貴様の敵は全て殺す
それから三年が経過した。
少女は龍神に名を与えられた。呼び名がないと不便だろう、と。
彼らの話から考えればこの場で人間は一人なのだから、人間という呼び名が自身を表すと理解できるのだが……龍神は頑なにそれを否定した。
龍姫。
少女にはそう名付けられた。
もっと名前らしい名前かと身構えたものだが、龍神や医龍、飛龍のように称号のような名前だ。一応、彼女にも親と呼ぶべき存在からもらった名はあるので、そこに配慮したのだろう。しなくてよかったのだが。
龍神にはガダルト・マグナスという名がある。医龍にも、フウカという名があると知った。他の神徒にもあるのだろう。
三年も経てばある程度この世界、身体、言語にも慣れる。三年もかかったのかと言われればそれまでだが、仕方ないだろう。
物心、自意識、人格等が形成される以前の赤ん坊で無意識に日本語を習得した昔とは違い、彼女は龍語を一旦日本語に変換するというプロセスを取る。龍語を龍語として覚えられないし、龍神や医龍とは普通に日本語でも理解してもらえるので、進みが遅かった。
人間とも魔人とも呼べない中途半端な存在となった。最初の頃は視界が霞んだりして見え、それが不快にも思えていたが、今ではその意味も理解し、意識すれば操作することも可能である。
龍神曰く、この霞み、揺らめぎこそが魔力らしい。
そう訊いて注視してみれば、なるほどと合点がいった。他の、普通の龍人と神徒のそれとでは、何もかもが違うのだ。色の濃さ、揺らめぎの大きさ。神徒の魔力を長時間意識すると、頭痛さえ覚えてくる。
「――あれ。じゃあなんで龍神は?」
そこまで理解すれば不思議なことに気付く。
龍神の魔力、揺らめぎはどれほど意識し目を凝らせど、見えないのだ。
「人に見破れるほどやわなことはしていない」
そう返されてしまった日には、何とも言えず腹立たしくなったものだ。
龍神の言い方、受け取り側の気持ちはどうあれ、龍神は皮肉を言ったりバカにしたりすることは中々ない。それはこの三年間で理解している。
つまり、龍神は事実としてそのような発言をしたのだ。
だからこそ、腹立たしい。悔しい。
別世界の常識、生き物、言語、変化した身体などなど三年間で適応した、と言い換えればまあ彼女は頑張った方なのである。
そんな彼女は今日もまた、この世界の理解のため、階段を一段ずつ上がっている。
「…………さぶいさぶいさぶいさぶい!!」
吸った空気が肺を凍らせるような感覚だ。
きっと今なら世界記録を叩き出せるだろう走力で駆け下りた龍姫は、階下にあるストーブらしき物で暖を取る。
あっちの世界でのストーブとはコンセントに挿してスイッチを入れて電気により熱を生み出す、あるいは灯油を入れるものだが、こちらは違う。魔力があり魔法があり、火をワンタッチで生み出せる。
見た目は土器のようなもの。その中に火が揺らめいているだけ。だが充分温かい。
「はぁ……」
うっとりする。
洞窟暮らし、硬くも柔らかくもないベッド、店は一つや二つの露店。些か前時代的過ぎる風景だ。
魔法がある分、科学の発展が遅いというのはこれまた皮肉なものではあるが、まあそんなものはどうでもよくなるほど、この火が心地よかった。
「だからまだ無理だと言っただろう」
龍姫とは違い、白い息を吐きながらも動じていない龍神がゆっくりと戻ってきた。
言い返せないので、聞こえないふりをしておく。
「ど、どうぞ……龍姫、さん」
「あ。ありがとうフウカさん」
お盆に乗せた二つの湯呑み。ほんのり湯気が立っている。両手で包んだ。飲まずともありがたい。誰かさんと違って、ちゃんと気遣いをしてくれる。
「フウカさんは優しいなぁ。どこかの誰かさんと違って」
後ろでわかりやすく医龍がびくっとした。もう一つの湯呑みを龍神が回収すると、ばっと龍姫のもとに戻ってくる。しゃがんだ龍姫を盾にする。
「りゅ、龍神様もちゃんと優しいです、……よ!」
「そういうのは龍神様の目を見て言わないと」
