第八章
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「で、だ」
紫苑はしかめっ面で隣の少女を見やる。
「なんで俺はお前と一緒に汗水たらしてこんな山奥にまで来なきゃいけないんだ?」
対する少女、奈美も負けず劣らずの醜悪な顔つきで隣の青年を睨んだ。
「んなことウチの方が聞きたいよ。ったく、何だってこんな奴と……」
「お前のせいだろうが。会合に参加してれば俺もさっさと町にでも下りて鉄の調達にでも回ってたのに」
「あんたがいつまでも砂浜とじゃれ合ってるからでしょ。軽く蹴飛ばしただけなのに。だらしない」
「このくそ童……」
あの痛みが女にわかるもんか、とは紫苑も言わなかったが、 地を踏みしめる二人の足取りはただただ、重い。
それは、少し前の隆道と漣の会話。
「漣。ちょっとおたくの大将を借りたいんだけど」
逆光を背にする隆道の顔が眩しく、漣はただでさえ細い目を糸のようにする。
「はい?」
「ちょっとな。奈美のやつと一緒に一働きしてもらおうと思って」
漣は船の設計図を閉じた。
隆道の話すその内容は、表向きは山に出向いて材木の調達。すでに陸奥の者が船に使う木を切り倒しているので、それを運んでくる、というだけのものだった。しかしもちろん、裏か、はたまた更にその裏あたりまでの意図があるのは漣でなくともわかることであり。
黙考した後、漣は口を開いた。
「そうですね。さしずめ涼太郎殿を焚きつける、といったところでしょうか?」
漣に合わせ、隆道も品のない笑いを浮かべる。
「そんなとこだ。あの二人、いつまで経っても進展しないし。新たな恋敵にでも登場してもらおうと思ってな。今日はリョータのやつは俺が捕まえとくからさ。んで、機を見て奈美と紫苑が二人っきりだってことを吹き込んでおくからよ」
「なるほど」
「俺相手じゃ恋敵役なんてのは務まらない。潮人に対しても渚のせいで踏ん切りつけちゃったみたいだからな」
かといって漣を動かすのは至難であり、また奈美が萎縮するのはあまりにも明らかだった。
「それに、見た目と違って漣の方がよっぽど協力してくれそうだって、風子が言うもんだから」
「風子殿も共謀なさっているんですね?」
「……また物騒な言い回しだなあ。まあその通りなんだが」
相変わらずよく見る目を持っているな、と改めて漣は嘆息を漏らす。
結局のところ紫苑は、紫舜と鯨羅のことにしか頭にはない。が、それ以外のことがまったく目に入らないという意味ではなかった。客観的に考えれば、確かに「面白いこと」にはなりそうではあった。
「本当に、食えない方ですね。風子殿は」
漣は身震いを覚えながら、造船の指揮を執るべく船へと戻っていった。
「ウチ、帰る」
業を煮やした奈美は背負った木材を投げ出し、山を降りようとした。
「待て童。お前、俺に荷物を全部持たせようっていうのか?」
「あんたこそ、女の子捕まえといて荷物持ちさせようってのがそもそも腐ってんのよ! ここまで運んでやっただけでもありがたく思えっての!」
「女の子ってガラかよ……」
呟くようにしたつもりだったが、奈美の耳には届いてしまったようだ。
「ガキ扱いするなって言ってんでしょ」
必殺の蹴りが、紫苑の鼻先を掠める。
「そんな色気のねぇ下着履いてるような童を、どうやって女扱いしろってんだ?」
「なっ……」
奈美の顔が、ぼっ、と火に染まる。
「み、みみみみみ見たのか!?」
「やれやれ。生意気に色気づく真似だけは知ってるのか。だったらもう少し自粛して女らしさってのを身につけるんだな」
しかし、あの姉と共に暮らしている間は無理か、と紫苑は思考をつなげた。
「ほら、荷物ならもう少し持ってやるから、さっさと……」
反応がないのを不審に思い、奈美の顔を覗き込む。
「ふぇ……」
奈美はその場にへたり込むと、内腿を合わせるかのようにし、さらには裾を懸命に引っ張りながら足を隠そうとしていた。
「おい、何やってんだ?」
「だって…… また見られたらイヤなんだもん……」
