世界の果ての見張り塔
気がつくと僕は、真っ白な灯台のような建物の前に立っていました。外はその建物の灯り以外真っ暗で、空には星が銀色にちかちかときらめいています。僕はきょろきょろと辺りを見回し、それからとにかくどこかへ行こうと足を一歩踏み出しました。
「危ない!」
どこからか鋭い声がします。
「何をやっているんですか。そっちは崖ですよ。落ちたらどうするんですか」
声は僕にそう話しかけます。そちらを見ると、懐中電灯を持った人影がかろうじて見えました。灯りは眩しく僕を照らし、僕が目を細めると、人影はびっくりするくらいぎょっとした声を上げました。
「……人だ」
そりゃ人に決まっている、と思いましたが、僕はぐっと我慢をしました。
「すみません、迷っちゃったみたいで」
「そりゃあ、普通にしてたらここには来ませんよね」
懐中電灯は白い建物の壁を照らしました。よく見るとドアがあります。
「中へどうぞ。暗い時間にここらを歩くのは危険ですから」
ぎい、とちょっと怪しい音を立ててドアが開きました。中へ足を踏み入れると、かちりと音がして中が明るくなります。人影が電気のスイッチを入れたのです。僕は光を見て、少しほっとしました。
「階段を上って。上に椅子と机がありますから」
人影は、年のよくわからない、帽子と眼鏡の男の人でした。
僕は螺旋というにはちょっとねじれが足りない、半円くらいの階段を上りました。白いペンキがあちこち剥げています。二階というか踊り場というか、なんだか少し頼りない作りの階にたどり着きます。確かにそこには木の椅子と机がありました。壁には大きな丸窓がいくつかあって、星がきれいに見えました。
「ここは、灯台か何かですか」
言いながら僕は、大きな灯りが少しもないことに気づきました。
「いいえ」
「じゃあ、観測所とかですか」
でも、望遠鏡もありません。
「いいえ」
「それじゃ、なんなんでしょう」
「ここはね、見張り台ですよ」
男の人は二階に上がってくるとそう言いました。
「私は見張り番」
「見張り番。何を見張ってるんですか?」
「ふたつあります。ひとつは、この土地。もうひとつは、この土地を訪れる人。例えば、あなたみたいな」
「僕?」
「そうですよ。さっき、危ない方に行きかけたでしょう。滅多にないことですから、こちらもびっくりしましたよ」
何も言えない。
「ここ、そんなに特別なところなんですか?」
崖と言っていたけど、そこが危険だからわざわざこんな建物が建てられたんだろうか。……自殺の名所、とか。少し暗い想像が浮かびます。
「特別ですとも。ここはね」
見張り番氏は、少しだけ声を落としました。
「世界の果て、なんですよ」
「世界の果て?」
僕は声が裏返るのを感じました。地理と歴史と科学の授業で、何度も地球は丸いと習いました。現に、なんだか色々なものが散らばっているこの机の上にも、丸い地球儀があります。
「地球球体説、ですね」
ふん、と見張り番氏は笑いました。
「それはもちろん正しい。でも、あるんですよ」
見張り番氏は、僕に椅子を勧めました。僕は大人しく腰掛けます。
「いわゆる物理的な存在ではありません。しかし、世界の果ては確かにここに存在しています。見てください。これが写真」
大きめに引き伸ばした、崖の写真を見せられました。その下には海も何もなく、ただ真っ暗。
「ちょっと待ってください、物理的な存在じゃないって、だってこうして崖はあるんでしょう? 落ちたら危ないんでしょう?」
そりゃそうですとも、という顔で見張り番氏は頷きました。
「それで、あなたはそこを見張ってるんでしょう? い、色々おかしいじゃないですか」「何もおかしくはありませんよ」
「おかしいでしょ。だって、じゃあ、ここはなんなんです。あなたはなんなんですか。なんであなたはそんなものを見張ってるんですか」
見張り番氏は、すいと目を細めました。
「ここは、概念の街です」
「概念」
「言葉の上での世界、と言ってもいいかもしれませんね」
「じゃあ、あなたは」
「人間ですが、物理存在の人とは多分、少し違うものです。ここに物理世界の人間が来たのは久しぶりのことで、驚きましたよ」
