません。母がわずかにお金を送ってくれましたが、それも尽きかけていて」
その言葉に、思わず眉を寄せた。
「雇用試験は、受けたのか?」
前線の慈恵院で看護の経験のある彼女なら、国境軍での医療棟で、何か働き口があるはずだ。
「受けは、しました。ただ、雇っていただけるかどうかは……」
「何故?」
つい詰問口調になってしまった。
彼女はしばらく言いにくそうに俯いていたが、やがてポツリと零した。
「身元証明、ができなくて……」
彼は心の中で唸った。
この国境の地では、身元不明の者が医療棟に入れることはまずない。
だから彼女は、包帯を洗い、汚れた水を汲み替える日雇いとして、軍部の外で働いているのだ。
彼女は自分の過去を飾らなかった。
ただ、生き延びるためだけに立っている。
言い訳もなく、誰も責めず、ただそこに居る──それが、かつて恋した彼女の姿だった。
その晩、城塞内の酒場。
ライナスの前に座ったのは、かつて従軍をともにしたヘイスティングスだった。
酒を片手に、彼は気の抜けた笑みを浮かべた。
「何かあったのか? お前が酒に誘うときは、いつも何かある」
上官であり、貴族的な身分でも上にいるライナスに対して、ヘイスティングスは私用ではいつも友人として接してくれる。
「……ジェーンに、会った」
ヘイスティングスはわずかに目を見張ったが、穏やかに微笑んだ。
「……知っていたのか?」
「いや、ここにいるのは初めて知った。ただ、俺はお前が軍を辞めた後も、駐屯地にいたから、色々流れてきた噂は知ってる。──ジェーンさんは、ライナスの恋人として、あそこではずいぶん知られていたから」
彼はグラスを置き、少し言いにくそうに口を湿らせた後、続けた。
「……今だから話すけど。お前が正式に辞める前、帰郷していた時な。ジェーンさんが地元の有力者と結婚するって噂が流れたんだ。お前を捨てた、弄んだ、遊び女だの、同僚の女たちに散々言われたり、嫌がらせされたりしてたみたいだ」
初めて聞く話だった。
「お前が退役して……、家を継ぐ必要があって、身分が釣り合わなかったんだなって皆が分かったころには、彼女はすでに慈恵院を辞めてた。辞めた後、その有力者の息子って奴と結婚したのは、確かだ。でも、その旦那に追い出されて、身一つで放り出されたらしいって話は、俺もあとから聞いた。ジェーンさんの家も頭が上がらない相手らしくて、実家にも戻れない挙句、相手の元旦那はさっさと再婚したってさ。……ひどい話だよね」
酒を呷る。
しかし、酔いも回らず、心だけがざらついていった。
「責任感じてるんでしょ」
「……何の話だ」
「いや、お前が昔どんな顔で彼女を見てたか、俺は知ってるからさ。……助けてやればいいじゃないですか。閣下に口添えするくらい、減るもんじゃない」
ライナスは答えなかった。
ヘイスティングスが席を立った後も、空のグラスを弄びながら、かつての光景が浮かんでは消えた。
泣きながらも毅然と笑い、別れを告げた彼女の顔。
それを、若かった自分は「裏切り」だと思った。
逃げるように軍を辞め、馴染めもしない貴族の世界に引きこもった──。
一度は愛した女性。
自分の手で幸せにすることは叶わなかったのだから。
彼の幸せのために、と自分から別れを告げたのだから。
(せめて、幸せでいてほしかった……)
翌朝。
報告書を抱えたライナスは、少佐の執務室を訪れた。
「彼女を医療班の看護師に加えたいと?」
「はい。かつて従軍時代に、彼女が前線の慈恵院で働いていたのを確認しています。基礎的な医療知識は確かです」
少佐は眉をひそめた。
「だが、身元が不確かだ」
上官の声が遠くで続く。
ライナスは一瞬だけ目を閉じた。
過去の光景が、瞬きの裏に差し込む。
陽の匂いのする髪。
若い笑顔。
「必ず戻る」と言った、自分の声。
「その点については、私が責任を負います」
「……妙に詳しいな、大尉」
「実力を見てきた者として判断しているだけです」
短い沈黙のあと、少佐は署名をした。
「よかろう。だが、問題が起きたら報告を忘れるな」
「承知しました」
その日から、ジェーンは正式に医療棟の看護師として採用された。
ライナスは何も言わず、ただ報告書を受け取るたびに短く頷くだけ。
過去はもう、どちらの口からも出ない。
ふたりの間には、一本の細い境界線が引かれていた。
見えるけれど、決して越えない。
触れれば、過去が揺らぐ線。
接する機会は、多くない。
身元保証人として、時々面談するだけ。
最初は互いにぎこちなかった。
しかし、時が経てば、次第にぎこちなさは解消された。
幸せだった過去は、すでに遠い昔のこと。
ライナスは寡黙になり、ジェーンは笑顔を見せなくなった。
互いに過去の自分たちとの違いを見つけて、現実を思い知った。
面談時、ジェーンが溢した一言をきっかけに。
負傷兵の生存率を上げるための医療訓練を練り上げ、想定以上の成果を上げて、称賛を浴びることになるのは、そのわずか一年後のことだった。




