第12章 失われたものと背負ったもの-2
兄の死の知らせが届いたのは、夏のはじまりだった。
二人目の知らせはそれから一週間後。
母の訃報は、そのさらに翌日。
ライナスは駐屯地から、急遽呼び戻された。
ジェーンは荷物をまとめる彼の手を握った。
「……すぐに戻ってきて」
「すぐに戻る。必ず」
約束は、本気だった。
しかし領地へ戻った彼を待ち受けていたのは、破綻寸前の家だった。
疲れ切った伯爵、財政難と押し寄せる責務。
そして領民や親族たちの視線が告げた。
「あなたが次期伯爵なのだ」と。
ライナスは軍に戻る目途を失った。
父と共に、ただ目の前の仕事を片付けることに精一杯で、彼女に会いに行く時間をとることもできなかった。
ごくたまに、手紙を書き送るのがやっと。
そんな日々が続く中、突然、彼女が屋敷に訪ねてきた。
貴族でない彼女にとって、領主館を訪ねるのは相当勇気が要ったことだろう。
破綻しそうだといっても、彼女から見たら領主館は充分に立派な城。
特別な時に着るのだと言っていた一張羅のワンピースのスカートの皺をしきりに伸ばしながら、そわそわと落ち着かなげに視線を彷徨わせて、彼女は案内された応接室のソファに腰を掛けて、彼を待っていた。
不安そうに周囲を見回していた彼女は、しかし彼が現れると、深く息を吸ってまっすぐ彼を見つめた。
そして微笑んだ。
不自然なくらい、痛いほどに。
「……ごめんなさい、ライナス。わたし、あなたとは結婚できない」
何を言われたのか、理解できなかった。
「あなたはこれから、伯爵家の後継者として生きていくのでしょう? ……わたし、貴族の家の務めを支えられない」
彼は驚き、否定しようとした。
「そんなことは──」
しかし彼女は首を振り、涙を隠すように今度は弱々しく笑った。
「家の者が何か言ったか? 誰か、何か言ったのなら……」
彼女はしきりにかぶりを振った。
今度は涙をこらえるように唇を噛みしめ、それでも笑顔の形を作って言った。
「違う! わたしが、あなたの未来を邪魔するの。わたしなんかでは──」
「そんなことは関係ない!」
ライナスが初めて声を荒げた。
だが彼女はその声にも怯えず、ただ静かに、誠実に、残酷に告げた。
「関係あるわ。……あなたはこれから、貴族として生きる。たくさんの人を背負う。政治にも、社交にも出る。それを支える人は、わたしじゃない。あなたにはもっと、ふさわしい人がいる」
彼の胸を、何かが鋭く貫いた。
「誰かにそう言われたんだろ!?」
「誰も、何も言ってない」
言っていない。
しかしそうさせられたということは、彼には分からない。
「わたしね……、父から縁談を勧められているの。小さくても、……ふたりで温かいお茶を飲んで、毎日穏やかに過ごせる……、わたしにふさわしい相手なんですって」
「嘘……だろ?」
彼女は涙を零した。
一筋だけ。
それを拭って、微笑んだ。
「わたし、あなたが幸せになるのを邪魔したくない」
それが、最後の言葉だった。
「ジェーン!!」
彼の手は、彼女の袖の先に触れただけで、掴む前に逃げるように離れていった。
扉が閉まる瞬間、彼女の背中が小さく震えていたことに気づけたなら──、ふたりは違う未来を辿っていたかもしれない。
だが、この時ライナスは、捨てられた、としか思えなかった。
その夜、彼は声を出さずに机を殴りつけ、骨に罅が入った。
痛みは感じなかった。
*
ジェーンを失った後、ライナスは正式に退役し、毎日、朝から深夜まで領地再建のために奔走し続けた。
──彼女の不在が空洞のようにあったが、彼は、その空洞に触れないようにした。
触れたら壊れると、本能で知っていた。
そして喪が明けた頃。
彼は、ふたつ目の「義務」を背負うことになった。
結婚。
家の安定、領地の信頼、控えの確保──。
すべてを考慮した、後継者としての結婚だった。
元伯爵未亡人である祖母に太鼓判を押され、紹介されたのは、伯爵令嬢のエリーマイヤ。
彼女は凛として美しく、家柄にふさわしい誇りを持ち、教養も礼儀も完璧な貴族の女性だった。
彼は感情を動かすことなく、結婚した。
けれど、敬意と誠意はあった。
エリーマイヤもまた、「後継者として育てられていない」伯爵家の次期当主という立場のライナスを、冷静に受け入れた。
結婚当初、彼は努力した。
彼女が不便を感じぬように、屋敷の環境を整え、慣れぬ社交界では隣に立ち、彼なりの誠実さを向けようとしていた。
ただ──価値観は違いすぎた。
ふたりはまるで、別々の言語を話しているかのように違った。
結婚して初めて、領地の収穫祭を領主代理として視察した時のこと。
