90 記録と記憶
問題なく担任である大竹先生から鍵を受け取った俺はそのまま応接室へと足を運んだ。鍵を受け取ると同時に大竹先生から「お前も大変だなあ」と同情のお言葉を頂戴した。因みに先生には波子屋さん事情は一切話してはいないのだが、俺が妙なことに首を突っ込んでいるとでも思っているのだろう。まあ正解なんだけど。
「今日は緊張しないんだな」
推測が外れたとはいえまだ目の前にいる人物を疑っていた俺は、探りの意を込めて訊ねてみた。
「昨日も来たしもう慣れたから。でもやっぱりこのソファーの座り心地やばいかも」
ボフンボフンとソファーの感触を確かめるようにお尻を上下にさせながら言う。
「・・・・腹減ったし取りあえず飯食おうぜ」
腹が減っては何とやら。さっき声掛けられるまで唐揚げの口になっていたこともあり、全身が欲していたのだ。
「そうだねー」
間延びした声で言った後、コンビニの袋の中身をテーブルの上に並べ始める。混ぜご飯のオニギリと総菜パン。そしてフルーツヨーグルトとここに来る前に買ってきたと思しきバナナオーレの計四品だ。
「それで足りるのか?」
「うーん、本当はもう少し食べたいんだけど、あまり食べると体重気になるし・・・・」
これは無神経なことを聞いてしまった俺がバカだったな。そんなの聞かなくても想像出来ただろうに。
「いただきまーす」と言ってから彼女は割と速いペースで食べていたので、俺も途中からペースを上げた。それでも最初から量に差があったので、俺が半分ちょっと食べ進めたところで彼女は残すところデザートであるフルーツヨーグルトだけになった。
「うわーすごく美味しそー」
完全にヨーグルトに目を奪われている彼女。本日二度目の「いただきまーす」をしてから頬張り始める。
「うーんおいしー」と幸せそうにしている。すぐに食べ終わってしまうのがもったいないと思っているのか、食べるペースはさっきよりゆっくりだ。
それでも急がないと食べ終わる時間が遅れてしまうので更にペースを上げるため、弁当箱を持ってかき込むように食べた。
「それで話って言うのは昨日のことだろ? ていうかわざわざ人目につかないところを希望したってことは意味があると俺は思ってるんだが」
弁当箱を袋に終いながら既に食べ終わっていてスマホを弄るでもなく手持無沙汰にしていた目の前にいる人物に訊ねた。
何かを考えているのか「うーん」と唸るだけで返答はなかった。「言いにくいのか?」と訊くと「そうじゃないんだけど・・・」とそこで言葉が止まるかと思ったが、「よしっ」と自らを鼓舞するような言葉を吐いたあと彼女は続けた。
「実は私、波子屋さんじゃないの」
その言葉に違う意味で驚いた。
彼女がいつもの波子屋さんでないことは推測していたが、それは昨日この部屋を使っていたことを目の前にいる彼女が知っていた時点で否定された。しかし疑惑は残っていたものの、なぜ昨日のことを覚えている彼女が波子屋さんではないんだ? という驚きがあったのだ。
「・・・・じゃあ君は一体誰なんだ?」
これで全ての謎とまではいかないが、この問題は確実に進展できるはず。
「・・・・・それどうしても言わないとダメ?」
しかし彼女は正体を明かそうとはしなかった。
どうやらもったいぶっている訳ではなさそうだ。その証拠に楽しそうに食事をしている時とはうって変わり、その表情は真剣そのものになっていた。
「ダメとは言わないけど、じゃあ俺に何をしてほしいの? とはなるよな」
「もちろんこの状況からの打破だよ」
「打破ねえ・・・」
祭主先輩に丸投げされたとはいえ波子屋さんに直接相談され、それを了承した以上協力は惜しまないつもりだ。しかしいま目の前にいる人物は波子屋さんではない。しかも事情はどうあれ素性を明かさない相手の言い分を鵜呑みにするのは危険な気がする。
「まず整理をしたいんだけど、君は昨日ここに来た記憶があるんだよね? 実はその時点で波子屋さんではなく君だったってこと?」
ここは彼女の素性以外の情報を得るべきだな。これからのことを考えるのはその後でもいいだろう。
