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三題噺㉑とある掃除婦の話

作者: 嘆木鳩

私は今、絶望の淵にいた。

未来のことを考えるのが憂鬱で、かといって今の状態でい続けるのもしんどくて、過去の自分を呪うことしかできない状態になっていた。夕日が落ちて、空が闇に染まるたびに、私はどうしようもない悲しさと恐怖に襲われる。そんな日々が続いていた。

何故私がこのような状態になったのか、少しだけ思い返そうと思う。

私の名前は、モイラという。とある屋敷で掃除婦をしているものだ。早くに両親が死に、お金がなくて路地裏で生活をしていたところ、偶然この屋敷の主人に拾われた。仕事を覚えるのは苦手だったが、拾ってくれた主人への感謝の念と、仕事が出来て生きていけるという喜びから、ここまで一生延命頑張ってきた。

けれど、先日私は、大きなミスをしてしまった。主人の寝室を掃除していた時に、私は不注意で主人の大切にしていた盾を割ってしまったのだ。私は先輩から聞いていて、その盾の存在は知っていた。なんでもその盾は、主人のご先祖様が使っていたものであったそうだ。ご先祖様はこのあたりでは英雄として語り継がれている存在で、先祖代々、大事に大事に受け継がれていった代物なのだそうだ。そんな大事なものを私は壊してしまったのだ。

当然先輩には激しく叱られた。主人の妻からも叱責を受けた。だが、主人だけは私に何も言はなかった。もともと主人は口数が多いわけではなく、さらにはとても忙しい身の上のため、私にかまう暇がないということはわかっていた。けれど、それが逆に私の心を締め付けた。いっそクビにしてもらった方がよかったとさえ思った。しかし、何故かクビを言い渡されることはなく、そのまま数日が過ぎていった。

そんなあるとき、私は聞いてしまったのだ。

日が傾き始めたころ。私は主人の書斎の前を通った。その時、主人の書斎から話し声が聞こえてきた。仕事の電話が聞こえてくるのはいつものことだが、先日の件もあり、申し訳なさでいっぱいになりながら、廊下の清掃をしていた。すると、書斎からこのような声が聞こえてきた。

「1週間後……見世物……モイラ……。」

私は驚いた。書斎の中の音は扉を隔てているためすべて聞こえるわけではないが、明らかに私の名前が聞こえてきたのだ。私は思わず主人の扉の前で耳をそば立たせた。しかしそれ以降はほとんど相槌で終わってしまい、それ以上何かを聞きとることはできなかった。

けれど私には、最悪の想像が頭を駆け巡っていた。

私の名前。先日の大きなミス。それに、一緒に聞こえてきた。見世物という単語。

私は、なんとなく思った。私はおそらく、見世物小屋に売り飛ばされてしまうのだ。

私がここにいるのは、あくまでも主人の厚意によるものだ。私に価値がないと判断されたのであれば、売り飛ばされてしまっても文句は言えない。先祖代々伝わる大切なものを壊すという取り返しのつかないミスも犯してしまっているのだ。この結末は当然のものだと思った。

夕日が沈んでいく。この館で見るこの景色は好きだ。けれどこの夕日をここで見ることが出来るのも、あと1週間。そう考えるだけ私の胸は苦しくなった。いっそ死んでしまった方がいいのではないかという絶望感に支配された。けれど、これは私のミスが招いたものだ。受け入れなければならないものだ。ならばあと1週間、せめて恩を返せるように頑張ろう。そう心を奮い立たそうとするもうまくいかず、その日から毎晩、私は枕を濡らした。


あれから1週間が経過し、ついにその日がやってきた。

私は、主人に呼び出された。今からともに出かけるといわれた。覚悟は決まっていた。

主人は私にあたらしい服を与えてくれた。売り先に少しでもよく見せるためのものなのか、それとも最後のプレゼントなのか。後者だといいなと思いながら、袖に腕を通した。

その数十分後、私は主人とともに、見世物小屋の前にいた。

主人が自身の分と私の分のチケットを用意してくれた。てっきりこのまま支配人的な人と話をするのかと思っていたが、先に私の次の職場を見せてくれるようだ。

見世物という単語から何となく悪い印象を持っていたが、どうやら中は普通のサーカスのようだった。客席は大勢の観客でにぎわっており、始まりを今か今かと待ち構えている。私もこんなことを思ってはいけないと思いつつも、密かにワクワクしてしまっていた。。

数分の間をおいて、ついに演目がスタートした。派手な衣装の演者や、恐ろしくもかわいい動物たち。そして何より驚くべき曲芸の数々。光と音も相まって、まるで異世界に来てしまったかの光景。司会の女性が閉幕の挨拶をするまで、時間が経つのを忘れてしまっていた。それほどまでに、私は我を忘れて見とれてしまっていたのだ。

演目がすべて終わり、客がまばらに帰り始めるころ、私はこれが主人との最後であることを思い出した。その絶望感が今までの光を闇に塗り替えていく感覚。私は席から立ち上がれずにいた。一人、また一人と観客が出ていき、最後には私たちだけになった。しんと静まり返る場内。ついに主人が立ち上がる。そして口を開こうとする。そんな時間さえも長く感じる。いやだ、口を開かないでほしい、そこから先は聞きたくない。けれど無情にも、主人からその言葉は発せられた。


「それじゃあ、そろそろ帰ろうか」


一瞬、私は耳を疑った。帰るといったのだろうか?どこに?あのお屋敷に?

「当たり前だろう。あそこ以外にどこに帰るんだ?」

主人が私の問いに、そのように言ってくる。

私は思い切って、訪ねてみた。私が今まで悩んでいたことを。私が帰る場所のことを。

主人はやや申し訳なさそうな顔をして続ける。

「君がそのように悩んでいることに気が付けなかった。君がミスを犯して落ち込んでいると知って、どうにか元気づけようと思ってここに来たんだが、どうやらそれが仇となってしまったようだ。申し訳ない。」

主人が私に頭を下げる。何故、主人が謝るのか。私は、先祖代々受け継がれてきたものを壊したのだ。屋敷を出ていかざるを得ないような大きなミスを、犯してしまったのに。

「確かにあの盾は、先祖代々大切にしていた物だ。それが壊れてしまったのは残念だ。けれど、形あるものはいつか壊れる。あれはいわば寿命だったのだ。仕方のないことだ。それで君を厄介払いするなんてとんでもない。先祖代々受け継がれた物より、今の家族の方が大切だと私は思うよ。」

家族。

主人がさらりと言ったその単語が、私の心に突き刺さった。

私は、ただの掃除婦。主人の厚意と気まぐれで雇われた、ただの替えの利く存在でしかない。そう思っていた。主人はそんな私を、家族と思っていたのだ。

私は泣き崩れた。主人がそんな私を見てオロオロとしていた。主人を困らせていると思いながらも、しばらく立ち上がることが出来なかった。

外に出ると、夕焼けで空が赤く染まっていた。空が徐々に闇に染まっていく。それを恐怖に感じることは、もうなくなっていた。この景色をもう一度好きだといえる。その喜びをかみしめながら、私は主人とともに、帰るべき家へと足を向けたのだった。


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