龍神は不器用
あるところに少女がいた。
彼女の年齢は十六歳。十七歳を迎えることはない。病気でもなければ、事故でもなく、彼女自身が、それを望まなかった。
十六歳にして、彼女は希望を知らず、生きる意味を持てず、自死を選んだ。
自死への懸念は唯一一つだけ。痛いのだろうか。それだけだった。
もう生きることへの執着も未練もなかったが、死ぬことは痛みを伴う。おそらく殴られるよりももっと痛いだろう。人間の機能を失わせるだけの痛み。言い知れぬ不安、漠然とした恐怖があった。
しかし、結果からすると、そこまで痛くはなかった。
崖から落ち、視界が目まぐるしく回転し、剥き出しの岩壁に頭がぶつかる。記憶をふり返っても、痛みはなかった。痛みを感じる前に、気を失ったのか。それならば、ラッキーだった。痛みを感じることなく、死ねたのだから。
「…………っ」
死の寸前、その記憶、痛覚を思い出そうとしたからか、後頭部ら辺に痛みを感じた。
そこで、少女は疑問を抱く。
死んだはず。明確に死んだと覚えている。それなのに、思考ができる。痛みを感じる。疑問が持てる。
奇跡的に生還してしまったわけでもないだろう。
その場は、ただただ白い。白の中を白が揺蕩う、不思議な空間だった。
彼女は自分を見下ろす。意識すれば手を握れた。現実に存在しないような空間に、なぜか自分だけが存在している。
死後の世界とは、無の世界とは、こういう世界なのか。
何もなく、退屈に苦しめられそうな空間に投げ出されても、死んだことは後悔しない。慎重に天秤に乗せないと、生きていた頃と今の状況、どちらが苦しいか言えない。それだけで、彼女の境遇がどれだけのものだったか。わかるだろう。
徐に顔を上げる。足音こそしなかったが、気配を感じた。
無の空間を確かな足取りで歩むのは、これまた人なのか。
金のフードを外し、素顔を露わにする。全身を金に包んでいたその男の見た目もまた金だった。波打つ金髪に切れ長な金の瞳。感情など読めない。読もうとすること自体が間違い。理性が強い人間の本能を強制的に呼び起こす。全てを丸裸にされ、心臓も心も見通すかのような眼光。
彼女は、震えた。怯えた。ガタガタと身体が震える。
純粋な恐怖だ。恐怖を感じるなんていつぶりか。まだ自分に、恐怖で震えるだけの感情が残っているとは。
だが、昔とは違い、相手は彼女の怯えを見て取ると、それ以上は近づいてこなかった。ジッと佇んでいる。怯える姿に笑うこともなく、彼は、静かに待ってくれた。
その瞳は落ち着くまでいつまででも待ってやる、といった意味があるように感じられる。
本能に直接、丸裸にされた心へ直に訴えてくる瞳に、彼女は時間を有したが冷静になれた。男……と、その人のことを、いや、そもそも人なのかも怪しいが、ともかく。異性の目をまともに見ても頭が真っ白にならなかったのは、あの彼以外に初めてだろう。
「平気か」
低い声に問われる。
少女は、小さく頷いた。
相手はすこし考えるそぶりをしてから、言葉を選ぶようにして進めた。
「貴様は、死んだ」
唐突に死の宣告をされれば悲しみに打ちひしがれる人が大半だろう。まだやりたいことがあったと号泣するかも知れない。なんで、どうして、と怒る人もいるだろう。理解できず、困惑する人もいるかもしれない。
大抵が、そんなリアクションを取る。しかし、彼女は笑った。
死ねたのだ。やっと。よく頑張った。そう自分を褒めてやりたい。
自画自賛をしていた彼女の頭に、ふと、一人の顔が過ぎる。
「あ。……その、いいです、か……?」
頷かれた。怖ず怖ずと意見を述べる。
「私と、一緒だった……男の子、いたと思うんですけど…………」
死ぬのは怖い。
なぜ怖いのかは、一言で表せない。
生きたいからだと言う人もいるが、それはただの詭弁である。