龍姫の後ろにいる龍神。彼女も背中に目はない。
医龍は龍姫の肩越しにそっとうかがった。
「我は優しいか」
……背中に目はない。ないが、龍神がどんな顔をしているかぐらいはわかる。
「……ひゃい」
今にも泣き出しそうに医龍は頷いた。
龍姫は一人ほくそ笑む。
龍神は人の目を見て話す。それは良いことだ。人の目を見て話しましょう、とは小学校の先生からもよく言われた。高校の受験、面接用にも口酸っぱく言われた。ただ、途切れることなく目を見られるのはどうだろう。
相手が自分以外の目を見ない。絶対に目を逸らさない。威圧されているとしか思えない。おまけに相手は神様と来た。強面だ。医龍もよく泣かなかったものである。
よしよし。
頭を撫でておいた。
「我はお前が強情だったため、一旦味わっておいた方が良かっただろうと思っただけだ」
背中に言葉が掛けられる。龍姫に向けての発言らしい。顔だけふり返る。
「でも龍神様なら、こうワープとかできるんでしょう?」
「我が領土ならできるだろう。あるいは龍の間へ出ることならできる。だが貴様の求めている者は人間だ。人間の地、人神の領土への転移は、しない」
しない。できないではなく、しない。可能か不可能かで言えば可能ということか。
龍姫は湯呑みに息を吹きかけ、少しだけ口に含む。苦い。この味には慣れたが、好みの部類には入っていない。
龍姫がやろうとしたことは、この洞窟、厳密には山の内部から出ることだった。
方法が難しいということはない。家となったあの部屋から考えると、左、つまり下に下っていけば今いる龍人たちの住処である広場に辿り着く。右、つまり上へ上がっていけば、山の出入り口へと辿り着く。その間の障害は傾斜だけで何の苦労もない。
しかし、出た後が大変だった。
一面真っ白。猛吹雪。叩きつけるような雪が横へ横へと音を立てて流れている。吸った空気が一瞬で肺を凍らせるように、あと一歩でも外に出ていれば身体が凍り付いて永眠だったろう。
正しく別世界だったのだ。
「じゃあ、その龍の間? って場所に転移してから人間の場所へ行くのじゃダメなの?」
秘境は神々の家だと龍神本人から訊いた。それぞれ六大神の名を持った秘境が世界各国に点々としていて、そこが誰の領土なのかは秘境を見ればわかるらしい。
地図で龍の間と呼ばれる龍神の秘境は確認した。地図上では白くない、おそらく吹雪いていない場所にも龍の間はあったのだ。
全部が全部、このように凍えるような場所ではないはず。
「確かに、それならばできなくもないだろう」
「じゃあ」
「しかし駄目だ」
「なんでよ」
唇を尖らせた。
龍神は変わらず続ける。
「貴様はまだ自分の身体について何も知らない。我とて、貴様の肉体をどう扱って良いかわからない」
「……」
「熱か」
「……いえ。別に」
「……何を赤くなっている」
「続けてください」
お茶を啜って誤魔化す。
貴様の肉体をどう扱って……。
なんて破廉恥な言い方か。
しかも無自覚と来た。
「というか、私けっこうこの身体慣れたよ?」
続けてくださいと促したくせに、龍姫は自ら口を挟んでしまった。どれだけ動揺しているかはわかるだろう。
「違う。慣れたと知るには雲泥の差がある」
はてなを浮かべる龍姫。
「貴様は慣れたかも知れない。ではその身体について、他者へ教えることはできるか」
顰めっ面となる龍姫。
「そういうことだ。人間であった頃と、今の己との差異を言語化できるようになって初めて知ったことになる」
理屈ではなんとなくわかった。
この魔力の見え方や魔力の扱い方、人間、前の世界の頃とは確実に違っている何かを言語化して他者に教えられるかどうかで言えば、確かにできない。
「ここならば安全だ。外は大抵の生き物が何もできず凍える。仮に乗り越えたとして、我とその神徒がいる。貴様が傷つけられることはない。
しかし一度外に出ればそうとも言えない」
「意外と龍神って臆病なんだね。我より強い奴はいない我が全部蹴散らすぜ。みたいな感じかと思った」
