いすまお〜愛するお椅子と離れたくない魔王様
来るべき麗しの挿絵が開放される日の為に。
→挿絵解放されましたのでタグつけました。
濁った紫色の硝子障子の向こうには、腐臭と毒が漂う呪われた森が広がっている。瘴気を糧に生きる者どもが、窓を叩いてはこの城の住人を呼びに来る。ここは魔王城の三階。だがそんなことは、多くの魔物どもにとって問題ではないのだ。
「魔王様!大変です!」
「魔王様!おでまし下さい!」
言葉を話す魔物どもは口々に訴える。話せない者どもは、音を立てたり悲鳴のような声を上げたりして魔王様の気を引こうとする。
魔王様は不満そうにそっぽを向いて、お気に入りのお椅子にだらしなく埋もれている。ちょうど良い曲線の肘掛けに腕を預け、座り心地の良い座面に沈む。片脚を膝に乗せて組み、背中は高い背面に寄りかかる。血のように赤いビロードに、紫色の唐草模様が織り出されている背もたれだ。
「えい、やかましい」
魔王様は物憂げに人差し指を上げる。長く黒い爪は三角に尖り、紫色の硝子障子を貫いてしまう。
「んぎゃあ!危ない!さすが魔王さま」
「なんと恐ろしい!さすが魔王様」
外の連中は恐怖と歓喜の悲鳴をあげる。
「なんだ、ますます煩くなった」
魔王様は、夜より黒い長髪をサラリと払って唸る。その時、耳のそばから厳しく低い女性の声が上がった。
「魔王様!」
魔王様はたじろいだ。
「な、なんだ」
「配下のものの言葉も聞かず、なんと怠惰なことでしょう」
魔王様のお口がグーっとへの字に曲がる。
「悪徳こそ素晴らしき魔の証」
魔王様は威厳を見せる。
「さりとて、雑魚どものあの騒ぎよう」
声はハラハラと窓の外を気遣う様子。
「捨ておけ」
魔王様の切れ長な眼は、優しく妖しい渇望の灯を点す。視線の先は背もたれだ。魔王は長い爪でそっとビロードの毛並みを引っ掻く。
「魔王様ッ」
背もたれから何処か嬉し気な声が出た。魔王様はまた毛並みを引っ掻く。
「それ」
「ダメですよ!そんな事なすってらっしゃる場合じゃあ、ございませんわ!」
今度は厳しい声に戻る。魔王様は叱られた子供のように背中を丸めた。
「うっ、でも」
「ほら、お話聞いてらっしゃい!」
「あいつら、お椅子ちゃんとの大事な時間を邪魔するなど許せん」
魔王様は、美しく細い黒眉を寄せてご機嫌斜め。
「火急の用です!直訴に来るなど」
お椅子は柔らかなビロードを全て針に変えて叱る。
「いてっ!ひでぇよお椅子ちゃん」
「雑魚どもを使って呪いの森を治める姿は素敵ですわ」
魔王様の怠そうな瞳に、ボッとやる気の炎が燃え立つ。
「本当か?」
「ええ」
「俺、カッコイイ?」
「カッコイイですわ」
魔王様は途端に髪を撫でつけて、ずり落ちていた真っ黒なマントを引っ張り上げる。
身なりを整えた魔王様は、手も上げずに魔法の力で硝子障子をカラリと開けた。
「お前たち、何事だ」
先程までのぐにゃぐにゃは何処へやら、シャキンと背筋を伸ばして声を張り上げる。
「ふふっ、麗しいお声ですこと」
背もたれからの褒め言葉に、魔法様はふるりと肩をゆする。
「魔王様ッ!」
「早く申せ」
「勇者が攻めて来ました!」
「何と?」
「勇者です!」
キョトンとして問い返す魔王様に、押し寄せた魔物達は繰り返し告げる。
「あら、勇者ですって?身の程知らずね」
お椅子は凄みのある声で呟く。魔王様はきゅんとして、思わず肘掛けを撫でた。お椅子は毛並みを柔らかにして応えた。
「魔王様ッ!ご命令を!」
「魔王様!いちゃついてる場合じゃありませんよ!」
外の魔物どもが苛立った。
「ねぇ、魔王様?」
「何だいお椅子ちゃん」
