神の使いという猫との出会い
ここはアスタリア王国の王都にあるオルガン公爵家。アスタリア王国では女性が爵位を継ぐことはなく女児しか生まれなかった場合親戚から養子にとるか他の家の次男や三男を娘の婿にしてその男に爵位を継がせる。
現在のオルガン公爵はアスタリアの若き国王の弟だ。レアンドロ・オルガン。8年前に結婚を機に婚約者の家に婿入りした彼は2才上の兄、現国王の政権を支える優秀な家臣となった。
そんなオルガン公爵家ではこの日1人娘のミレイアが普段と変わらない誕生日を過ごしていた。
7才の誕生日を直接祝ったのは侍女や護衛。5才から家庭教師から教わっている勉強をいつもと変わらずこなし、夕食を1人で食べて自室に戻ってきたところだ。
「にゃーん」
「……猫?」
窓辺に黒い猫がいた。燃えるような赤い髪にルビーのような瞳を持つ少女は人形のような表情を変えないままその猫に近付く。
「初めまして、私は神の使いです」
「……」
ミレイアは表情を変えないまま辺りを見渡す。
「私です。この猫ですよ」
「……猫が喋った」
「そうです。私は神の使いなのです」
普通の人なら驚き、疑わずにはいられないであろうこの状況でもミレイアは受け入れていた。
「神の使いさんが私に何か用なのかしら」
「はい。さっそく本題に入りますがよろしいですか?」
「ええ」
1年のうちに数えるほどしか顔を会わせない父親と厄介な母親を持つミレイア・オルガンという少女は感情に乏しかった。
特殊な家庭環境から喜怒哀楽を感じにくい人形のような少女に育ったのだ。それでも頭が良く優秀なミレイアは荒唐無稽な話を聞く。
「まずこの世界とは別の世界がいくつも存在することを説明しておきます。この世界にある魔法がなく科学というものが発達した世界など様々な世界があります。その中の1つの世界でのことです。人には決められた寿命が定められていますがその定めに反して神のミスで死んでしまった人がいるのです。神にもその役割で複数存在するのですが神が死神に渡した死ぬ人のリストに名前を記し間違えてしまったことが理由でして。それに気付いた神は死んでしまった彼女に詫びて代わりに彼女の望む世界に転生させたのです。ですが転生した彼女はある魔法を使ってやりたい放題しはじめてしまったのです。神は定められた理を犯さないよう管理はしていますがすべてのことに干渉しないものです。しかしこのままではこの世界は破滅してしまいます。ただの破滅であれば神は何もしませんがこの先起こるであろうことは神が転生させた女が原因なので止めさせたいということになりました。この世界は転生させた女の世界で流行っていた乙女ゲームの世界です。彼女は誰からも愛されるヒロインになりたいと望んでいたのでゲームに近いことをすると思うのです。もうヒロインでなく悪役令嬢ではないかとでも言えるような状況で、どうにかするために貴方に協力をお願いしにきたのです」
ミレイアは猫の言うことを黙って聞いていたが話が一段落したところで口を開く。
「いくつか確認なのだけど、乙女ゲームとは何かしら」
「こことは別の世界にある遊戯の1つです。その世界は文明が発達していて自分が登場人物の女の子の行動を選択していくことで見目麗しい殿方たちとの恋愛を楽しむというゲームがあるのです。そのゲームの世界の舞台がこの世界というわけです」
「理解したわ。それでは悪役令嬢というのはその名の通りそのゲームで悪い役どころの令嬢ということね」
「お察しの通りです。その悪役令嬢が貴方なのです。それにしても傲慢で陰湿な悪役令嬢と聞いていましたのにどうも違うようですね」
「私をむやみやたらと当たり散らすような女と思ったら大間違いよ。そんな人に心当たりはあるけれど」
ミレイアはため息をついて猫を抱き上げるとベッドに腰かけ猫を膝に乗せる。