僕は、押し黙りました。なんだか、変なところへ来てしまったようです。
「久しぶりということは、たまにはあるんですか、こういうの」
「まあ、ありますよ。ここはともかく、街の方ではそれほど珍しくはないようです」
見張り番氏はちらりとある窓の方を見ました。あちらが街なのでしょう。どんなところなのか。
「要するにね、物理の世界で強く何かひとつの概念のことを思う、するとこちらに引き寄せられてしまうようです」
見張り番氏は眼鏡の奥から、じっと僕の顔を見つめました。
「あなた、世界の果てのことを思ったでしょう。強く強く思ったでしょう。それだから、あなたは今ここにいるんです」
僕は、深い深い崖の写真を、闇に閉ざされた窓の向こうを見て震えました。確かに思いました。世界の果て、全ての終わりの地を。
何もかも上手くいかなかったのです。学校の勉強は頭に入らず、欠席続き。部活は友人関係がこじれ、片思いしていた女の子にはひどい振られ方をしました。全部やりたくてやっていたことなのに、どんどん身動きができなくなっていきました。僕は、だから、世界の果てへと逃げることを考えました。
それは逃避でした。益体もない想像でした。でも、それがどういうわけか巡って、僕は狭い僕の部屋からここに辿り着いた。
「いかがです、世界の果てに来たご感想は」
見張り番氏が尋ねます。
「……わかんないです。ここで何をしたかったのかも、全然」
なんだかガタガタ震えながら、僕は答えました。
崖から飛び降りようとか、そういうのではなかった気がします。そんな勇気があれば、僕はとっくに手近なビルで済ませていた。そうではない。ただ、遠い遠いところに逃げて……それから先どうするのかなんて、少しも考えてはいなかったのです。僕は机に突っ伏しました。
「……あなたがどんなつもりでここにやって来たのかは存じませんが」
見張り番氏の声がします。
「まあ、顔を上げてみてはいかがですか」
僕はその言葉にゆるゆると従いました。
「夜が明けますよ」
ぱちん、とスイッチが入ったような音が聞こえました。
「えっ?」
辺りが急に白々とした光に包まれます。
一瞬のことでした。ぐるんと黒い夜が回転して、太陽が顔を出したのです。僕は窓に駆け寄り、外を見ました。明るい。そして、本物の大きな大きな崖を見ました。どこまでも深くそそり立つ、馬鹿みたいに巨大な地面を見ました。僕は見張り番氏を振り返ると、彼は少し笑って頷きました。
……そして、僕は、ゆっくりと目を開けました。ずっと目を開いていたのに、さらに開けるのはなんだか変な感じがしました。人の瞼というものは、もしかしたら二重になっているのかもしれません。物でぐちゃぐちゃになった床の上、敷きっぱなしの布団の上でした。目覚ましがじりじりと鳴っていました。
僕の部屋です。物理世界です。何事も成し遂げられなかった僕の世界です。僕は起き上がり、カーテンを閉め忘れた窓から差し込む早朝の光を睨みました。携帯をチェック。メールが一通。仲がこじれた友人からです。僕は彼にとても腹を立てていました。先ほどまでは。
「ちゃんと会って直接話そう」
そういう内容でした。僕はそれを削除しようとし、それから指を止め、そして、少し考えました。指をうろうろと逡巡させて考えた果てに、僕はなんと、いいよと返事を書いたのです。自分でもたいそう驚きました。それから、僕は顔を洗いに洗面所へと立ちました。水は少し冷たく、よく目が覚めました。
僕は、それからごそごそと着替えて外に出ました。外出は二日ぶり、朝にこんなことをするなんて何週間ぶりか。僕は当てもなくふらふらと歩き、そしてまた世界の果てと見張り番氏のことを思いました。またあちらに行ったりしないよう、ほどほどに。犬の散歩をする人とすれ違ったりしながら。
世界の果てでも、夜は明けるんだ。僕はそんなことを思いました。世界の果てでも、朝は来るんだ。ふっと笑いが漏れました。僕は、馬鹿みたいに笑いながら歩きました。少しずつ、少しずつ、心に積もった重たい物を、そこら辺に捨てていきながら。