「ううん違う。昨日ここで話をしたのは間違いなく波子屋さん本人だと思うよ」
「ならその記憶が君に引き継がれているってことになるんだけど、それって今までもそうだったってこと?」
「それも違うよ。私が覚えているのはこの体にいる時だけ。因みに今日は一時間目の途中からだよ」
一時間目から? ということはHR前に話したのはやはり波子屋さん本人だったってことだよな。しかし波子屋さんの話では丸一日の記憶が飛ぶって言ってたし、また法則が崩れたってことか? いや昨日の月曜日に飛んでいなかった時点でこの法則性は当てにならなくなってるか。
だがそんなことよりまず確定させなければならないことがある。
「もしかしなくてもこれって入れ替わりだよなあ。何らかの原因で波子屋さんと君の意識が入れ替わった。その認識で合ってる?」
「まあそういうことかな」
「だとしたら波子屋さんの意識は今現在君の体にあるってことだけど、彼女が・・・・君の体が今どこで何をしているのか知ってるの?」
普通は入れ替わった時点で自分の体がどうなっているのか気になるはず。俺なら間違いなく確認しに行くか、距離的に難しいのであればまずはスマホに電話する。
「どうだろ? ちょっと分からないかなあ」
しかし中身が正体不明の人物はそのことをあまり気にしている様子はない。
「分からないって、なんでそんなに悠長に構えられるんだよ? 当たり前のように意識が入れ替わってる前提で話してるけどさ、普通はもっと狼狽えたりするもんじゃないの?」
「だってもう慣れたし」
「本当に入れ替わってる? 実は俺を揶揄うために入れ替わった振りしてるとかない?」
「ないないない。だって本当にアタイ波子屋さんじゃないもん」
「アタイ? それが君の一人称なのか?」
「あちゃー、気を付けてたのにしくったわー」
「いや別に何だっていいんだけど、もしそれも演技だとしたらお手上げレベルだな」
「だから演技じゃなくて本当に私は波子屋さんじゃないんだって」
「じゃあ誰なんだよ? やっぱり言えないってか?」
「言えないものは言えないの。そんなにしつこいと彼女さんに振られちゃうよー」
「ほっとけ。それより君が波子屋さんでないなら、どうして昨日俺たちがこの応接室を使ったことを知ってるんだ?」
「あーそのこと。そう言えばまだ見せてなかったもんね」
「ちょっと待ってて」とゴソゴソと鞄を漁り始め、やがて一冊の大学ノートを取り出しテーブルに置いた。
「これは?」
「見ればわかるよ。とにかく読んでみて」
言われた通りノートを手に取りパラパラとページを捲っていく。どうやら文字が書き込まれているのは最初の数ページだけのようで、残りは白紙だった。一ページ目に戻り少しだけ読み進めたところでノートをテーブルに置く。
「これは・・・日記か?」
「日記というより記録じゃないかな。ただその日に起きたことを書いているだけで感想とか全く書いてないもん」
確かにそうかもしれない。ノートの左側には日付と時間が記されていて、その横に何があったか、何をやったかが書かれていた。記録は先週の金曜日の朝七時から始まり、一番最後は今日の一時間目が始まる直前の時刻になっていた。
「これを書いたのって・・・・」
「もちろんアタイじゃないよ。でもこれで分かったでしょ? アタイはこれを読んだから彼女がいつどこで何をしていたのか知ってたの。ほらここに書いてあるじゃん、昨日の十六時、自分、タマコ、セイコ、高遠の四人で応接に行くって。しかも話した内容もちゃんと要点をまとめて書き込まれてるし、これを読めば大体のことは分かるよね」
昨日見た波子屋さんの物理のノートを思い出す。あそこに書かれた文字は本人が書いたものとそうでないものがあった。しかしその一度しか見たことがなかったのでこのノートの文字と昨日のものが同一人物によるものなのかの判断はつかない。
「じゃあ君がその体に入り込んでいる間波子屋さんの代わりに課題をやったというのは事実なのか?」
このことはこの記録帳にも書かれていた。だとしたら当然彼女も目にしているはずだが、正直に答えてくれるだろうか?