「何故かわからないけどお母様はいつも怒って魔法を暴走させているわ。だけどそれを見ているとこんな大人にはならないって思うの。そのゲームの私は別人なのかしら」
ミレイアは母親を反面教師にした令嬢だった。では乙女ゲームの中の悪役令嬢ミレイアとはなんなのか、とミレイアは疑問に思う。
それはミレイアが母親と同じ性質を持っていたからだ。ミレイアの母親マイアは幼い頃から第二王子の婚約者だった。第二王子に一目惚れしたマイアだったが第二王子は第一王子の婚約者と仲が良く嫉妬に狂うようになった。第二王子と結婚し公爵夫人となった今でも怒り狂ってマイアの持つ火の魔法を暴走させていた。
9才で従兄の王太子と婚約したミレイアも王子に一目惚れし執着し狂っていくことになるのだが従兄とはいえ一度も会ったことがない今の彼女はただただ優秀で感情に乏しい令嬢だった。
猫はそのことをミレイアに説明する。7才にして才女と言われていた彼女は突拍子のない神の使いという猫の話を理解した。
「なるほど。私は従兄のテオドール殿下に出会って豹変するのね。お母様のように。とても考えられないけれど」
母親の気性の荒さの理由は知らなかったミレイアは自分の父親のことを考える。
「確かにお父様は私のことに興味はなさそうだしお母様のことも迷惑がってるように思うわ。お父様は王妃様のことを慕っていたのかしら」
「さあ、どうでしょう」
「神は私にどうしろというの?」
「本来ヒロインであるはずがやりたい放題で世界を引っ掻き回しかねない彼女の抑止力になってほしいのです」
「抑止力……。私がこれからそのゲーム通りに悪役令嬢になってしまったら抑止力なんて無理だと思うけど」
「そうならないように今説明したのです」
「お母様と同じ性質なら説明されたところで問答無用でお母様のようになってしまわないかしら」
ミレイアはまるで他人事のように考える。感情に乏しいと自覚しているミレイアにとって誰かに執着するというのはとても考えにくいことだった。
「ええ、それはですね、マイアは使用人に暴力を振るい娘に関心を持たない母親と外面はよくとも権力に固執して家庭を省みていなかった父親の元で育ちました。愛されたいという欲求を歪ませてしまったのだと思います。似た環境で育つ貴方が今から両親の仲を取り持ち両親との関係を良くすれば殿下の愛を受けようと豹変することはないのではという希望的観測でお願いにきた次第です」
「私は愛されたい欲求など特に持ち合わせていないのだけど。貴族は政略結婚だし」
「人は自分でも思いもよらない感情を持っているものです」
「そういうものなのかしら。母のことはこんな大人になりたくないとは思ってはいたし、父にはほとんど会ったことはないけど2人のことを嫌ってるわけではないし仲が良くなるに越したことはないわ。それで私が殿下に会っても好きにならなければ良いということかしら。そうよ、私が悪役令嬢にならなければそこで問題は解決するの?」
「狂わなければ殿下を好きになるならないは貴方の好きにして結構ですよ。ただ問題を解決できたことにはなりません。乙女ゲームは今から10年後の世界です。件の彼女が事を起こすのはそこです」
「10年後?そんなに先の話だったの?……わからないわ。その前に彼女に接触して問題を起こすのを止めれば良いのでは?」
「今の彼女が起こしている問題を罰するのは不可能でしょう。彼女も馬鹿ではなく人間にはわからない方法で小さな問題度々を引き起こしているだけなのです」
「人間にはわからない?神だからわかるということ?」
「そうです。魅了の魔法を使っています」
「魅了?そんな魔法があるの?」
この世界の人は魔法を生まれた時から持っている。だいたいは1つしか持たないそれを2つ持つ人が名門貴族など上位貴族には比較的多く現れる。
「あります。過去には200年前にこことは別の国で現れた特殊魔法でその国は滅びました」
