樹・・・我慢する。
婆様の小さなトゲをばら撒いた言葉に、彼女は笑って答えている。
なぜ、笑えるんだ?
確かに…一つ一つは我慢できる、でも、小さいとはいえ何度も傷つけられた心は、いつまでも平気でいられずはずはないだろう。
もう…聞くな!
もう…答えるな!
もう、もう…ばら撒かれたトゲを黙って、受け入れるなよ…。
…いつか、壊れてしまう。そう…いつか心が壊れてしまう。
葉月ちゃん…
どうして…そうやって笑っていられるんだ。
唇を噛んだ俺に、婆様が
「金曜日、楽しみにしているわ。」と、俺の肩を叩いた。
それと同時に葉月ちゃんが…
「楽しみにしてます!」
「は、葉月ちゃん!」
婆様は、ゆっくりと歩き出すと…振り返り
「そう…高宮さんも楽しみにしてくれるの…」と葉月ちゃんに言うと…、俺に向かって
「樹、今日は早く上がっていいわよ。あなたも…いろいろあるでしょうから…」
と笑うと…
「野田。レストラン街の開発会社とはどうなっているの…」と、もう興味をなくしたかのように、話し始めて、駅長室へと足を動かしていた。
遠ざかる婆様と野田の姿に、俺はなぜが惨めな気分だった。仕事は…やりたい。
何のためにアメリカで、MBA(経営学修士)を取ったんだ。
溜め息と混じって出た言葉は…
「駅周辺および構内の開発は…うちの会社だったのか…」
帰国して、まだ間もないとはいえ、俺は…社会人失格だなぁ。
なにもかもに自信が奪われていくようだ。
社会人としても…
男としても…
人としても…俺は…
いや、まだだ、まだ葉月ちゃんを…守ると言うことは出来るはず…
「葉月ちゃん!」
「久住さん!!!」
えっ?!葉月ちゃんの大きな声と、思いつめた顔に、なにかを言うつもりが、圧倒されて声が出なかった。
「…」
彼女は真っ青な顔で…
「あの、あのですね。私はお金に眼が眩み、理香さんやジョセフィーヌさんが、旅行に行くと言うことを利用して、夜勤をするつもりだったのです。でも、やっぱりそんな卑怯な事はいけないと思って断るつもりが…店長、勝手にシフトに入れていたんです!」
…いや、悪いけど…だから、俺とどう関係が?
突然、彼女の意味不明な言葉に俺が戸惑っていると、ようやくわかった彼女は…ハッとした様に
「すみません!でもその事が…金曜日なんです!」
「金曜日?、金曜日に夜勤のシフトが入っているってこと?」
眼を見開き、彼女は大きく頷いた。
「理香さんやジョセフィーヌさんがいないときに…嘘をついて働く事に罪悪感を感じ、断っていたのに勝手にシフトに入れられた。」
彼女は何度も頭を振った。
「金曜日…?あぁ…そうか、だったら婆様の誘いは、仕事があるからと断れるってことだ!!」
「ち、違います!!そこは違います!!」
「えっ?!仕事があるんだから…行かなくていいから…」
「いいえ!行きます!」
「…なんで…こっちはいいから…バイトに…「バイトは…行きません!」」
「葉月ちゃん!「だって!!だって…久住さん、泣いてたじゃないですか…」」
「葉月ちゃん…」
「キスをしないのは…その人のことがあるからでしょう…好きなのに、弟さんの許婚だから…諦めようとして…」
そう言って、俺の胸にそっと触れて
「ここが痛いんでしょう。開いたままの傷口から、ただ血が流れるのを見ているだけだと…死んじゃう。心が死んじゃう。」
「葉月ちゃん…君は…」
「私は…傷を縫ってもらったの…理香さんとジョセフィ-ヌさんに…だから…こうやって、体も、そしてこころも生きている。私が行く事で、傷が癒えるとは思えないけど…でも切っ掛けにはなるでしょう。だから…行かせてください。」
血…そうか…血が流れていたから、こんなに苦しかったのか…でも…もう…
「俺は…もう、いいんだよ。俺はもう…」
そう言って、俺は微笑んだつもりだったけど…葉月ちゃんは俺の顔を見て…
「それは…笑った顔じゃないですよ。それは……」
と言って、彼女が先に涙を零した。




