第11章 失われたものと背負ったもの
ライナス・アシュフォードが若かった頃、彼の人生は、誰よりも軽く、風のようだった。
伯爵家の三男。
跡継ぎでもなければ、政略結婚の駒にされる心配もない。
兄たちは優秀で、家の未来は盤石。
父は言った。
「死ぬな。生きてさえいれば好きにしていい」
その言葉通り、ライナスは将校として軍に入り、訓練にも実戦にも真っすぐに向き合っていた。
軍は合っていた。
兵士たちとはよく笑い、少尉として、中尉としての責任も果たし、同輩たちにも信頼されていた。
その頃のライナスは、今とはまるで違う。
冗談も言う。
よく笑う。
夜営の火を囲んで、同期達の失恋話を聞きながら酒を回す。
怪我をすれば衛生兵の世話になり、軍医の小言に頭を下げて謝ったりもした。
ごく一般的な、貴族出身の将校。
やがて同盟国の戦場の最前線に駆り出され、
そして──彼女に出会った。
*
冬の前線。
薄曇りの午後、ライナスは馬から降りると、泥の跳ねた軍服のまま慈恵院の門へ駆け寄った。
慈恵院──前線で負傷した兵士たちの最後の命の砦。救護拠点。
ここに来るのは三度目だ。
ただし、まだ自分の身体では、一度も世話になったことはない。
いつも誰かを案じて来る場所、だった。
門番の青年はライナスを見ると、すぐに道を開けた。
「──ヘイスティングスは!? 今朝、運ばれてきた兵は? 無事なのか?」
掴みかからんばかりに尋ねる。
「重いですが、命には……おそらく。看護師が処置室に運びました」
返事を聞いても、彼の眉間は緩まない。
前線で、夜間の斥候任務に出ていた、部下でもあり友人でもあるヘイスティングスが、流れ弾を受けて倒れた。
負傷した彼をすぐさま後方に下げ、衛生兵に託すと、ライナスたちは交戦に入ったため、午後になってようやく、前線の後方にある慈恵院を訪れることが出来たのだ。
廊下を進むと、白い布の擦れる音と、湯を沸かす金属音が聞こえている。
そこに、ひとりの女性が現れた。
「そんな恰好で、この先へ入らないで!」
若い女性看護師は、両腕に包帯の束を抱えたまま、非難の眼差しで彼と目を合わせる。
彼女にとってライナスは、「何度か見かけたことのある、若いけれど落ち着いた将校」だった。
けれど今日の彼は、息を切らし、灰をかぶった髪のまま。
まるで置いて行かれた幼子のようだった。
その様子を見た彼女は、いくぶんか表情を緩め、優しく声をかける。
「あなたの部下の方ですね。命の危険は越えました。あとは感染がなければ……、大丈夫です」
彼は小さく礼をした。
「……いつも助けてもらっている。今日も、どうか……よろしく頼む」
その真摯な声音は、彼女がこれまで見てきた多くの将校と違った。
他人の、部下の命を、本気で案じている人間の声だった。
「あの方、……戦場でよく働いてきた身体です。信じましょう」
ライナスは驚き、思わず彼女を見つめた。
そこでようやく、彼が落ち着きを取り戻したのを見て、彼女は苦笑して促した。
「あなたも、傷だらけじゃない。手当てするから、こちらに来てちょうだい」
ここで初めて、会話を交わした。
それまで何度か姿を見ていた相手なのに、その日初めて、ちゃんと向き合った。
その瞬間、彼の胸の奥で、何かが小さく動く。
これが、彼女──ジェーンとの「始まり」だった。
恋は、静かに深く、急速に育った。
友人や部下の身を案じてのみ訪れていた慈恵院に、彼は交替での休みの度に、通うようになった。
ヘイスティングスが入院している個室の前を通りがかると、部屋から軽やかな声が聞こえる。
「包帯が足りないの。干していたもの、持ってきてほしいって──、あっ、アシュフォード中尉!」
