表情筋と抑揚の問題
翌朝支度を手伝いにきた昨日と同じ侍女はミレイアの着替えをしながら聞く。
「猫ちゃんの名前は決まりましたか?」
「ええ、カミニャンよ」
「カミ……ニャン?」
「そうよ」
侍女は名前のセンスがないと思いながらも話を続ける。
「カミニャン様のお食事を用意しております」
「早いのね。ありがとう」
「いえ。いつものお部屋に用意してございます」
「え?私が食事をしている部屋?」
「はい。これで寂しくないですね」
「寂しい?」
昨日ミレイアの笑顔を見た侍女は侍女仲間や侍女長に話をした。侍女長はミレイアも公爵令嬢といえどまだ7才、寂しい思いをしているのだろうと考えた。そしてレアンドロに働きかけた結果がこれだ。
ミレイアはよくわからないながらも支度が終わってからカミニャンを腕に抱きながら部屋を移動した。
広い部屋に長い長方形のテーブル。いつもこの部屋で1人で食事をしていたミレイアの後ろでカミニャンも食事をする。このいつもと違う状況にミレイアは初め少し戸惑う。
『さすが公爵家。美味しい魚です』
食事を始めてすぐミレイアの頭の中に声が聞こえてきた。
『ああ、私です。意識すれば口に出さなくとも会話ができるようにしました』
カミニャンの言葉に納得したミレイアは言う通りに頭の中で意識する。
『カミニャン、貴方はこんなこともできるのね』
『神の使いですから』
『その魚美味しいの?』
『美味しいですね。私は猫ですから普通に食事をします。選り好みはしませんがこちらの魚はなかなかに美味です。貴方の食事も素晴らしいものなのでしょう』
『そうなのかしら。あまり考えたことがなかったわ』
『そうですか。もったいないですね。食事は人の楽しみの1つと言いますのに』
『猫で神の使いの貴方が人間の楽しみがわかるの?』
『私は猫として千年人間を見てきたのです。人間のことはある程度理解しているつもりですよ』
『そういうものなの』
頭の中とはいえ誰かと会話しながら食事をするという初めての行為にミレイアは心が温まるような気がした。
部屋の中で待機していた侍女や護衛はミレイアが嬉しそうに食事をする様子を見て驚いていた。そして今までミレイアのことを避けていたことを反省するのだった。
食事を終えて部屋に戻ると家庭教師が来る前に乙女ゲームのことを聞くことにしたミレイア。
「さて、それでは聞かせてもらうわ。ゲームのことを知れば何か対策が考えられるかもしれないもの」
「わかりました」
「昨日の話を聞いて思ったのだけど、お母様はお父様と王妃様の仲を疑っていたのでしょう?ということは王妃様のことを嫌っているのよね。それなのに王妃様と国王陛下の息子である殿下と私をなぜ婚約させたのかしら」
「貴方の魔力は同世代の少女たちの中で群を抜いています。現段階でということですが」
「ゲームの段階ではヒロインが私より上になるのね」
「そうです。そもそも王家が決めた決定を公爵夫人が断ることはできません。断れるとしたら公爵であるレアンドロでしょうけどレアンドロと国王は幼い時から国の歴史上でも稀な仲の良い兄弟でしたから断ることはないでしょうね」
アスタリア王国はここ数年平和な国であるがそれまでは戦争も多くあった。特に王位継承権を巡る内戦は毎回起こり先代の国王は3人の兄弟で王位継承権を争い多くの血が流れた。
今の国王は毅然として容赦なく切り捨てるべき時は切り捨てるような人物。弟レアンドロは穏やかで心優しい性格。正反対といえる2人だったがお互いにしかわかりえないこともある。レアンドロは仕事上では普段の性格はなりを潜め兄を支えてきた。
「なるほど。それで、乙女ゲームは具体的にはどのようなストーリーなの?」
「おや?婚約者のことはもうよろしいのですか?」
「ええ。未来の自分が殿下に一目惚れして豹変すると聞いても今の私はなんとも思わないもの」