お椅子は艶っぽい声を出し、座面の毛足で魔王を撫でる。魔王様はゾクリと冷や汗をかき、同時に胸は高鳴った。
「勇者なんか、軽く一捻りになさるわよね?」
「ああっ!もちろんだとも!」
魔王様は、青白い頬に青紫色をした魔なる血潮を巡らせて、高揚した気分を表す。
「じゃ、行って」
「うん!」
「ほら早く」
「行くよ!」
「立ち上がって?」
「立ちあがるさ」
「魔王様?」
しかし魔王は、ぐずぐずとお椅子の肘掛けを撫でながら動こうとしない。
「魔王様!」
「分かった」
「魔王様ご命令を!」
「よし」
「魔王様!勇者が森の中ほどまで来ております」
「生意気な」
「魔王様どうか」
「案ずるでない」
「魔王様、ご出陣を!」
「出撃しよう」
外の魔物どもが必死の形相で頼み込む。けれども魔王は口ばかりで腰を上げない。お椅子はどす黒い霧を漂わせて、毛足を全て針に変える。
「イタタタ!お椅子ちゃん、痛いったら」
「魔王様!勇者などに大きな顔をさせてよろしいの?」
「させないよぅ」
「では早く、ご処理なさって?」
「今出かけるったら」
「まずはお立ちなされては?」
「すぐ立ち上がるよ」
「ほら、ぐずぐずしない」
「あっ熱っ」
お椅子はしゅしゅしゅっと毛足を動かして、摩擦熱を作ったようだ。
「魔王様のお強いお姿、拝見致したいですわ」
飴と鞭戦法だ。甘い声で煽てられ、魔王様はとうとう重い腰を上げた。
「お椅子ちゃぁん」
魔王様は、立ち上がったかと思ったら、すぐにくるりと体を回す。毒と呪いと罠だらけの床に膝をつき、頬をお椅子の座面につけた。
「何をなされておいでです?」
お椅子ちゃんはまた、凄みのある艶やかな声を出す。ビクリとした魔王様は、ヒャッと顔を離して背もたれを見つめる。背もたれの毛並みが一瞬ぐるりと波打った。
「お椅子ちゃん」
「お出かけなされないの?」
「分かったよぉ」
「さあ、魔王様のお力を存分にお示しになって」
「うん、行ってくる」
「ほら、ほら、早く」
魔王様は長い爪のある骨張った指をきれいに揃えて、光沢のあるビロードの座面に載せた。
「勇者を始末する間に、浮気しちゃダメだよ?」
「するもんですか」
「ほんとに?」
「信じてはくださらないの?」
「だって、ここは呪いの森だよ?」
「うふふ、そうよ?」
お椅子の纏うどす黒い霧が濃くなった。魔王様は嬉しそうに顔を青くする。
「ああ!俺を愛の呪いで縛り付けてくれるのだな」
「チャッとお片付けなさって、ね?」
またお椅子にベタッとはりつこうとする魔王様は、うんと甘い囁きに懐柔される。
「うん、片付けてしまうよ!すぐだよ」
「そうでしょうとも」
外の魔物もどんどん騒がしくなる。
「魔王様ぁー」
「何だ」
「ああっ、勇者がもう見えている」
「うるさいな」
「せめて攻撃の許可を!」
「好きにせよ」
「ありがたき幸せ!」
魔物どもは嬉々として地面に向かう。勇者はもうそこまで来ているのだ。呪いの森に立ち込める濁った緑色の空気や、毒を含んだ灰紫色の濃霧を、白金の光がつんざく。
「ぎゃー」
「浄化されるぅ」
「魔王さまぁー」
「魔王様!魔王様!」
「えい、情けない。者ども!総攻撃だ!」
「うふふ、ご立派」
「立派だろ?」
「さあ、魔王様の偉大さを見せつけておやりなさいな」
眼下の森では、魔物どもが次々に消えて行く。このままでは全滅だ。魔王城では、あちこちの窓から魔王軍の精鋭が飛び出した。お椅子にハッパをかけられて、魔王様は漸く開け放たれた窓辺に立った。
魔王様は、なおもチラリとお椅子を振り返る。
「ご武運を」
愛の篭った声を聞き、魔王はフッとため息をつく。
「仕方ねぇなぁ」
面倒そうに両手を上げて、魔王は真っ黒な爪を森に向けた。