「滅びた?戦争で滅びたの?」
「そうです。原因はその魅了を使う女性を巡ってのことでした。2人の王子が彼女を取り合って内戦が起こりそこを侵略されて滅びました」
「そんな話聞いたことなかったわ」
「その侵略した国を取り込んだのがアンダシア帝国です。歴史の中でうやむやになりました」
アンダシア帝国は世界最大の大国だ。ミレイアは家庭教師に教わっているがまだ知らないことの方が多い。自分が聞いたことがないだけで魅了という魔法があるのかと思ったが稀少であり大国でそんなことがあったのかと思いながら話を聞いていた。
「というわけで魅了魔法は危険なものなのですがその乙女ゲームでは彼女が魅了魔法持ちだとは言われていませんしおそらくそのような設定もなかったでしょう。彼女を転生させた時に発生してしまった副産物であると思われます。乙女ゲーム上での設定では彼女は平民として生まれますが水の魔法と治癒の魔法を持っているのです。しかも検査の時には標準の強さの水魔法のみで15才の時に急激に魔力が強まり治癒魔法が発現し男爵家の養子になり王都の学園に入学してきます」
「それだけで特異ね」
魔法の基本は水、火、地、風。ほとんどの人がこのどれかの魔法を持って生まれる。二属性持ちはこの基本魔法プラス何かだ。水と地だとか基本魔法2つの場合もあれば基本魔法と他の特殊な魔法の場合がある。治癒もその1つ。ミレイアは火とシールドの魔法を持つ。
シールドは攻撃を防ぐことができる特殊魔法。基本魔法も含めて魔法の強さは訓練次第で精度が高まり強くなることもあるが元々その人が持っている魔力量は変わらない。
貴族であれば魔力量や数に関わらず学園に通うことが義務づけられているが平民は違う。この国では平民貴族問わず3才の誕生日に魔法の属性と量を測る。そこで平民が一定数以上の量を持っているとだいたいは貴族の養子になる。
学園に入る前から家庭教師から基本的な使い方と制御方法を教わり、学園ではその力を使いこなせるように訓練する。王族や上位貴族の中では専門の教師を雇い学園に入る前から訓練を始めることもあるが。
一方平民は国の各所にある教会で学び生活に多少役立たせる程度だ。15才で魔力量が増えることはありえないし2つめの魔法が発現するとはミレイアは聞いたことがなかった。
「そうです。実際の今現在の彼女は平民として標準の水魔法と魅了魔法を持っていますが魅了魔法もついこの前発現したものです。数か月前彼女を転生させた拍子に発現してしまったようで彼女もその力にすぐ気付き悪用し始めたのです」
「話に聞くだけで厄介ね。とにかく今の彼女を止めるのは無理というのはわかったわ。最後にもう1つ確認だけど、貴方が持ちかけてきたことをするにはそのゲームの世界を崩すことになるのよね。彼女が問題を起こしてるからもう壊れてるけれど」
「良いのです。この世界は乙女ゲームの世界といっても元がそうだったというだけで全く同じものではありません。この世界を生きているのは貴方たちですからね。貴方の思うように生きてください」
「ええ、わかったわ。まずとにかくお母様と、お父様のことをどうにかするわ。貴方と連絡を取りたい時はどうしたら良いかしら」
「はい?」
今まですらすらと話していた猫が首をかしげる。
「だから貴方に聞きたいことが出来た時とか彼女のことを知りたい時はどうやって貴方を呼ぶのかと聞いてるのよ」
「ああ、呼ばなくても結構です。ずっとここにいますから」
「ここ?どこ?」
「ですからここです」
そう言って猫の手がミレイアの足をトントンと叩く。
「あら……もしかして貴方ここに居座る気?」
「猫ですから問題ないでしょう」
「そもそもなぜ猫が神の使いで言葉を話してるの?」
部屋で喋る猫を見つけた時はすぐに受け入れたミレイアだったがおかしいとは思っていた。
