表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/17

第12章 失われたものと背負ったもの-2

 兄の死の知らせが届いたのは、夏のはじまりだった。

 二人目の知らせはそれから一週間後。

 母の訃報は、そのさらに翌日。

 ライナスは駐屯地から、急遽呼び戻された。


 ジェーンは荷物をまとめる彼の手を握った。

「……すぐに戻ってきて」

「すぐに戻る。必ず」

 約束は、本気だった。


 しかし領地へ戻った彼を待ち受けていたのは、破綻寸前の家だった。

 疲れ切った伯爵(ちち)、財政難と押し寄せる責務。

 そして領民や親族たちの視線が告げた。

「あなたが次期伯爵なのだ」と。


 ライナスは軍に戻る目途を失った。

 父と共に、ただ目の前の仕事を片付けることに精一杯で、彼女に会いに行く時間をとることもできなかった。

 ごくたまに、手紙を書き送るのがやっと。



 そんな日々が続く中、突然、彼女が屋敷に訪ねてきた。


 貴族でない彼女にとって、領主館を訪ねるのは相当勇気が要ったことだろう。

 破綻しそうだといっても、彼女から見たら領主館は充分に立派な城。

 特別な時に着るのだと言っていた一張羅のワンピースのスカートの皺をしきりに伸ばしながら、そわそわと落ち着かなげに視線を彷徨わせて、彼女は案内された応接室のソファに腰を掛けて、彼を待っていた。


 不安そうに周囲を見回していた彼女は、しかし彼が現れると、深く息を吸ってまっすぐ彼を見つめた。

 そして微笑んだ。

 不自然なくらい、痛いほどに。


「……ごめんなさい、ライナス。わたし、あなたとは結婚できない」


 何を言われたのか、理解できなかった。

「あなたはこれから、伯爵家の後継者として生きていくのでしょう? ……わたし、貴族の家の務めを支えられない」

 彼は驚き、否定しようとした。

「そんなことは──」

 しかし彼女は首を振り、涙を隠すように今度は弱々しく笑った。

「家の者が何か言ったか? 誰か、何か言ったのなら……」


 彼女はしきりにかぶりを振った。

 今度は涙をこらえるように唇を噛みしめ、それでも笑顔の形を作って言った。

「違う! わたしが、あなたの未来を邪魔するの。わたしなんかでは──」


「そんなことは関係ない!」


 ライナスが初めて声を荒げた。

 だが彼女はその声にも怯えず、ただ静かに、誠実に、残酷に告げた。


「関係あるわ。……あなたはこれから、貴族として生きる。たくさんの人を背負う。政治にも、社交にも出る。それを支える人は、わたしじゃない。あなたにはもっと、ふさわしい(・・・・・)人がいる」