中から顔をのぞかせたジェーンが笑う。
ライナスの表情が一瞬でほどける。
「……おはよう。昨夜は眠れたか?」
「ええ。でもあなたの中隊は夜通しだったんでしょう? ほら、目が少し赤い」
ジェーンがそっと彼の目元に触れようと手を伸ばし、途中で恥ずかしそうに引っ込める。
彼はくすっと笑った。
「触れてもいい」
「……勤務中です!」
そのやり取りを、個室のベッドの上で医療器具を磨いていたヘイスティングスが見ていて、ため息まじりに声をかける。
「おーい、中尉殿。イチャつくのは戦が終わってからにしてくれ」
「イチャついてない」
「ほんとに……。一体何をしに来てるんだ。俺の様子見なんて、そっちのけじゃないか」
友人がぼやくのを、ライナスは素知らぬふりで聞き流した。
一時の危険な状態もなんのその、その後順調に回復した友人は、今ではベッドの上で簡単な手伝いを請け負っていた。
「……はい。ジェーンさん、次は包帯巻くから、持ってきてもらえる?」
ぴかぴかに磨き上げた医療器具を、ジェーンに渡す。
他の看護師から「私より綺麗に磨けています……」と言わしめる代物だ。
「本当にありがとうございます。少尉にこんな──」
「いや、大丈夫だ。ジェーン。ヘイスティングスは昔から可愛い彼女に縁がないから、この手伝いを結構楽しんでいるんだ」
「まあ! またあなたはそんなことばかり言って!」
茶化すライナスに、窘めるジェーン。
「いやいや、いいんですよ。ジェーンさん。俺は士官学校の中で一番モテない男で有名だった、ただの副官ですから」
ベッドの上で肩を竦めるヘイスティングスに、ジェーンはくすっと笑い、ライナスも声を立てて笑った。
二人が将来の話をしたのは、それから二回以上季節が巡り、雪が溶け始めた頃。
終戦後、元いた内地の駐屯地に戻されたライナスは、非番の日はほとんどいつも、ジェーンと一緒にいた。
小さな町の外れの、川沿いの遊歩道。
薄桃色の光が空に残った、夕暮れ時。
若い将校と、笑顔が素敵な若い女性。
誰が見ても、お似合いの恋人同士だった。
ジェーンが白い息を吐きながら、川面を見て笑顔をこぼした。
「こんなに静かな場所、久しぶりね」
ライナスは隣に立ち、ほんの少し緊張した面持ちで彼女に向き直る。
「……ジェーン」
「なぁに?」
その無垢な返事が、彼の胸を打った。
戦地での緊張とはまったく違う、温かく、満ち足りた気持ち。
彼は迷いなく、ゆっくりと言う。
「俺は、君と暮らしたい。ずっと離れたくない。こうして会った後に、別々のところに帰るのは嫌だ」
彼女は目を丸くする。
「それって……」
彼は少し照れたようにうなずいた。
「ああ。君と、家庭を持ちたい」
彼女の瞳が驚きに見開かれた後、顔いっぱいの喜びで、ふわっと明るくなる。
「嬉しい……! 今もね、ライナスと会えるだけで、すごく幸せなのに。……嬉しい」
その言葉には、不安も迷いも影もなかった。
純粋な未来への喜びだけ。
その表情を見て、彼の胸の奥で、何かが溶ける。
彼女は彼の腕にそっと手を添えた。
「嬉しかったことも悲しかったことも、楽しかったことも辛かったことも、これからもふたりで、ずっと寄り添っていけたらいいわね。小さくても光の入る家で。あなたが帰ってきたら、温かいお茶を用意して……、ふたりで分け合うの。わたし、そういう毎日が欲しいわ」
ライナスの喉が震える。
「……そんなものなら、いくらでも」
ジェーンは小さく頷き、幸せそのものの笑みを浮かべた。
恋が未来へまっすぐ進むことを疑わない笑み。
そのとき彼は信じていた。
この人生を、彼女と生きるのだと。
──あの知らせが届くまでは。