今ここで初めて紫苑は、漣が風子を一目置く理由がわかった気がした。
やはり姉妹ゆえなのか、奈美もまた漣の姉、琳の容貌をそこはかとなく醸し出していたのだった。
琳もまた、若狭姉妹に負けず劣らず男勝りな部分が目立っていたが、女扱いすると途端にしおらしくなった。紫苑にしか見せなかった、抱きしめたくなるような愛らしさ。普段との差異が、紫苑の心を締め付けていたのは本人にも言えなかった事実。
上目遣いに顔を覗き込んでくる奈美の半べそが、瓜二つとは言わずとも琳のそれと重なって見えた。
「ば、馬鹿! もう見ねぇからさっさと立て! 夕暮れまでには村に戻るんだからな!」
わざとあさっての方を見ながら、紫苑は怒鳴った。そんな紫苑の態度が、少しだけ奈美を和らげる。
「別に、そこまでそっぽ向かなくてもいいよ。蹴り入れたりしなけりゃ平気なんだろうし」
「……悪かった。もうからかったりしねえから」
「うん……」
背後で木材を担ぐ音がした。
「行くぞ」
短く言葉を切る紫苑。そのまま、気まずい空気が流れ続けるかのように思えたが、その沈黙はあっさりと破られる。
前を行く紫苑の足がぴたりと止まった。
「なあ、若狭」
「な、なんだよ……?」
「この辺りの山道には、荒っぽい獣でも住んでるのか?」
「えっ?」
奈美の動悸が跳ね上がった。無論紫苑にそんなつもりはなかったのだが、山にはあまり詳しくない奈美にとって、怯えさせるには充分な口調だった。
「よくわかんないけど、夜行性じゃない猪がたまに出るってリョータが言ってた。落ち葉を集めて寝床にするから…… あっ……」
奈美の言葉は、目に飛び込んだその光景に食い止められることとなる。
不自然に掻き集められた、落ち葉の山。それらがまるで畳を敷くように散在していた。
「ぐるるるる……」
続いて、何処からともなく低い唸り声が鳴り響く。
「紫苑…… この声……」
「しっ! 静かに! これは…… 見られてるな……」
棍を取り出し、身構える紫苑。
「ちっ。こんなことなら刀も持ってくればよかったぜ」
日向と同じ海辺の生まれである紫苑は、山に住む生き物の習性になどはあまり精通していない。長かった旅の途中に話だけは聞いていたものの、実際に相対するのは初めてであった。猪に人を襲う所以などあるはずもないが、先ほどの喧騒のせいで縄張りを荒らしたと思われたのかもしれない。
「お前はそっちを見てろ」
奈美を背に、紫苑は息を呑んだ。鳥の鳴き声と、葉の擦れる囁きが妙に鬱陶しく思える。
前か、横か、後ろか。
四方に目を巡らすが、姿は見せない。しかし、殺気までは隠せていないのは獣の本性であろう。思い違いであることを期待しつつも、棍を握る手は緩めない。
頭上で、一羽の鳥が枝を揺らし、飛び立ったそのときだった。
咆哮と共に草陰から一頭の猪が飛び出した。
「ぐっ……」
思いがけない速さで突進してくる猪を視界に捕らえる間もなく、紫苑は三丈ほど吹き飛ばされる。
「ぐはっ……」
「紫苑!」
棍を折るほどの衝撃に顔を歪め、葉の絨毯を滑る紫苑。猪は第二撃を繰り出そうと助走をつける。
「ぐっ…… 奈美、逃げ……ろ……」
猪は、奈美のことなど目にもくれなかった。それが幸か不幸かは、紫苑の考えるには及ばない。何とか傍らにある木片を拾うが、棍を折ってしまうような巨体に今更通用するはずもない。空いた左手では懐の琥珀の数珠を握りしめるが、念を集中している間に猪は紫苑を吹き飛ばすことだろう。
猪の体躯がまさに眼前にまで迫ってきた。紫苑は唇を結び、奈美を垣間見ながら決意する。
この娘だけは守ってみせる。
胸元がかっと熱くなるのを感じ、紫苑は一瞬の出来事に、目を擦った。
猪の身体が、宙で跳ねた。地面から伸びた二本の木の根が鋭く研ぎ澄まされ、猪の腹を串刺しにしていた。
地に引きつけられ、猪は声も上げず叩きつけられた。
紫苑は先ほど拾った棒切れを杖に立ち上がる。関節や骨を確かめるが、どうやら異常はないらしい。まだかろうじて息があるのか、木の根に貫かれながらも猪はもがき、痙攣している。