痛いのが嫌だから。中途半端に生きて残ってしまったことを考えるから。自死を逃げだと非難されるかもしれないから。他にも色々考えてしまうことがあるからだ。
それらの強迫観念は一人で乗り越えられることではなかった。すくなくとも、彼女はそうだった。死ねないから、生きている。そんな状態だったのだ。
そんな苦しみの狭間にいた少女が出会ったのが、自分と同じ境遇の一人の少年だった。
彼とは友人でもなければ恋人でもない。
だが、一緒だったから、最後の一歩も踏み出せたのだ。
自死に踏み切れたのも、彼のおかげである。
既存の言葉では表せない関係値は、死ぬことを約束した仲とでも言おうか。
その少年は、どうなったのか。少女は気になった。
「ああ。共に死んだ」
「……そう」
少女はそっと口元を緩ませた。
自分だけが生き残るのも嫌だが、彼だけが生き残るのも同じくらいに嫌だった。
やっと、初めて、少女は自らの意志で人の役に立てたのだ。命を使ったのに失敗されては、悔しい。
死んだと訊いて口元を緩ませる少女に、人ならざる者は怪訝な顔をした。
「貴様は、そやつが嫌いだったのか」
「……え?」
「嫌いだったから、死んだことを喜んでいるのか」
「……」
目の前の彼はどこまで知っているのか。
二人がどんなことを話し、どんなことをしたのか知らないことだけは確かなようだ。
ひょっとしたら、死んだ最終場面しか見ていないのかも知れない。
「好き」
「……好き?」
「うん。好きだよ。もちろん、人としてね。感謝もしてる。たぶん向こうもそう」
男女の友情が存在するか、と問われれば、彼女はその少年を思い浮かべるだろう。
まあ、そもそも友人と呼べるほどに親しい存在が、彼以外にいなかったのだが。
「不思議なものだ。……相手のことを想っているのに、死んで喜んでいる」
「うん、そう。変かもね」
気分は晴れやかだった。
先ほどまでの怯えはどこへ行ったのか。
死んだことで、吹っ切れてしまったのか。
「まあ、わからなくていいよ。普通に生きてたら、わからないことだから」
真っ当に生き、真っ当に悩み苦しみ、真っ当に挫折して努力して結果を得るような人生の人には、到底気持ちはわからない生き方をしてきたのだ、彼らは。
わかって欲しいとも、今更思ってはいない。
「……わかり、たいのだ」
しかし彼は、そう言い切った。
言い切ったにしては、眉を顰めている。自分の吐いた言葉が信じられないとでも言いたげにしながら、
「それも、一種の愛だ。異性間に、性欲のない純粋な愛情。我は、それを、……知りたい」
改めて言い直す。これでしっくりと来たと言わんばかりに、彼は一つ頷いた。
少女は奇妙なもの見る目を向ける。いったいこいつは何が言いたいのだと。
「……すまない」
少女の視線は、彼にいったいどう解釈されたのか。咳払いし、続ける。
「我は龍神。龍を束ねる神だ。名をガダルト・マグナス。好きに呼んでくれて良い」
ふむ、と。自己紹介はこれで済んだ、と。一息ついてやりきったような顔をされるが、少女は更に奇妙な顔をするばかり。女の子がしてはいけない顔だ。死んでいるからもう良いのかも知れないが。
「なんだ。何か、物足りないか」
「それで物足りていると思っている方が不思議なんだけど」
「ふむ……では、何が訊きたい」
何が訊きたい。……そんなの決まっているだろう。全部だ。
「そもそも、龍なんて存在しません。物語にしか出てこない生き物です。それを束ねる龍の神だなんて……しかもなんでわざわざ人の形をしているの」
コスプレ大会はいい加減にしてほしい。
ツッコみは入れるものの、少女は頭のどこかで否定していた。目の前に立つ人の形をした男が、龍を束ねる龍神であることを、願っていた。
理由は主に二つある。
一つは初対面の際に感じたもの。直感的に、本能的に、理屈ではなくこれは別の次元だと理解してしまったのだ。
