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第9章 昨日の続きではなく

 城塞の西側に陽が落ちていく。

 薄い橙色の光が窓辺の石に反射し、部屋の中へ長い影を作っていた。

 客室に戻ったエリーマイヤは、羽織(ローブ)の紐を整えながら息を整えた。


 今日の動きは、まず上々だった。

 ただ一つ、まだ測れないものがあるとすれば、あの看護主任の意志だ。

 噂をどう受け止めているのか。

 利用するつもりなのか、それとも、ただ巻き込まれただけなのか。


 訓練場の熱、

 医療棟の冷たい視線、

 城塞の街の活気と静けさ──、

 どれも新しく、どれも重かった。


(……長い一日だったわね)


 侍女が紅茶を並べる音だけが響く。


 そこへ──ノックが、静かに三度。

 侍女が軽く会釈しながら扉を開けた。

「若奥様。若旦那様が……」



 扉が開き、軍服の襟元を少し乱したライナスが入ってきた。


「……時間ができた」


 低い声。

 それが挨拶のすべてだ。

 エリーマイヤは紅茶を置き、静かに頷く。

 侍女が気を利かせて部屋を下がった。


「まあ。わたくしのところへわざわざ(・・・・)顔を見せに来るなんて……。本当に珍しいことですわね」

「皮肉か?」

「事実を申し上げただけですわ」

 ライナスの眉が動いた。

 しかし言い返すでもなく、わずかに視線を外す。

「……邪魔だったか」

 彼女は微笑んだ。

 微笑むしか、ない。

「いいえ。どうかなさいましたの?」

 いつもの、あの、何を考えているのか分からない表情で、彼はしばし沈黙した。


「……副隊長(ヘイスティングス)から聞いた」

 彼女は昼食や街の案内を思い返す。

 兵の視線。

 街のざわめき。

 医療棟の静寂。

(……彼は一体、何を伝えたのかしら)

「まあ。どんなふうに?」

「訓練場でも、医療棟でも、街でも、君はきちんと礼を尽くしていた、と。兵も将校も……妙に、君を褒めていた」

 彼女は目を伏せる。


(……それが目的だもの)

 印象操作は、社交界で必須だ。

 顔には出さない。

「そう。光栄ですわ」


「……分からないな」

「何ですの?」

「君は、軍が嫌いだ。それは変わっていないはずだ。なのに……何を考えている?」

 彼女は一瞬だけ、呼吸を止める。

 夫の、その率直さは、昔から変わらない。


「噂のことで来た、と言っていたが。今日は……、君の行動は……なんだ?」


 ──正面から、真正面から、疑問だけをぶつけてくる。

 彼女は、ゆっくりと視線を合わせた。


「わたくしは、家の──わたくしの迷惑(・・)になるような噂は好みませんの」


「そのための行動、だと?」

「ええ。わたくしが動けば、多少は収まるかもしれませんもの」

 きっぱりと続けた。

「あなたの立場が悪くなるようなことはいたしませんわ」

 エリーマイヤとライナスは、同じ舟に乗っているのだから。


 ややあって。

 彼は小さく息を吐いた。

「……そうか」

 いつもの無表情のようで、どこか呆れたような。 そして、ほんの少しだけ苦笑が混じったような嘆息。


「君がそう思うなら、いい」


(え……?)

(もしかして、受け入れてくれた……?)

 思いがけない彼の反応に、彼女は少しだけ胸が熱くなった。

 決して悟らせはしないけれど。


「……昨日のことだが」

「昨日?」

「……酷いことを言った。悪かった」

 エリーマイヤは、目を見張る。

「わざわざこんな所にまで来てくれたのに、な」

 夫が謝ることなど、ほとんど記憶にない。

「……まあ。珍しいこともあるものですわね」

「また皮肉だな」

「事実よ」

 彼はわずかに肩で笑った。

 その短い音が、どこか懐かしい。


「今日は疲れただろう」

 その一言が、胸の奥に落ちる。

(心配、しているの? それとも、ただの義務?)

 彼の表情は読めない。

 でも声が少しだけ柔らかい。

「午前も午後も歩き通しだった。ここの石畳は、足にくる」

 それは、この土地のことを知っている者の、ささやかな気遣い。

 結婚前、二人がまだぎこちなかったころの姿が重なった。

 彼女は笑みを深めてみせた。

「ご心配には及びませんわ。訓練も、医療棟も、興味深うございました」

 すると彼の目がわずかに動いた。

 訓練か、医療棟か……、どちらに反応したのかは彼女には分からない。


 夫は視線を逸らすように、窓の方を見やった。

 そして、扉の方へ向かう。

「……困ったことがあれば、言え」

「ええ。必要があれば」

「……そうか」

 扉に手をかける。

 振り返らないまま、低く、淡々と。

「……ゆっくり休め」

 扉が閉まる。


 残された部屋は静寂に満ち、窓辺の夕陽が薄れていくのを見つめながら、エリーマイヤは深く息を吐いた。

 優しさの形がいびつで、でも嘘ではなかった。

(……相変わらず、不器用な人)

 ほんの少しだけ、胸が暖かかった。


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