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第8章 噂の中心地

 医療棟の前に立つと、ヘイスティングスが静かに扉を押し開いた。

 途端に、空気が変わる。

 午前の慌ただしさを終えたばかりの空間は、煮沸した布の湿った匂いと、薬草の鋭い香りが薄く重なって、王都にはない景色をつくっていた。


(ここが……)

 胸の奥に、わずかに緊張が走る。

 すると、廊下の奥から一人の男が歩み寄ってきた。


「アシュフォード大尉夫人でいらっしゃいますね。軍医副官のブレナンと申します。本日はご足労いただき光栄です」

 軍医副官──背筋の伸びた、理知的な顔立ちの青年。

 深い礼。エリーマイヤも同じ深さで返す。

「こちらこそ、夫がいつもお世話になっております。医療棟を見せていただけると伺いましたわ」

 副官の目が、ほんの一瞬だけ驚いたように見開かれたが、すぐ穏やかに笑った。

「もちろんでございます。まずは処置区画からご案内いたします」

 ヘイスティングスが軽くうなずき、彼女は歩みを進めた。


 空気が揺れた。

 気配を敏感に感じとるエリーマイヤは、横目で気づく。

 廊下の曲がり角にいた下働きらしい娘が、こちらを見て固まったのだ。

 娘は抱えていた布の山を落としそうになり、慌てて拾い直して壁際に下がる。

 その後ろから別の助手が来て、同じように足を止めた。


 視線が集まる。

 興味と、それから「確かめる」視線。

 裾がふわりと揺れるたび、光沢が石壁に反射し、医療棟にはない色が浮き上がった。


(──ここでは、わたくしは完全に異物)

 胸の奥で、ひんやりと何かが落ち着いた。


(なら──誇りを持って歩けばいいだけ)


 背筋を伸ばし、顎をわずかに上げた。

 歩き出すと、女たちは自然と壁に寄る。

 押されたわけではない。

 空間が勝手にひらいた。


 軍医副官が振り返り、説明を続ける。

「こちらが軽症兵士の処置室、その奥に術後の管理区画がございます」

 彼の声は落ち着いている。

 だが、その背後で、包帯を抱えた看護助手たちが、息を吸ったまま固まっていた。

 エリーマイヤの後ろに侍女が控えているのも、彼女たちにとっては「異様」なのだろう。


(この反応……ただ珍しい(・・・)だけではないわね)

 好奇心だけではなく、比較と警戒と、それから──すこしの期待。


 彼女たちの分かりやすい反応のおかげで、今のところ、この場に例の看護主任とやらがいないことは察せられた。


 ヘイスティングスがゆっくり歩調を合わせてくる。

「奥方、隊長はこの棟の方々ともよく業務のやり取りをされています」

「そうでしょうね」

 彼女は柔らかく微笑んだ。

 その微笑の奥で、

(──だから、彼女たちの目がわたくしを見るのも当然)

 と、冷静に観察していた。


 廊下は静かだが、床の上を流れる空気がざわつく。

 この場所で、彼女は初めて噂の温度を肌で感じた。

 女たちは、測っている。


 どちらが本物か?

 どちらが勝つのか?


 声に出さなくても、その視線に書いてある。

 エリーマイヤは、ただ一歩、また一歩、優雅に進んだ。

 それだけで、廊下の空気が変わった。

 守られているわけでも、威圧しているわけでもない。


 ただ──「王宮の空気が歩いてくる」


 軍医副官ですら、ほんの少しだけ背筋を伸ばした。

「では、奥の管理区画にご案内いたします」

「お願いするわ」

 彼女は微笑んだ。


 周囲の女たちは、目を伏せた。

「完全なる別格」

 だれも太刀打ちできないと、本能で理解したからだった。


 管理区画の前に差しかかった。

 そこは医療棟の中心部、静けさと緊張が混じる場所。

 副官が丁寧に説明を続ける。

「こちらが処置後の兵を一時的に滞在させる区画でございます。長期療養が必要な者は、この奥の部屋を……」

 途中で、微かな違和感に気づいた。


(……空気が変わった)

 視線を動かしたわけではない。

 でも、肌が察知していた。

 女の気配が、増えた。

 ふいに、背後で、白衣の布が揺れる気配がした。

 振り返らなくても分かる。


 彼女がいる(・・・・・)


 静かで、深いところに沈んだ気配。

 噂の中心。

 エリーマイヤは一瞬、歩みを緩めた。

 ヘイスティングスが横目でエリーマイヤを確認し、ほんのわずか息を止める。

 彼も気付いたからだ。

 こちらを見ている視線の正体に。


 だがエリーマイヤは、後ろを振り返らなかった。

 振り返れば、その瞬間に勝負が始まる。

 そして、周囲に話の種を与えてやるだけだ。

 ここであえて(・・・)振り返らなかったのだと悟られるのも、悪手。

 振り返らないことが自然なことのように、振舞う。


 噂を何も知らない呑気な女だと思われてもだめ。

 噂を知っていて、例の女を意識していると思われてもだめ。

 周囲にどちらだ? と勘繰らせるくらいが丁度いい。


 おっとりとした仕草で顎を上げ、副官の話にまた意識を戻した。


 女たちは比べている。


 隊長(・・)は、どちらを見る?

 奥方の顔色は?

 あの主任はどう思った?


 そのすべてが、言葉にならない空気となって漂っている。


(……面倒なものを抱えているのね、あの人も)

 エリーマイヤは微笑んだ。


 軍医副官が説明を終え、扉に手を添える。

「こちらから先は、外科病棟となります。少々患者が近くなりますので、奥方様がご覧になる場合は……」

「結構よ。ここまでで充分、雰囲気は分かりましたわ」

 彼女は穏やかに、しかし迷いなく断った。

 理由はひとつ。

 これ以上ここに滞在すれば、「彼女」と向き合うことになるはず。

 そして今は、噂の渦の中心へ不用意に踏み込む必要はない。


 女たちの視線が、そっと揺れた。

 彼女の判断を理解したのか、それとも拍子抜けか。


 ヘイスティングスが小さくうなずく。

「では、奥方殿。そろそろ昼餉の時間も近いので、食堂の方へ……」

「ええ、お願いするわ」

 背筋を伸ばして歩き出すと、廊下の女たちはすべて道をあけた。


 その瞬間、「あの主任の気配」が、一歩、後ろに下がるのが肌で分かった。

 見えなくても分かる。

 彼女は静かに思った。


看護主任(あなた)は、一体どんな気持ちでわたくしを見ていらっしゃるのかしらね……)


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