 彼の胸を、何かが鋭く貫いた。

「誰かにそう言われたんだろ!?」

「誰も、何も言ってない」


 言っていない。

 しかしそうさせられた(・・・・・・・)ということは、彼には分からない。


「わたしね……、父から縁談を勧められているの。小さくても、……ふたりで温かいお茶を飲んで、毎日穏やかに過ごせる……、わたしにふさわしい相手なんですって」

「嘘……だろ?」


 彼女は涙を零した。

 一筋だけ。

 それを拭って、微笑んだ。

「わたし、あなたが幸せになるのを邪魔したくない」

 それが、最後の言葉だった。


「ジェーン!!」

 彼の手は、彼女の袖の先に触れただけで、掴む前に逃げるように離れていった。

 扉が閉まる瞬間、彼女の背中が小さく震えていたことに気づけたなら──、ふたりは違う未来を辿っていたかもしれない。

 だが、この時ライナスは、捨てられた、としか思えなかった。


 その夜、彼は声を出さずに机を殴りつけ、骨に(ひび)が入った。

 痛みは感じなかった。


 *


 ジェーンを失った後、ライナスは正式に退役し、毎日、朝から深夜まで領地再建のために奔走し続けた。

 ──彼女の不在が空洞のようにあったが、彼は、その空洞に触れないようにした。

 触れたら壊れると、本能で知っていた。


 そして喪が明けた頃。

 彼は、ふたつ目の「義務」を背負うことになった。

 結婚。

 家の安定、領地の信頼、控え(スペア)の確保──。

 すべてを考慮した、後継者としての結婚だった。


 元伯爵未亡人である祖母に太鼓判を押され、紹介されたのは、伯爵令嬢のエリーマイヤ。

 彼女は凛として美しく、家柄にふさわしい誇りを持ち、教養も礼儀も完璧な貴族の女性だった。


 彼は感情を動かすことなく、結婚した。

 けれど、敬意と誠意はあった。

 エリーマイヤもまた、「後継者として育てられていない」伯爵家の次期当主という立場のライナスを、冷静に受け入れた。


 結婚当初、彼は努力した。

 彼女が不便を感じぬように、屋敷の環境を整え、慣れぬ社交界では隣に立ち、彼なりの誠実さを向けようとしていた。


 ただ──価値観は違いすぎた。

 ふたりはまるで、別々の言語を話しているかのように違った。


 結婚して初めて、領地の収穫祭を領主代理として視察した時のこと。

 エリーマイヤは上品に笑いながら、農民たちの労に感謝を述べていた。

 彼も隣で微笑み、そつなく頭を下げる。


 問題は、そのあと。

 農民の代表が、つたない言葉で彼女に話しかける。

「若奥様、来年はもっと畑を増やせるかもしれません。その……みんな、働く気はありまして……」

 彼女はにっこり微笑んだまま、しかし一音一音、ゆっくりと、まるで、子どもに教えるように話した。

「それはあなた方が(・・・・・)決めることではありませんわね。領主家の裁可が必要ですわ。……分かりますね?」

 農民の男性は、言われの分からないまま縮こまる。

 ライナスは、その光景を横で見て、ヒヤリとした。


(……これじゃまるで、屈服させるような言い方だ)


 しかし当の彼女に全く悪気はなく、それは純然たる、貴族として当然の口調、だった。

「……彼らも、自分の家を守るために真剣だ。もう少し柔らかく言った方が」

 小声で窘めたが、彼女は怪訝そうに振り向く。

「柔らかく? 下々の者に過度の自由を与えるのは混乱の元ですわ」

 彼は返せない。

(……そういう考え方をするのか)



 またある時、彼女は書類を叩くように置いた。

「これは嘆願書ではありませんわ。ただの要求の羅列です。まして、領主家を呼び捨てにするような言葉づかい……! 無礼にもほどがあります」

 ライナスは眉を寄せた。

「度が過ぎる者には、注意している。だが、言葉が荒いのは……必死だからだ。追い詰められている証拠だ」

「優しくすれば、つけ上がる人々もいるのです。線を引かねば、家の威信が下がります」

「だが見捨てるわけにもいかない。彼らも生きるために必死なんだ。俺は、彼らを無礼だけで切り捨てたくはない」

 彼女も譲らない。

「あなたが顔を出しすぎるからこうなるのです。次期当主が気軽に話せる相手(・・・・・・・・)だと思われたら……、要求はどんどん膨らみますわ! 支配者は、距離で統治しなくては」

「俺は支配したいわけじゃない。ただ……ただ、同じ人間として向き合いたいだけだ」

 その言葉に、彼女は驚愕の眼差しを向けた。

同じ人間(・・・・)……? それが、あなたの間違いですわ!」

「間違い……?」


「貴族は下々の者と対等ではありません! 対等であろうとすれば、上の者としての責任は果たせません。彼らは、わたくしたちの施しの(もと)に生かされているのよ。あなたのやり方では、この家は──軽く見られるだけですわ!」

 彼女の声はまっすぐで、貴族としての誇りを貫いていた。


 ライナスの胸に、ズン、と重い痛みが落ちた。

(……つまり、俺の振る舞いが、家の威信を下げている、と言うのか)

 彼の声が低い怒りを帯びた。

「……家の威信を守るために、困っている人を切り捨てろ、と?」

「切り捨てろとは言ってないわ。線引き(・・・)をしなければ、領民はどこまでも要求を釣り上げるもの。あなたは甘いのです!」


「君は……人を信じないのか?」

「信じますわ。でも、制度、序列、距離がなければ、秩序は保てませんもの」

 ライナスとエリーマイヤは、同じ「領地の未来」を語っているはずなのに、全く別の方向へ向かって叫び合っていた。



 会話をすればするほど、ふたりの間に綻びが生まれてくるような毎日の中。

 エリーマイヤの腹に子が宿った。

 伯爵と元伯爵未亡人は、待望の子に「あとは男児であれば、完璧」と喜びを隠せずにいた。


 産み月が近付いてきたある日、妻が何気なく言った。

「まだ先のことですけれど。男児であれば、わたくし、子どもには従僕を一人付けて育てたいの。身の回りのことを、全て整えてあげなくては。よろしいわよね?」

 彼は驚きで固まった。

「ひとりでできることは、自分でさせるべきだと思うが……?」

「この子はあなたの──この家の跡継ぎかもしれないのよ。反対なさるの……?」

「自分でできないと、他人の痛みが分からない人間になる」

 彼女は、一瞬だけ侮蔑のような笑みを浮かべた。

「……平民の発想ですわね」

 その一言は、彼の胸に深く刺さった。

 彼は淡々と返す。

「平民に育てられたわけではないが、彼らと同じ側(・・・)で戦ってきたことはある」

 エリーマイヤはハッとして、口を閉じた。


 だけれど謝りはしない。

 貴族としての誇りがあるから。


 ふたりはその夜、互いに背を向けたまま眠りについた。


 そしてどちらも相手を傷つけないように、自分が傷つかないように距離を取り始めた。

 ……そして、その距離は広がり続けた。

 二人目の子を授かっても、すれ違いは埋まらなかった。


 エリーマイヤは社交に勤しみ、ライナスは領地の務めに没頭し、互いの生活は緩やかに分かれた。

 誰が悪いわけでもない。

 ただ、価値観の違いが、家の中に静かな(ひび)となって残り続けた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