「貴様が我をどう評価しているかは知らないが、神とて絶対ではないのだ」
そこには凄みがあった。事実、体験を物語っているような。
ゆえに彼女はこう口にする。
「何か、あったの?」
以前までは自分絶対最強! みたいなだったが、そうではなかった経験により、今の臆病さ、慎重さを手に入れたのだろうか。
龍神は首を横に振る。見当違いだったらしい。
「我ではない。我が盟友は、その思い上がりにより、かけがえのないものを失ってしまった」
龍神の盟友とは。龍神の盟友になれるような存在とは、いったい何者か。
「それ以前に、貴様の求めている者はまだ5歳にもなっていないぞ」
龍神は話題を変えた。微妙にだが声音も変わっている。おそらく訊かれたくないことなのだろう。
そういったことには龍姫も敏感なので、合わせて話を逸らす。
「でも記憶はあるでしょう?」
「ああ。だが貴様に気付けるかどうかは不明だ」
「確かに……」
目が変わった。比喩的な意味ではなく、目そのものが変わってしまった。
鏡を見てあらびっくり。黒目は今やそこになく、エメラルドグリーンが光っている。しかもどこか人工物めいていて、宝石が埋まっているかのよう。
宝石のような瞳だ、と言えば綺麗に思えてしまうが、彼女はこれを卑下で言っている。どこか物っぽく、生きていないのだ。
まあ、変に考えなければ綺麗ではあるのだが。光の反射、暗いところ明るいところでは色も変化するのは面白い要素ではある。
それ以外にも、龍姫は変わった。
自分でもわかるほどに顔つきが変わったのだ。おそらく別世界ということであれから逃げられたという確信的な安堵による心の解放もあるだろう。自分でもこんな顔してると笑ってしまうのだから、他者からすれば……別人に思われてしまうかも知れない。
「貴様はまず、少しでも良いからその身体を知ることだ。知り、そして自分を護るだけの術を身に着けろ」
「護るだけじゃ、意味ないけどね」
自嘲気味の独り言。龍神は聞き取ってしまったらしい。
「貴様の敵は我が全て殺す」
「……」
まあ、……まあ、わざわざ転生までさせ、四年間も寝食を共にしていたのだ。
龍神もこれだけの労力を費やした存在、みすみす逃したくないだろう。
たとえそれが打算のもとに成り立った言葉だったとしても。
「殺すて。怖いよ」
龍姫は笑った。
ひとまず、身を護る術を身に着けるとしよう。
言語を習得し、常識に慣れ、龍との生活を行う。
ここに三年も時を有した龍姫。どれだけ時間が掛かるかはわからないが、まあ彼はまだ5歳にもなっていないのだ。あと十年はかかっても問題ないだろう。
「いや、老けてたらもっとわからなくなっちゃうか」
龍姫の肉体は16歳で死に、そのままこっちに転生した。
ここでの生活は寝たきり一年と三年。四年ということは現在肉体年齢は二十歳になる。
「けっこうまずくない?」
ひょっとしたら顔つき云々はただ単に歳を取ったからなのかも知れない。時の流れは恐ろしい。
「何がまずいのだ」
「私って老けた?」
「相も変わらず綺麗だ」
「……」
そうだった。
龍神はこういうことを平気で言ってのけるタイプなのだ。
どうしたら良いかわからなくなった龍姫は手で顔を全部覆った。
「何を赤くなっている」
だがバレていたらしい。耳も隠しておくべきだったか。手があと二本あれば。
「誰の所為よ!」
「我の所為か」
なぜ? と理解に苦しんでいる様子の龍神。
はぁ、と息を吐いた龍姫は、二人のやり取りを黙って聞き続けていた医龍の肩にそっと手を置いた。
「行こう、フウカさん」
「え。でも龍神様が……」
「良いの。コップ洗いでもしてなさい」
「……」
放物線を描く湯呑み。片手で軽くキャッチする龍神。
一時、騒ぎになった。
龍神自ら使った湯呑みを洗っている姿に、民は皆何か逆鱗に触れたのかと恐ろしくなった。
同時に、龍神に湯呑みを洗わせる龍姫に対して、畏敬の念を抱かずにはいられなかった。