蕗ちゃんの朝
くどに焚きつけをいれて、火をつける。釜の中には水に浸しておいた玄米があって、炊かれるのを待っている。
「おかあさん、気分、どお?」
火が大きくなったのを確認して、蕗は振り返り、しばらくぶりに布団から出てきた母に笑みかけた。母はまとめている髪の、うなじの辺りをぽんぽんと叩いて、蕗に笑みを返す。
「今日は、楽やわあ。天気がいいからやろうか」割烹着に袖を通し、紐を結ぶ。「蕗さん、ごめんな」
蕗は頭を振る。
一昨日から体がだるいのだが、母にそれをいうつもりはない。もしいえば、母は無理をするし、学校を休むようにいわれるだろう。
「ねえちゃん、おはよう」
「おはよう、仙一」
六歳下の弟の仙一が、元気に走ってきた。蕗はくどに、味噌汁をつくる為の鍋をかけながら、いう。
「はやいやないの」
「うん」
ふいと不安になって、確認した。
「班長は先月までやろ?」
「うん。でも、班長してたら、なれてしまったみたい」
「そう……」
朝寝坊だった弟が、班長をしたおかげで、はやくに起きられるようになった。蕗はそれがなんとなく嬉しくて、にっこり笑う。
隣に立っている母が、蕗と同じように仙一に笑いかけた。「えらいなあ、仙一さん」
仙一は誇らしげに胸を張る。蕗と母は、目をかわしてくすっとした。
玄米はうまく炊けていた。この間、貸本屋で見付けた婦人向け雑誌の記事どおりに炊いたのが、よかったらしい。ぼそぼそしていないし、独特の匂いはあるけれど、まずいとまではいえない。
母の味噌汁は自分がつくるよりもおいしくて、蕗はほーっと溜め息を吐く。材料は同じなのに、味は明らかに違った。仙一も、必死にすすっている。次に味噌が手にはいるのはいつだろうか、と、蕗は少々気になって、ふと目を下げた。
「あ、お母さん、綿、あまっとらんかな」
「うん? なにつくるん?」
「鍋をな、包んどくものなんやけど、型紙、移したから……」
「ねえちゃん、ご飯、これだけ?」
仙一にいわれ、型紙をとりだそうとしていた蕗は、飯台の傍へ戻る。八歳の仙一には、ご飯が足りないようだ。蕗はにっこりして、自分の茶碗の中身を仙一の茶碗へ移した。母も、もともとほんのふた口程度しかよそっていないのに、それをそのまま仙一の茶碗へいれる。
「仙一さんは、おとこのこやからな」母は顔を背け、小さく咳込んだ。「ようけ食べて、おおきならんとなあ」
仙一は母に頭を撫でられて、嬉しそうに頷いた。
少しさめたご飯に、梅干しをいれて握った。ぎゅうっとかたく握りしめないと、玄米はぽろぽろとこぼれてしまう。
「お母さん、少しよこうたら?」
「ううん、本当に、今日は具合がいいんよ」
母は眼鏡をかけ、繕いものをしている。それがすんだら洗濯をすると意気込んでいた。今日は天気がいい。「お父さんが頑張ってくれてるのに、お母さんだけずっとねておられんから」
「……そやね」
お握りを経木で包み、それを風呂敷で包んだ。
「仙一」
「うん」
もう支度をすませた仙一がやってきて、風呂敷包みを掴んだ。蕗は弟の目やにをとってやる。顔をあらわなかったらしい。
「もうでるん? はやいなあ」
「サっちゃんと約束しとるんや」
「あらそう。ああ、八月はサっちゃんが班長やっていうてたね」
サっちゃんというのは、近所の男の子だ。仙一と同級で、いたずら小僧である。仙一とはいつも一緒に遊んでいる。
蕗は弟が外へ出ていくのを見ていた。「仙一、気を付けてね」
「うん! いってきます!」
外から声がして、釜に玄米をいれて水にひたしていた蕗は、顔を出した。「武則さん」
「蕗ちゃん、お母さんおるかな?」
二歳上の、近所の青年だ。蕗とは幼なじみで、蕗は彼に、かすかな憧れを抱いていた。
蕗は頷いて、洗濯をしている母を呼びに行く。母がその場をはなれ、蕗が洗濯をひきついだ。もう絞って干すだけになっていたので、頑張って、手でぎゅうぎゅうと絞っていく。
すぐに母が戻ってきた。「みのりさんからいいつけられて来たらしいわ。今日にもうまれるって」
「ああ……」
みのりというのは、武則の姉だ。三年前に嫁いでいったが、つわりが酷いので、夫が心配して実家へ戻した。蕗とはかなり歳がはなれているが、不思議と馬が合い、姉妹のように親しくしている。赤ちゃんの顔も、家族以外では一番に見せてくれる約束だ。
蕗は微笑んで、手を拭った。
「お祝いせんとね」
「そうやな。産後は、力がつくもんをたべてもらわんとなあ」
といっても、ひとにおくるほどのものはない。芋が少しあるだけだ。
蕗は立ち上がり、酷い眩暈がして、その場へうずくまる。
母の悲鳴で武則が戻って、蕗は武則に負ぶわれ、布団まで運んでもらった。蕗が意識をとりもどしたのを確認し、武則は帰ってしまった。姉が今日にも出産しそうなのだ。家族ではない蕗よりも、そちらが気にかかるのは当然である。それに、武則には仕事もあった。
母は憂い顔だ。
「慌ててたから、なんにもいうてないわ。あとでお礼をいわんと」
「うん……ああ、支度せんと、遅れてしまう」
「休みなさい。蕗さん、熱があるやないの」
母が少し、怒ったような声を出し、蕗の額をつめたい手で触った。蕗は目を瞑る。母の手がつめたいのではなくて、自分の額が熱いのだと、わかった。
けれど、体を起こした。母が呆れた顔で、でも支度を手伝ってくれる。
「蕗ちゃん、おはよう」
玄関のほうから声がした。同級の、かよだ。いつも蕗を迎えに来てくれる。「ごめん、かよちゃん、ちょっとまってて」蕗はなんとか声を張り上げてから、のろのろと支度を続けた。
母が少し色の悪くなった顔で、玄関へ向かう。挨拶がかすかに聴こえてきた。かよはお行儀のいい子で、蕗が支度にてまどっても、絶対に家にははいろうとしない。ただじっと、表で待ってくれる。
蕗は荷物を持って、母に挨拶し、家を出た。かよと並んで、表の道を歩く。帰る頃には、みのりが赤ちゃんをうんでいるだろう。あげられるものがあったらいいのに、蕗はなにも思い付けなくて、段々と俯いていく。
「蕗ちゃん、帰り、うちに寄らん?」かよはおっとりと微笑んだ。「お兄さんが、また本をおくってくださってね」
「ほんと? かしてくれる?」
「うん。漱石の、面白いんよ。わたしはもう、読んでしまったから」
かよの兄は、お国の難しい仕事をしているらしく、羽振りがいい。かよが本好きなので、本を沢山与えてくれるのだそうだ。
かよは声を低くした。「蕗ちゃんがなかよくしとるおねえさん、もう産み月やろう? お砂糖、幾らかあるから、もってって。お母さんにいうたら、お国の為に子どもをうんでくれる婦人は立派やから、さしあげなさいっていうてくれたから」
「ありがとう」
蕗が感激して礼をいうと、かよはまた、おっとりと笑う。これで、みのりにあげるものができた。武則も喜んでくれるだろうと思うと、蕗は自然と微笑んでいる。
ちらりと振り返ると、母が洗濯ものを干していた。