第10章 忍び寄るもの
司令部の回廊には、夕日が細く差し込んでいた。
冷たい床に、橙色の帯が伸びている。
ライナスは、ただ歩いていた。
頭の奥が、妙に静かだった。
彼はつい先ほど、妻の宿泊する客室を離れたばかり。
妻とあまりにも普通に会話ができたことに、驚いていた。
彼女は軍が嫌いだ。
ライナスに軍歴があったせいなのか、結婚前から今まで、彼女の口から、それを伝えられたことはない。
けれど、注意深く見ていれば気づく。
軍服を見るたびに、その眼差しに蔑んだような色が混じること、近づくのも不快だと言わんばかりに距離をとること、話題に出すことさえ避けること。
もちろん彼女は、他人に悟られるようなことはしていない。
彼が気づいたのは、軍人としての経験と、伴侶として、彼女を注意深く観察していたからだった。
自分の中に流れる「血の貴さ」を、何よりも誇りにしている彼女からしたら、平民が成り上がることのできる軍は、卑しい職業なのだろう。
今、彼が所属している部隊も、平民との混成部隊である。
伯爵家の第三子として、平民に混じって早くから軍人として身を立ててきた彼にとって、それはごく当たり前のことだったが、そういう状況を耐え難く感じるのが、妻なのだ。
しかし──
今日の彼女は、練兵場でも、医療棟でも、城塞内のどこでも。
礼儀正しく、規律を尊重し、誰にも失礼を与えず、感じの良い振る舞いだったと、そう副隊長から聞いた。
彼女に言わせると、それもすべて、噂を鎮めるための行動らしい。
けれど、それは、彼女の軍への嫌悪感を差し置いてでもすべきことなのかと考えると、もはや見事としか言えなかった。
ただできることを、淡々とこなす。
(彼女らしい……)
妻は、驚くほど平然としていた。
何を考えているのかわからない。
けれど、どんな状況でも、姿勢だけは崩れない。
(……昔から、ああだ)
すごい、とは思う。
けれど。
あの強さを、羨ましいと思ったことは一度もない。
彼女は弱さを見せない。
そして彼にも、貴族としての正しさだけを求める。
今も昔も。
それを、ただ、遠いと感じていた。
だから彼は、事実を告げない。
疚しいことがあるわけではない。
妻を傷つけたいわけでもない。
(……いや、そうじゃないな)
きっと彼女は、事実を知っても傷つかない。
妻のためではないと、本当は分かっていた。
ただ、自分自身が向き合いたくなかった。
昨日、彼がくだらないと一蹴した時、ほんの一瞬、彼女の瞳に浮かんだ色が、脳裏に焼き付いていた。
過去に見た色を、もう一度見た気がした。
あれは、妻だったか。
彼女だったか。
それとも、自分だったか。
その既視感が、記憶の扉を静かに、確実に開けた。
やめろ、と心が言う。
だが、思い出は止まらない。
十数年前、自分が軍服に誇りを持ち、まだ未来を疑いもしなかった頃の話だ。