そしてもう一つ。もしもこれが本当にコスプレ大会であれば、まだ彼女は死んでいないことになる。死んだと確約してくれた言葉も何の信憑性もなくなるのだ。
「ふむ……なるほど。龍が存在しない、龍をまだ見たことのない他所の人間だと、そういう判断をされるのか……」
冷静に分析していないで、さっさと何かしらの証明が欲しい。
「では、これでどうだ」
と思った矢先に、龍は、上着を投げ捨てた。
瞬間、姿が変わる。
少女はこれまた女の子がしてはいけない顔をした。あんぐりと口をアホのように開け放って、アホのように目を開いて見上げてしまったのだ。
そこには先ほどの人の形をした青年はいない。代わりに、巨大な金の龍がそこにはいた。
全長は何メートルになるのか。何重にもうねっている身体では、推測もできそうにもはない。
ただ、これだけは断言できる。
今までの何よりも、大きかった。
新幹線や高層ビル、マンションや学校の校舎、最後に見た水平線まで見渡せる海よりも、遥かに大きかった。
「これで、いいか」
「……はい」
ふらりとよろめく。強い衝撃に、気を失いそうになった少女。その背中を、いつの間にか回っていた龍神が支えてくれた。
変身の隙に攻撃される、といった事態を防ぐためか、変身は一瞬の出来事だった。もちろん、金の龍はもうそこにはいない。
「人の身には衝撃が大きすぎる。加え、幅を取る。何をするにも人の姿の方が便利なのだ」
「……な、なるほど」
訊いてもいないことを教えてくれた。相槌は打ったが、もしも今何て言った? と問われれば、自信を持っての返答はできそうにない。
「じゃあ、人間社会に皆さん……龍の方々は、溶け込んでいるということですか……?」
死んでから知るというのは何とも勿体ないことのように感じられる。もっと早く知っていれば、これ以上に浪漫のあることはないだろう。
死んだからこその特権なのかもしれないけれど。
「いや、我は貴様らの世界、社会構造、国について、深くは知らない」
「貴様らの……世界?」
「我は……貴様が生きていた世界とは、別の世界に住む神だ」
しばしの熟考タイムに入った。少女は、言う。
「異世界ってやつだ」
「ああ。おそらくは」
「じゃあ、なんで……どういうこと? 今の状況は」
龍神が口を開くのを察し、少女は慌てたように制止を掛けた。
「あっ! ちょっと待って。……もしかして、異世界転生ってやつ?」
「……そうだ。よく、知っているな」
「……うん。私と一緒だった男の子が、そんなことを……言ってたから」
「……」
もしも異世界転生ができればなぁ……でもトラックじゃないしなぁ……みたいな、難しい顔をしていた。それが、最期の会話だった。
「え。もしかして私のこと、転生させようって?」
「ああ。転生し、そして、我と共に生きて欲しい」
プロポーズだろうか。顔の筋肉も一つ動かさずに言うのは余りにも無感動だ。少女は恥ずかしいとは思わない。死んでからプロポーズされるとは何なんだ、とは思うが。
「なんで私なの? 私じゃなくて……さ。ほら、もう一人いた、あっちの男の子に、しなよ」
「あちらにはすでに別の神が行っている。それに、我はオスだ。伴侶に取るのはメスだろう」
「あ……へぇー…………そう」
「嫌なのか」
「う、うーん……」
言い淀んだ。
それは、当たり前に嫌だからだ。
龍神はオスだと言うし、自分のこともメスだと言うし……そんなぞんざいな扱いをされて喜ぶ人の方が珍しいだろう。
別に龍神は彼女自身を欲しているわけではないのだ。女であるという性を欲しているのだ。昨今の情勢を鑑みれば、オス同士で結婚してもおかしくはないだろう。まあ、別世界の、それも龍相手に言っても意味はないだろうけど。
いずれにせよ、結局は、神であろうと、そういう目でしか判断されない。