「私は初めから猫です。もう千年程生きてます」
「猫のお化けだから人の言葉を喋れるの?」
「初めから神の使いとして猫の姿で存在しこの世界にいるのです」
「そうなの。不思議ね。では猫のふりもできるのね。それならペットとして飼えるかもしれないけど」
「猫のふりではなく猫なのですって」
ミレイアは改めて不思議な生き物だと思いながら呼び鈴を鳴らす。
すぐに侍女が部屋に来て、ミレイアはベッドに座ったまま猫を撫でながら言う。
「この猫を飼いたいの。お父様に伝えてくれる?」
侍女は猫がミレイアの膝の上に座ってる状況に戸惑っていたが了承した。
「どこから入ってきたのでしょう。迷い猫でしょうかね?」
この屋敷の侍女たちは優秀だが女主人の怒りに触れないかと怯えながら働いている。ミレイアにも一歩引いて接しているが今回ばかりは猫が気になりベッドに近づく。
「どうやって入ってきたのかはわからないけど大人しい猫よ」
「本当ですね。可愛らしい猫です」
猫はにゃーんと鳴いて自分の手を舐め始める。
普通の猫をする様子にミレイアはふっと笑う。その小さな微笑みに侍女は驚く。2年前から公爵家に仕え始めた彼女は人形のようなミレイアが笑うなど聞いたことも見たこともなかったからだ。最もミレイアが生まれてから笑顔を見せたことはないためどの使用人も見たことがないのだが。
「本当に、可愛いわね。そうだわ、名前をつけなくてはね」
「そうですね。なんという名前になさいますか?」
「そうね……あとで考えるわ」
人がいる時は人の言葉を話さず徹底して猫でいる様子を見てミレイアはあとで名前を聞くことにした。
「それでは私は急ぎシェフに餌の確認などをして参ります」
「ええ、ありがとう。お願いするわ」
はたして猫用の餌で良いのかとも思ったミレイアだったが本人が初めから猫なのだと言っていたのだから本物の猫として扱っていいのだろうと思い直した。
「あ、そうだわ」
ミレイアは父と母と仲を取り持つためにもまずは父に話を聞いてみようと思った。
「お父様は今日も帰りが遅いのかしら」
「そうですね。お嬢様がお休みになられた後に帰ってこられますよ。その猫ちゃんのことはきちんとお話ししておきます」
「あ、そうではなくて違うことで話したくて……」
普段から母親を反面教師にわがままも一切しないミレイアはこれでは父に会いたがってるみたいだと思われるのではないかと気まずい思いがした。
そんなミレイアを見て侍女は普段大人しいがいつ母親と同じようにならないかと恐れていたミレイアがただ猫を可愛がる幼い少女なのだと思い直した。
「お嬢様のお誕生日にも帰れないことを旦那様も気にしておられたようですわ。お嬢様がお会いになりたいとおっしゃっていたと聞いたらお喜びになると思います」
「気にして……?あ、えっと、会いたいとか、そういうわけでは……」
誕生日に盛大なパーティーを開くことも多い貴族もいるがミレイアの誕生日はいつもと変わらない1日だ。気にしていたと聞かされてミレイアは少し動揺する。父が自分のことを考えることがあるのかと。
侍女が嬉しそうに部屋を出ていくと手触りが思いの外良い猫を撫でながら聞く。
「貴方、本当に猫なのね。名前を聞きそびれていたけれどなんというの?」
「ですから猫なのですって。私は神の使いで名前はありません」
「名前がないの?神様から呼ばれないの?」
「呼ばれませんね。貴方がお好きにつけてください」
「そうね……神……カミノツカーイというのはどう?」
真面目な顔で言うミレイアに猫は言葉をなくす。
「駄目かしら。んー……カミニャンというのは?」
「カミニャン……」
「え、これも駄目?さっき自分でにゃーんって鳴いていたじゃない」
「……良いですそれで」
これ以上考えたところでマシな名前は出てこないと猫は早々に悟ったのだった。