「もちろんやったよ。だってそうしないと変に目立っちゃうでしょ? ていうかやってないことに気付いた瞬間何で前の日のうちにやってないのよってちょっとムカついたし」
「まあ波子屋さんってそういうタイプかもな。よく知らんけど。まあでもこれで何で君がさっき声をかけてきたのかは大体分かったよ」
「信じてくれて嬉しいよ高遠君。それで一つお願いがあるのだけど」
「お願い? 一応話だけは聞いてやるよ。でもOKするかは内容次第だな」
「こんな可愛い子のお願いを断るわけー?」
「中身は違うかもしれんだろ・・・ってこれは失言だったな取り消す」
「あははははー、いいっていいって、実際その通りだし気にしないでいいから」
「俺の中で中の人は絶世の美少女ってことにしておくからそれで勘弁な」
「オッケー。それでお願いというのはさ、このことを誰にも話さないで欲しいってことなんだけど、約束出来そうかな?」
「それは波子屋さん本人にもか?」
「もちろん」
「理由は? このノートを見た君なら彼女がどんな思いでこれを書いているのか分からないわけでもないんだろ?」
おそらく波子屋さんは万が一のことを考えこれを残しているのだと思う。昨日は友人や俺に気を遣ってそこまで深刻そうな雰囲気を見せないよう気丈に振舞っていただけで、本当はかなり精神をすり減らしていたのかもしれない。
入れ替わりが事実なら、目の前にいる彼女も奇怪なことに巻き込まれた波子屋さんと同じ境遇の持ち主と言える。しかしだからと言って彼女の提案を受け入れる理由には到底なり得ない、というのが俺の本音だ。
せめて素性を明かしてくれさえすれば話は変わってくるかもしれないのだが、きっとそれでも彼女は頑なに拒むような気がした。
「言いたいことは分かるよ。でもそれは波子屋さんの考えであって私の意思じゃないから」
「ならやっぱり答えはNOだな。君の意思を否定するつもりはないが、いま大事なのは波子屋さんの意思の方なんだよ。その体は彼女のものであって決して君のものじゃない」
「どうしても譲れない?」
「当然だ。何と言われようがこの考えは変わらん」
「そう・・・・・なら諦めるかあ」
「やけに諦めがいいんだな。もっとごねるかと思ってたんだが。まあ理解してくれたならそれでいいんだけどね」
「だって考えは変わらないんでしょ?」
「君がもう少し協力的だったら一考の余地が無いでもなかったんだけど、事情があるんだろ?」
「事情ねえ・・・・・事情というより事実かなあ・・・・・」
そう言いながら諦観したような目で窓の外を眺める波子屋さんではない何者かの姿を見て、なぜか胸を締め付けられる気分になってしまった。
諦めと希望が同居している。そう感じさせる雰囲気を纏った彼女に、たった今不意に思い浮かんだ今回の矛盾点を訪ねてみる。
「なあ、そもそもの話なんだけどさ、君がこうして俺に打ち明けなきゃ君のことがバレる心配なかったんじゃねえの?」
「それは・・・・」
「それともう一つ。君はこの状況を打破したいって言ってたけどさ、それって本当に入れ替わりのことを言っているの? 何か別の目的があるんじゃないのか」
波子屋さんはこうして記録を残すくらい不安を感じていた。つまり裏を返せば本心からこの状況が好転することを願っているのだ。
だがこの人物はどうだ? 最初のうちは俺の思い込みもあったせいで彼女も波子屋さんと同じ考えだと思っていたが、ここまで話してみた限り寧ろ逆のことを願っているように思えた。
この状況がこのまま続けばいい。
もし本当に彼女がそう思っているにならば、ある意味現在起きている怪奇現象より異常なことだ。
「アタイの目的は・・・・・・」
そこで言い淀んだ少女に対し、
君の目的は何なんだ? まさか波子屋さんの体を乗っ取るつもりか?
そんな意を込めジーっと睨み視線で圧をかける。すると少女が口を再び開き言葉を発しようと瞬間、部屋の窓がゴンと鈍い音を経てた。何かが窓にぶつかったような音だ。
俺も少女もその音に釣られ、同時に窓の方を向いた。そして次の瞬間、
「ギャアァァァァァー!!!」
少女が奇声に近い叫び声を上げたかと思えば、そのまま逃げるように応接室を飛び出してしまった。鞄やノートは置きっぱなしだし、ドアも開けっ放しの状態で俺は一人取り残されてしまった形だ。
「いきなりどうしたよ?」
誰もいない部屋でそう呟きいた後もう一度窓を見ると、そこには一匹の小さな生き物が「クワー」と欠伸をしていた。
それは三毛猫だった。もちろん昨日円城先輩の家にいた馬鹿デカいアレではなく、ごく普通サイズの愛くるしい猫ちゃんだ。
もしかしてあの中の人、猫に強いトラウマでもあるのか?
彼女は間違いなく窓にいたこの猫を見て驚き、そして逃げ出した。
彼女の目的が一体何だったのか、そしてあの時何を話そうとしたのか。結局何も聞けないまま彼女はいなくなってしまったので今はもう諦める他ない。
窓の外側に突き出た十五センチほどのコンクリートの上に猫は座っていた。
「お前野良か? それとも何処かで飼われてるのか?」
なんとなく声を掛けただけのつもりだったのだが、
「我は野良でも飼い猫でもないわ!」
「えっ?」
いきなりのことで呆気に取られてしまった俺を横目に、三毛猫は毛繕いを始めた。