一体何が起こったのか。恐らくこれは琥珀の数珠の為した技だろう。だが紫苑には、数珠に念を込める間も力もなかった。どうやって数珠の力が発現したのか。
「ふぇ…… 紫苑……」
草陰に隠れる間もなく、傍でへたり込んでいる少女を見ながら、紫苑は一つ息をついた。
「こりゃ斑牛だな。群れをなしたりはしないからもう他にはいやしないなはずだ」
言い終えたところで、斑牛の動きが止まった。ついに力尽きたのだろう。
「ほら、日が暮れちまう。さっさと行くぞ」
奈美に手を伸ばす。
「あ、あははは……」
ようやく安堵が戻ってきたのか、奈美は乾いた笑顔を見せ、口を開く。
「ごめん、脚が動かなくって……」
「はぁ?」
腰を抜かしたのか、奈美は力なく笑って見せるばかり。
そんな座り方をしているとまた下着が見えるぞ、とは紫苑は言わなかった。
結局、二人は荷物を捨て下山することとなった。
「ねぇ。重くない?」
「重い」
「……やっぱ降りるよ」
「木の束よりかはずっとましだ。いいから黙って揺られてろ」
代わりに紫苑の背には、縮こまった少女が担がれている。
「ねぇ」
「黙ってろって言ってんのに…… 何だ?」
「やっぱ紫苑はすごいね」
「はぁ?」
思わず奈美を落としそうになる。
「あんな風に猪をやっつけちゃうんだもん。私はただ見てるだけしか出来なかったし、おまけにこうやって紫苑に迷惑かけちゃってるし……」
「……まぁな」
数珠のことは黙ってることにした。紫苑にとっても不可思議な現象だったが、奈美がそう思っているのならばわざわざ覆すこともない。
「まだ若狭は十四だろう。焦らずともいつか『才』を身につける日が来る」
「……本当にそうなれればいいけど」
海底に沈み込むような口調だった。何かに諦めたような溜め息が、紫苑の背に吹きかかる。
「あ」
ふと、奈美が思い出したように顔を離した。
「名前」
「ん?」
「そういえばさっきウチのこと、『奈美』って呼んでたね」
「ばっ……」
思わず奈美の身体を落としそうになる。
「うわっ!? ちょっと危ないじゃんか!」
「お、お前が変なこと言うからだ!」
「別に悪いコトじゃないからいいじゃん。ウチも紫苑って呼んであげるからさ」
「くっ…… 勝手にしろ!」
奈美が足を怪我していてよかった、と紫苑は内心胸を撫で下ろした。今の顔を見られたら、また何を言われるやら。
「ねぇ、紫苑」
「なんだ」
わざとらしく名を呼ぶ少女に、紫苑は興味なさげに返事をする。
「本当に、ウチも姉さんみたいになれるのかな」
「風子みたいに、か」
「姉さんは小さい頃から強かったんだ。同じ歳くらいなら村の誰にも、男の子にだって負けたことなかった。潮人にはたまに勝てないって息巻いて帰ってくることもあったけど」
紫苑は無言で納得する。実際に手を合わせて初めてわかった。潮人には逆境を覆す力がある。明らかに力量の差はあったはずの紫苑相手に、見事なまでの勝利を納めたのだ。悔しくもあったが、紫苑にとっては後腐れのない完膚なきまでの敗北だった。
「でも、私知ってるんだ」
「何を?」
「潮人もね、悩んでるんだよ」
ぴたりと、紫苑の足が止まった。
「悩んでる、だと?」
「あ、もう止まっちゃ駄目だよ。教えてほしいんならさっさと歩く!」
いつもの調子を取り戻したのか、軽口を叩く奈美。
「わかった、わかったから」
紫苑もあえてそんな奈美の憎まれ口に合わせてやる。
「潮人はね、『才』がないんだって」
「え?」
「潮人には姉さんや隆道、リョータみたいな『才』が見つかってないんだ。お父さんからは古ぼけた銛を授かったみたいなんだけど、でも何か特別な力や知識があるわけでもないし」
「そんなこと考えてたのか、あいつは」
反論しようとも思ったが、やはり紫苑は口を噤む。敗者として、そこまで潮人を庇う義理もないし、奈美の話の先を促したかった。
「しかし、よくあの潮人がお前にそんなこと打ち明けたもんだな」
潮人の印象として、あまり自分を多くは語らないような像が思い浮かべられる。悩みや問題を抱えても、全て胸の内にしまい込んで隠してしまう。そんな気がしたし、実際にその通りなのだろう。日向に住むようになってまだ数週間だったが、そんな潮人の雰囲気だけは手に取ってわかるようになっていた。