「そうですか。では乙女ゲームのストーリーについて話すことにしましょう。昨日も説明しましたが乙女ゲームは選択によっていくつものルートが存在します。テオドールを含めたヒロインの恋愛の相手になる男性たちは全員で4人。テオドールの他には宰相の息子、魔法局局長の息子、騎士団長の息子です」
「この国の重要な役職についている人たちの子息たちね」
魔法を扱うこの世界では魔法局が重要な役割をしている。この国で一番の魔法の第一人者が魔法局の局長だ。騎士団長が率いる騎士たちは魔法と剣を使って戦うが魔法局では魔法を制御したり高めたりする方法を始めとした研究や生まれた子供の魔法の検査をするのが仕事だ。騎士団も魔法局もこの国の要なのだ。
宰相は政治の要。現在はレアンドロが国王補佐官長という役職について国のすべての事柄に関わり魔法局局長や騎士団長、宰相と国王の間に位置している。
「この国の学園は15才で入学し17才の年に卒業します。ゲーム開始は10年後、ヒロインのサラが16才の時で2学年に編入してきます。貴方とテオドール、騎士団長の息子、宰相の息子が3学年の時で魔法局局長の息子はサラと同学年です。サラは15才の時に急遽男爵家の養子になりました。優秀ですぐ魔法の制御も覚え勉強も覚えましたが貴族のマナーについてはあまりでした。元々平民としての過ごしていたので貴族の生活には慣れることができないまま編入してきました。そこで出会ったのが先程の4人。慣れない生活の中で努力しながらも彼らと愛を育むというストーリーです。その恋を阻むのが悪役令嬢です。テオドールと恋をするルート、攻略というのですが、テオドールを攻略しようとすると悪役令嬢になるのが貴方でそれ以外の攻略対象者ルートではそれぞれの婚約者が悪役令嬢になります」
「あら?昨日の話だと悪役令嬢は私だけなのかと思っていたわ」
「このゲームには逆ハーというものがあり、4人全員に愛されるようにできます。この場合は全員の婚約者が悪役令嬢ということになりますがその頂点に立つのが貴方です。身分も成績もトップクラスですから必然的にそうなります。サラは誰からも愛されるヒロインになりたいと言っていました。つまり逆ハーを狙ってくるということです。なので貴方が悪役令嬢として立ちはだかるのだと判断しました」
「そうなのね。ところでそのゲームは逆ハーでもそうでなくても最後はどうなるの?殿下にも他の人たちにも婚約者がいるのよね」
「悪役令嬢はサラが編入してから、嫌がらせを始めサラが婚約者たちと親しくなるとその嫌がらせが悪化してきます。悪役令嬢は婚約者から嫌われていき最終的に婚約者から婚約破棄と断罪をされます。逆ハーのエンドも婚約者たちが断罪されるのは変わりません。テオドールと結婚して他の攻略対象者は他の令嬢と結婚し跡継ぎを作りますが生涯サラを愛します」
「まあ……政略結婚を破棄して断罪?そんなことができるのかしら。サラを愛人や第二夫人にするのでは駄目だったの?」
「攻略対象者たちは愛に目覚めるのです」
「愛に目覚める……」
「真実の愛を知った攻略対象者たちは自身の婚約者からいじめられるサラを守りサラだけを愛するのですよ。そういうストーリーです。小説を読むことはありますか?フィクションですから実際には難しいことでもできてしまうのですよ」
真実の愛というのは貴族間の親が決めた政略結婚を覆すものなのかと思ったミレイアはカミニャンのフィクションという言葉に納得した。
「私も小説は読むわ。架空のお話だものね。理解したわ。でもだからこそ現実でフィクションと同じことが起こるというのは不思議よね」
「そのための魅了魔法なのでしょう。魅了にかかったものたちは謂わばサラの言いなりです。社会の理など気にせずサラの望むことをしています」