ふっと一人で笑う。ここで拒否するという選択肢が自分に浮かんでいたことを笑ったのだ。生きていた頃は拒否なんかできなかったのに。死んでから意志表示ができたとして、何の意味があるのだろうか。
さて、どう断るべきか。
仮に目の前の龍神が本物だったとして、適当な言い訳で機嫌を損ねるわけにはいかないだろう。反対に偽物だったとしても、こんな頭のおかしい相手を前に、やはり適当な言い訳はできない。
もう疑ってはいないが、どちらにせよ、言葉は選ぶ必要がある。
神ならば、人の思惑など簡単に見抜けるのか。はたまた言い淀んだ間に何か嫌な予感を感じ取ったのか、龍神は少女よりも早くに口を開いた。
「先ほど見せた、貴様が男の子と言った際に見せた顔」
お互いがお互いに勇気を与え、本当の自分を曝け出しても否定しなかった少年のことだ。
「我は、その瞳の奥に隠された感情が知りたいのだ」
「……」
少女は、少年が異世界転生という最期の会話をした時のやり取りを脳裏に思い返して、龍神に語っていた。
無意識にもその際、彼女は穏やかで懐かしむような笑みを浮かべていたのだ。
その笑みの意味は、友情でもない。愛情でもない。
ただ、血が繋がっただけの書類上の親よりも遥かに信頼ができた。一年もない関係性だったとしても。
彼は、特別な存在だ。
「おそらく、ではあるが……その少年も、他の神の勧誘を受け、転生するはずだ」
後出しと言えば後出し。少女が動かないと思っているから、後出しで情報を付け足すというのは卑怯と罵られても仕方がないこと。
「……ふふっ」
少女は笑う。
罵られると思っていたからか、龍神は、眉間に皺を寄せる。よく観察してもわかりにくい変化だ。
だが、少女は、すこしだけ龍神のことを理解した。
彼は、不器用なのだ。神様ならその力で強引に事を進めることもできただろうに。わざわざ説明し、意見を聞いてくれている。
少女も、少年も、何も死にたかったわけじゃない。生きていたくなかったのだ。
誰だって普通の人生は求める。
普通に友達と笑い合って、普通に誰かに恋して、普通に目標に向かって走って挫折し失敗し、その果てに何かを掴み取る。そんな、普通の人生は欲しい。
彼女たちだって、例外ではない。
少女は、思う。まあ、いいか。と。
世界が違うというのなら、自分に地獄を押し付けてきたあの醜いバケモノもいないということだろう。
「うん、いいよ。転生、してあげても」
「感謝する」
上から目線の言葉にも素直な感謝。神であろうと、龍神はその座に胡座を掻くことも、立場を利用することもなかった。
「あ、でも待って。一つだけ、いい?」
「なんだ」
「転生ってことは、この身体じゃなくなるってことだよね?」
「ああ」
どこかの誰かから産まれるのか。また、親という逆らえない絶対的な存在の元で過ごさなくてはいけないのか。
それは、欲しくない。
「このままの姿で……ってのは、さすがに無理だよね?」
「……いいだろう」
「え。ホントに?」
「ああ。元より、これは取引だ。対等でなくてはならない。我ばかりに得があっても、それは後々に響くやも知れぬ。
我は、貴様がとなりにいることを望む。貴様はそれを了承し、その身のままであることを望む。これで、いいか」
未知の世界に独りぼっち。
自分一人で死ぬこともできないビビりな彼女は、それでもどこか不安が滲む。
「うん。いいよ」
少女は了承した。
元の世界の姿のまま、というのは確かに親という存在を毛嫌いしていたからではある。だが、もう一つあった。
それは、この姿ならば、共に転生したというあの少年も、自分の存在に気付いてくれるかも知れないということ。そこに、賭けたのだ。彼がいれば、独りではないから。
あるところに少女がいた。傍らには少年がいた。
しかしそれももう全ては過去のこと。
彼らは勇気ある一歩を踏み出し、新たな世界へと進んだのだ。
少女は龍の神に手を引かれ、少年は人の神に誘われて。