「そうだね。潮人が打ち明けてくれたのは、私も同じだから、かな」
「どういうことだ?」
「私にもね、『才』がないんだ」
一瞬返す言葉を探しあぐねた紫苑。すると、奈美が話を続けた。
「日向にはね、兄弟っていうのがあまりいないんだよ」
漁生活という不安定な生活のためか、それとも伝統ゆえか、日向で結ばれた夫婦は多くの子を為さない風習があるのだ。
「でもそうしたら、日向の人達はどんどん減っていくんじゃないのか?」
「そうだね。他の村から嫁いでくる女の人もいるけど、実際には紫苑の言う通りかもしれない。でもだから、かな。日向のみんなが、本当の兄弟みたいに仲良くなれるのは」
紫苑にも頷ける話だった。
長い旅をしてきた紫苑にとって、一般的に「村」というのは外部を遮断する集団に他ならなかった。村を新しく訪れる紫苑らは、いつも異端者やよそ者と扱われるのが常だった。それに引き換え日向の住民は、最初こそわだかまりがあったが、祈神祭の後にはもうすでに打ち解け始めていた気がする。
「多分だけどね、兄弟が少ないのは『才』のせいかもしれない。『才』を引き継げるのは、最初の子供だけだもん」
若狭の家では、代々剛雷が引き継がれていた。周防の名を継ぐものは、鳳華と共に時代を生きている。
そんな家系に二人目の子が出来てしまえば、「才」を持たない子になるのは道理であった。
「その話をしたからかな。俺も同じだって潮人が打ち明けてくれたのは。勿論、私を励ますためにわざと落ち込んだ振りをしてくれただけかもしれないけど」
「だが、潮人は別に次男というわけではないんだろう? 駿河の家の『才』というのは一体何だろうな」
「わからない。ウチは村長を継ぐっていうことそのものだとは思っていたけど」
しかし、紫苑にも当時の潮人の意を汲むことができた。
村長になる宿命を帯びているのなら、なおさら自分の力を証明する何かが欲しいことだろう。でないと、村の者を統べる自信がなくなってしまうのが、人の心の弱さというものではなかろうか。地は違えど、紫苑のいた支那の国ではやはり、播磨の名は自然を操るという力ゆえに、民を統べる存在として敬われてきた。人の心を掴むには多かれ少なかれ、力が必要なのだ。
では駿河の、潮人の「才」とは一体どのようなものなのだろうか?
そんな疑問があったからこそ、奈美は潮人と通じ合ったのだろう。まだ見ぬ「才」という共通の悩みを持つがゆえに。
「でも……」
奈美は紫苑の肩に顔を埋める。
「潮人の『才』はただわからないっていうだけ。私には姉さんがいるから一生そんなのないまま……」
奈美の吐息が、涙の代わりに零れた。
だが。そこからの思考は紫苑と奈美は違っていた。
先ほどの斑牛を撃退した時のことを思い出す。紫苑は数珠の力を使っていない。それは紛れもない事実。では何故自然が紫苑らに味方し、斑牛を刺したのか。
考えられるとすれば。
他でもない、その場に居合わせたもう一人の人物の力。
すなわち、奈美の「才」。
一瞬だけ過ぎった考えを、紫苑は頭を振って払った。
かつて自分自身が「才」を身につけるべく訓練した日々を思い出す。
数珠の力を十二分に発揮し、自在に操るのには一朝一夕の努力では適わない。初めて紫苑が数珠を手にしたときには雷どころか、微風一つ吹かせられなかった。このように、周囲の木々に語りかけるような真似をするには、数年はかかったはずだ。恐らくは、他の『才』を持つ者も同じ筈だ。隆道も、鳳華に主人として認められるにはどのくらいの年月がかかったことだろう。
腰を抜かし、ましてや数珠に触れたこともないような娘に、数珠を操れるはずなどない。
口にするにはあまりにも信じがたい。常識とはまるでかけ離れた仮説。
そして、奈美もまた口にはしない。
紫苑が襲われる瞬間、確かにその光景を念じていたことを。
恐怖に苛まれた中で、紫苑の『才』を思い出し、木々の根が猪を貫く光景を念じていたことを。