「厄介ね。その魅了魔法に対抗できるものがないと。それに関してはまた今度考えるとして、その乙女ゲームで私や他の婚約者たちがするという嫌がらせはどんなものなのかしら。断罪とはどうなるの?」
「マナーがなっていないことによる指導といったものですね。この国では幼少期に貴族に養子に入りますが元々貴族である者たちと彼らとの差はあります。元平民風情がという嘲りは昔から顕著に見られます。そもそも1年のうちに平民で養子に入るような人は1人か2人、0人の年もよくあり魔力が高くても男爵子爵家に入るのが常ですからね。上位貴族から見れば男爵子爵というだけで見下しの対象になります。サラの場合は養子になったばかりでマナーもなっていないということで注意をされます。貴方に絞ってお話ししますね」
テオドールに一目惚れしたミレイアは母のようにテオドールへ執着する。ただ母のような激情型とは相反する形で。成績も良く魔力も強く容姿も優れた隙のない令嬢ミレイアは他の令嬢たちのように身分が下の者たちを嘲るという感情はない。
ただ目についたことに関して常識の範囲で注意するというのはどの身分の者に対しても平等であった。サラに対しても初めは一般的な注意をした。だが無表情で倫理的に指摘されるというのは恐ろしく感じるものでサラは萎縮してしまう。
それを聞いたテオドールは偶然出会ったサラに一声かけたのだった。というのもテオドールもミレイアのことを苦手に思っていたからだ。ミレイアの執着はテオドールには微塵も伝わっていなかった。
テオドールは気が優しく、叔父であるレアンドロに似た性格をしていた。気弱と取れる発言にミレイアは励ますつもりで国王のように立派な大人になれというように言ったりしていた。テオドールにとってミレイアは自分より優秀で色々な意味で強くて隙のない人であった。
そこまで聞いたミレイアはテオドールに執着すると聞いた時はありえないと感じていたがこの話を聞いてそんな未来ならそれなりに想像できると感じた。
テオドールがサラを励ましたことがきっかけで2人の距離が縮まっていった。それを知ったミレイアは嫉妬するようになり表情は変わらなくとも徐々に母のように魔力を暴走させるようになった。そして遂に炎で殺人未遂という事件を起こし断罪。生涯幽閉されることになったのだ。
「というのがおおまかな流れです。逆ハーということで貴方以外の婚約者たちはまた別の角度からいじめをすることになるのですが」
「ストーリーの流れは理解したわ。彼女たちの話はまた今度に」
「冷静ですね」
ミレイアはこれから起こりうる未来を聞いても冷静だった。
「ええ。その未来を回避するために今から行動するのだしそれを聞いて何も対策を練らないほど愚かではないわ。試しにご飯を美味しいと感じるように意識をしてみようかしら」
「ほう。そうですね、貴方が能面のような表情と淡々とした喋り方をやめればテオドールも貴方を苦手と思わないかもしれません」
「なるほど、表情筋と抑揚の問題ね。今日の勉強の時に教えてもらいましょうか」
カミニャンは名付けのセンスといいミレイアは少しズレていると感じるのだった。
そんなこんなで家庭教師がやってきて勉強の時間になった。カミニャンはミレイアの足元で丸くなっている。
「先生、今日は教えていただきたいことがあるのです」
家庭教師は驚いた。猫がいるのにも驚いたがいつも聞いたことにだけ答え考えを述べるだけのミレイアが自ら口を開いたからだ。
「あ、はい、それでは本日の授業はお嬢様のお知りになりたいことを中心に行っていきましょうか」
「カリキュラムの変更をさせてしまってすみません」
「い、いえ!!とんでもございません」
家庭教師、ヴィクトルは侯爵家の出身の次男で20代という若さで優秀さをかわれミレイアの家庭教師を任されていた。年下の公爵夫人のことは学生時代から知っており、今日もミレイアの部屋に来る前にマイアの怒鳴り声とマイアの魔法火の粉が部屋の外に飛び出てきて危うく火傷をするところだった彼はミレイアのことも恐れていた。