彼は魔王である。
呪いはたちまち森を襲う。魔物どもは活力を得て、ひとり豪胆に刃を振るう勇者は、呆気なく腐り崩れた。
彼は、魔王だ。
並外れた呪いの力をその身に宿し、朽ち果てた木々と死骸の混沌から生まれた。身内に燻る怒りと怠惰を持て余し、奇妙に曲がりくねった倒木に寄りかかって毒を降らせた。
彼は、魔王なのだ。
ドロドロとしたぬかるみの中で、ぼんやり寝そべり呪いを撒き散らしながら微睡んでいた。そんなある日、嵐に乗って呪われた椅子が飛んできた。
それは、出来たばかりの立派な肘掛け椅子だった。仕上げた職人が強盗に殺され、その血と恨みが染み込んだのだ。魔王様は、恋をした。一目惚れだった。
「なんと優雅な曲線を描く肘掛けだ!その煽情的な血赤のビロード、傲慢に伸びた高い背もたれ。豪奢な彫りで驕り高ぶる重厚な脚、裏面も背面も抜かりなく飾る尊大さ。色を含んだ紫色の唐草模様には、誘われずにはいられない。されどまた、その冷たい佇まいで、たやすく着席を許さない恐ろしさが素晴らしい」
魔王様は、称賛のあまり立ち上がる。
「うふふ、可愛いのね」
血のように赤い椅子は、激しい風の中でバランスをとりながら言った。その深く色っぽい声音に、魔王様の心は溶けてしまった。
「ねえ、座ってみない?」
「えっ、でも」
余裕たっぷり勧誘するお椅子に、魔王様はもじもじと躊躇する。
「しゃんとなさいな。あたくしを呪ってみなさい」
「でも、お椅子ちゃん、君はもうずいぶんと強い呪いにかかっているようだけど」
「あなたなら、あたくしの呪いを、もっと強めることもお出来になってよ」
「そうかな?」
「ええ、そのおぞましさ。なんて素敵なのでしょう」
「でも、俺まだ角も生えない幼体だし」
魔王様は、面倒臭くて角を生やす努力をしなかったことを後悔した。生まれ持った呪いだけで周囲の魔物を従えてきた。従えると言っても、攻撃させないだけである。特に何事かをさせたわけではない。何もかも、消極的で自堕落な魔王様だった。
「角が欲しいの?」
お椅子の声は魅惑的だった。
「欲しい」
「楽に生やしたいの?」
「勿論さ」
「いいわ。さあ、お座り」
角は、強い魔物の象徴である。努力せずに角が得られるなら、そんなに良いことはない。
「ありがとう。美しいお椅子ちゃん」
魔王様はいそいそと座る。毒々しい黄色や緑のモヤが立ち昇り、魔王様は頭を押さえる。額に皺がより、苦しそうに目を瞑る。
「うぅ」
「まあ、ご立派なお角が」
「おお、生え切ったか」
「ええ、断末魔にのたうち回る枯れ木のように、ひねくれた角が、あくどく2本」
「ありがとう、君のおかげだ」
「じゃあ、お礼を頂ける?」
お椅子はずるそうな甘え声を出す。角が生えたばかりの魔王は、ニヤリと笑う。
「礼だと?この俺から何かを得るつもりか?」
「ふふ、素敵よ、あたくしの高慢な魔王様」
「はぐらかすな」
「さあ、今すぐあたくしにふさわしい、荘厳な魔王城をお建てなさいな?」
「俺に指図するか」
愉快そうな魔王様に、重ねてお椅子は高飛車に言い募る。
「もっと呪いに満ちた森にしたくはないの?」
「面倒臭い」
「何を仰いますの?魔王城で、あたくしに座すだけでよろしくてよ?」
「なに、本当か?」
「うふふ」
お椅子は、既にだらしなく姿勢を崩した魔王様の頭を、極上のビロードでフワリと撫でる。
「さ、お城を」
「よし、すぐに建てよう!」
それからというもの、呪われた森の奥深く、魔王城は黒々と薄気味悪く建つ。その3階の一角に、数段の階段を経て至るステージがある。そこには怠惰な魔王様がその身を預ける、赤々と毒気を放つ玉座がひとつ、据えられている。