日はすっかり傾き始めていた。もしかすると風子らが心配しているかもしれない。紫苑は足を速めた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
夜の帳が下り始め、日向の村を赤く染め始めた。町を出た頃はまだ陽は沈んでいなかった。季節の移り変わりは早いものだと、潮人は神海を見つめた。
村に戻ると、日向はちょっとした喧騒に包まれていた。山に材木を調達に行っていた紫苑と奈美が、猪に襲われたという。奈美は無傷だったものの、紫苑は腕を折られかけていた。
「大丈夫。半月もすれば元通りになるよ」
涼太郎に限って誤診などありえないことは、潮人も知っている。胸を撫で下ろしたのは紫舜や漣だけではなかった。
捲くられていた袖を戻す紫苑に影が差しかかった。肩に停まる鳳華の眼光とは裏腹に、その影は頬を掻きながらうなだれていた。
「よう」
「お前は、あの黒飛鷹遣いか」
「周防隆道だ。怪我は、その…… もう平気なのか?」
「あぁ。お前らの仲間に診てもらったからな」
「やめろって」
紫苑が顔を上げると、鳳華の羽が一枚、宙を舞った。
「涼太郎だろ? お前らの仲間だなんて、なんてそんな言い方すんなよ。奈美を助けてくれて…… いや、そのことがなくてもお前だって日向の一員さ」
「そうか」
「なんだよ、もう少し何か言ったっていいんじゃねえか?」
突き放すような素振りではあったが、風子にはその温かみを感じ得たような気がした。
「それにさ、ちょっと俺のせいでもあるし」
「何がだ?」
「お前と奈美が二人で山に行くように仕向けたんだ。他のみんなにはさっさと別の仕事振り分けてさ」
「それならなおさら、良かったかもしれないな」
「ん? どういうことだ?」
「奈美の姉や潮人ならともかく、お前や他の者だったら今でも猪に追い回されているところだったかもしれないからな」
皮肉を込めたつもりではないようだったが、隆道のこめかみがぴくりと震えた。
「ぐっ…… 俺が猪なんかに……」
「ははは! そりゃ間違いないね。そうしたら今頃は村中総出で山狩りをしなきゃならないところだったよ!」
気がつくと、眼前に風子が立っていた。
「てめぇ、風子……」
「なんだ、奈美の姉か」
視線を合わせようとしない紫苑ではあったが、風子は意にも介さなかった。
「奈美は平気なのか?」
「うん。誰かさんのおかげでかすり傷一つ負ってないからね」
ちらりと、紫苑を一瞥する。
「妹が世話になったね」
「大したことじゃない」
必要最低限の言葉ではあったが、風子は紫苑の頬が紅潮しているのを見逃さなかった。
そして、奈美のことを「童子」と呼ばなかったことも。
「礼と言ったらなんだけど、今度うちに来なよ。何でも好きなもの採ってご馳走してやるからさ」
「いらん。奈美と取り合いにでもなるのが目に見えている」
「あぁ、簡単に想像つく…… って風子、何で足つねってんだ?」
「……くくく、いや、別に」
わざとらしく咳払いをしながら、風子も隣に座った。
「可愛いでしょ、うちの妹」
「家族思いなのはいいが、少し気持ち悪いぞ」
「まーね。日向って姉妹なんて珍しいからさ。だから余計に可愛く見えるのかもね」
下山するとき、奈美が語っていた言葉が重なった。
「もう少し慣れてきたら、あんたにあげてもいいけどね」
「くだらんことを言うな」
「あれ。もう少し慌てるかと思ってたんだけど?」
「戯言を」
風子はわざと頬を膨らませてみせる。その横顔に、紫苑は遠き日に亡くした婚約者、琳の面影を無意識に重ねていた。
どさり、と木の陰で何かが地面を叩く音がした。三人が一様に振り返ると、涼太郎が薬草の詰まった籠を足元に散らばらせていた。
「あらリョータ。もしかして聞かれちゃってた?」
「う、うん。ごめんね、立ち聞きするつもりはなかったんだけど……」
薬草を拾い集める涼太郎の手は、見るからにおぼつかない。
「あははは、そんなに心配しなくったって大丈夫だってば! 姉としては、まだまだあんたが第一候補だからさ!」