びくびくしすぎのヴィクトルをミレイアは特に気にせず話を続ける。
「では表情筋の動かし方と抑揚のある喋り方をする方法について知りたいのですが」
「……はい?」
「ですから表情筋の動かし方と抑揚のある喋り方をする方法について知りたいのですが」
「す、すみません」
「私怒ってるわけではありませんのでそこまで謝らなくても結構です」
『貴方も厄介な人ですね。横暴な貴族の中には同じことを二度言わせないでと怒る人もいるのです』
ミレイアの頭にカミニャンの声が届く。
『そうなのね。知らなかったわ。でもここまで怯えなくても。私何もしてないのに』
『貴方のその淡々とした喋り方は人を萎縮させると自覚を持った方が良いですね』
『わかったわ』
「怖がらせてしまったことは謝ります。ですが私は怒っているわけではありません。こういった誤解を無くすために学びたいのです」
ヴィクトルは動揺しつつも平常心を取り戻す。
「わかりました。恐れながら、申し上げてもよろしいでしょうか」
「先生は私の先生です。何を言われても素直に受け止め決して怒ることはないと誓います」
元々聡明なヴィクトルは深呼吸してからミレイアのことを考える。ミレイアが5つの時から自分は怯えていたがミレイア自身は母のように激昂することなく静かで大人しく優秀な生徒であったと。ヴィクトルはミレイアを恐れるのを止め、ミレイアが望んでいることを理解し教えるべきことを考える。
「それではいきます。お嬢様は感情の起伏がなく感情に乏しいところがありますがまったくないということはなくむしろ私を気遣ってくださる優しさをお持ちです。まずはお嬢様にそうした自覚はありますか?」
「先生、私は自分が喜怒哀楽を始めとした感情に乏しいことは自覚しています。ですがそれは今の話と関係があるのでしょうか」
「嬉しい時に笑う、悲しい時に泣く、表情と感情は切り離せないものです。話し方もそうですね。表情筋を動かすマッサージというものもありますが根本的な問題を克服するべきと判断しました」
「なるほど、よくわかりました」
「はい、それでは……その猫」
「猫?カミニャンがどうしたのです?」
ヴィクトルは丸くなりながら話を聞いていたカミニャンを指差して言う。
「昨日まではいなかったですね」
「昨日の夜から飼い始めました。カミニャンです」
「カミニャン……」
名前のセンス……と思いながらヴィクトルはカミニャンを抱き上げる。
「アニマルセラピーというものがあります。可愛い動物に癒されて心を落ち着かせたり感情表現の回復などにも効果が見られるものです」
「そのようなものがあるのですね」
この猫は普通の猫ではなく神の使いだけど効果はあるのかと疑問に思いながらもミレイアは話を聞く。
「撫でるだけでも効果があります」
「にゃー」
普通の猫としてゴロゴロと言い出したカミニャンを見て自然と笑みが溢れるミレイア。
『さすが普通の猫のふりが得意ね』
『ですから私は初めから猫なのですって』
「お嬢様、表情が出ていらっしゃいますよ。その調子です」
「え?恐らくそういった意味ではなく」
ヴィクトルは初めて見たミレイアの微笑みに驚きながらもすかさずカミニャンをミレイアに渡す。
ミレイアは反論しながらも膝の上にカミニャンを乗せて撫でる。
「けどなんだか気持ちが安らぐような気はします」
「にゃーん」
「それがアニマルセラピーです。一緒に遊んでみたりしても良いかもしれませんね」
「遊ぶ……」
『神の使いの貴方にそんなことしていいのかしら』
『結構ですよ。私は猫ですから』
実家で猫を飼っていたヴィクトルは猫との遊びやそもそもの猫の飼い方までミレイアに教えてその日の授業は終わったのだった。