エリーマイヤは上品に笑いながら、農民たちの労に感謝を述べていた。
彼も隣で微笑み、そつなく頭を下げる。
問題は、そのあと。
農民の代表が、拙い言葉で彼女に話しかける。
「若奥様、来年はもっと畑を増やせるかもしれません。その……みんな、働く気はありまして……」
彼女はにっこり微笑んだまま、しかし一音一音、ゆっくりと、まるで、子どもに教えるように話した。
「それはあなた方が決めることではありませんわね。領主家の裁可が必要ですわ。……分かりますね?」
農民の男性は、言われの分からないまま縮こまる。
ライナスは、その光景を横で見て、ヒヤリとした。
(……これじゃまるで、屈服させるような言い方だ)
しかし当の彼女に全く悪気はなく、それは純然たる、貴族として当然の口調、だった。
「……彼らも、自分の家を守るために真剣だ。もう少し柔らかく言った方が」
小声で窘めたが、彼女は怪訝そうに振り向く。
「柔らかく? 下々の者に過度の自由を与えるのは混乱の元ですわ」
彼は返せない。
(……そういう考え方をするのか)
またある時、彼女は書類を叩くように置いた。
「これは嘆願書ではありませんわ。ただの要求の羅列です。まして、領主家を呼び捨てにするような言葉づかい……! 無礼にもほどがあります」
ライナスは眉を寄せた。
「度が過ぎる者には、注意している。だが、言葉が荒いのは……必死だからだ。追い詰められている証拠だ」
「優しくすれば、つけ上がる人々もいるのです。線を引かねば、家の威信が下がります」
「だが見捨てるわけにもいかない。彼らも生きるために必死なんだ。俺は、彼らを無礼だけで切り捨てたくはない」
彼女も譲らない。
「あなたが顔を出しすぎるからこうなるのです。次期当主が気軽に話せる相手だと思われたら……、要求はどんどん膨らみますわ! 支配者は、距離で統治しなくては」
「俺は支配したいわけじゃない。ただ……ただ、同じ人間として向き合いたいだけだ」
その言葉に、彼女は驚愕の眼差しを向けた。
「同じ人間……? それが、あなたの間違いですわ!」
「間違い……?」
「貴族は下々の者と対等ではありません! 対等であろうとすれば、上の者としての責任は果たせません。彼らは、わたくしたちの施しの下に生かされているのよ。あなたのやり方では、この家は──軽く見られるだけですわ!」
彼女の声はまっすぐで、貴族としての誇りを貫いていた。
ライナスの胸に、ズン、と重い痛みが落ちた。
(……つまり、俺の振る舞いが、家の威信を下げている、と言うのか)
彼の声が低い怒りを帯びた。
「……家の威信を守るために、困っている人を切り捨てろ、と?」
「切り捨てろとは言ってないわ。線引きをしなければ、領民はどこまでも要求を釣り上げるもの。あなたは甘いのです!」
「君は……人を信じないのか?」
「信じますわ。でも、制度、序列、距離がなければ、秩序は保てませんもの」
ライナスとエリーマイヤは、同じ「領地の未来」を語っているはずなのに、全く別の方向へ向かって叫び合っていた。
会話をすればするほど、ふたりの間に綻びが生まれてくるような毎日の中。
エリーマイヤの腹に子が宿った。
伯爵と元伯爵未亡人は、待望の子に「あとは男児であれば、完璧」と喜びを隠せずにいた。
産み月が近付いてきたある日、妻が何気なく言った。
「まだ先のことですけれど。男児であれば、わたくし、子どもには従僕を一人付けて育てたいの。身の回りのことを、全て整えてあげなくては。よろしいわよね?」
彼は驚きで固まった。
「ひとりでできることは、自分でさせるべきだと思うが……?」
「この子はあなたの──この家の跡継ぎかもしれないのよ。反対なさるの……?」
「自分でできないと、他人の痛みが分からない人間になる」
彼女は、一瞬だけ侮蔑のような笑みを浮かべた。
「……平民の発想ですわね」
その一言は、彼の胸に深く刺さった。
彼は淡々と返す。
「平民に育てられたわけではないが、彼らと同じ側で戦ってきたことはある」
エリーマイヤはハッとして、口を閉じた。
だけれど謝りはしない。
貴族としての誇りがあるから。
ふたりはその夜、互いに背を向けたまま眠りについた。
そしてどちらも相手を傷つけないように、自分が傷つかないように距離を取り始めた。
……そして、その距離は広がり続けた。
二人目の子を授かっても、すれ違いは埋まらなかった。
エリーマイヤは社交に勤しみ、ライナスは領地の務めに没頭し、互いの生活は緩やかに分かれた。
誰が悪いわけでもない。
ただ、価値観の違いが、家の中に静かな罅となって残り続けた。