「何の話をしてるんだよ!? 僕が別に何も……」
「うんうん、いいわねぇ、この反応。どうせ義弟になるんだったら、こういう方がいいわよねー」
毎日飽きなくて、と続けそうになったが風子はかろうじて飲み込んだ。
「……まったく。付き合ってられん」
紫苑が溜め息と共に腰を上げた。
「あ、紫苑。どこ行くの?」
「家に戻る」
「待って待って、せっかく新しい薬草持ってきたんだから」
「ならせめて、あの馬鹿どものいないところでやってくれ」
ようやく薬草を集めきった涼太郎が、慌てて紫苑の後を追っていった。
「うふ、恋敵同士が肩を並べて…… 一体何を話すのかしらねー?」
「風子、お前って本当に趣味悪いよな……」
「やーね、今頃気づかないでよ。それに隆道だって共犯のくせに」
そう言われては身も蓋もない。隆道は腰に携えた瓢箪を手に取り、一気に中身を飲み干した。
紫苑と奈美の不運は、当然潮人の耳にも届いていた。心配はしたものの、二人の安全を確かめると、不謹慎ながら潮人の胸中は別の安堵感で満たされていた。聞くところによると、紫苑が身を挺して奈美を守ったのだという。それは、紫苑が本当の意味で日向の民として、兄弟として溶け込んだ証でもあった。それは遠巻きに風子や隆道らとのやり取りを見ていても感じ取れていた。
不穏な動きを見せた昼間の件もあってか、潮人は紫苑に対してまだ警戒の念を隠しきれずにいた。だがもうそんな心配もいらないだろう。些細なことかもしれないが、紫苑との結束が深まったような気がしてならなかった。
そしてそれは、鯨羅討伐にまた一歩近づいたのではないか。そう思わずにいられなかった。
潮人は今一度、神海に目をやった。あの怪物鯨がその身を沈めているとは予想もできないほどの美しい海面。いつまでも潮人や、日向を守ってくれると、微笑を浮かべているようにすら思える。波音に紛れ、一陣の風が潮人の頬を撫でた。
こんなときは必ず、父である裕作の顔が思い浮かぶのだ。武闘祭の夜に父が見せた、暖かく強い笑顔を。
「なぁ、親父。俺の『才』って何なんだ?」
潮人は一人ごちるようにしながら、父の横顔を見やった。
「まさか、こんなぼろっちい銛が、駿河の家に代々受け継がれたわけじゃないんだろ?」
「そうだな…… では潮人は何だと思う?」
「わからねえから聞いてんじゃねーか」
息を漏らし、潮人は続けた。
「親父も風子の『剛雷』は見ただろ? あんなん振り回された日にゃ神海中全部の魚が採られちまうよ。それにリョータの感覚には誰も敵いやしないし、隆道にだってあの鷹がいる。でも……」
潮人はそっと俯いた。
「俺にだけ…… 何もない……」
胸を締め付けるその想いは、まだ少年を抜け出したばかりの若い潮人にとって、劣等感と呼ぶほどにまで大きくなっていた。
巨槍を操る力も、風を読む鋭い勘も、自然と共存する感覚も、自分にはない。
「では潮人よ。お前の仲間は、そんな優れた力を持たぬお前を一度でも笑ったことがあるか?」
「それは……」
風子の顔を思い出す。
『つくづく憎たらしい奴だな、お前は』
飽きれているようで決して人を見下さない笑顔。
隆道の顔を思い出す。
『ちっ。見つかっちまった! ずらかるぞ!』
馬鹿をやるときも真剣なときも常に熱くいる男。
涼太郎の顔を思い出す。
『もう、そんなこと言わないでよぉ……』
誰よりも優しく、何よりも暖かい口調。
奈美の顔を思い出す。
『潮人ったら! 待ってよ!』
どこまでも追いかけてくれる無邪気な少女。
「そうだ。気がつけばいつの間にか仲間が周りにいてくれる。そんな風に知らないうちに人を魅きつけるその力こそが、お前の『才』だ」
「人を…… 魅きつける?」
「そしてそれは、人が意志を託すのに最も大切なこと」
気がつけば、生まれてすぐに血束の儀を交わした者も、それどころか紫苑も、漣も、紫舜も自分を支えてくれる。鯨羅を共に討とうと手を合わせてくれている。
そして渚。かけがえのない少女。
父を失いかけ、同時に自分をも見失ってしまったときに、誰よりも近くにいてくれた。
また再び鯨羅は現われるだろう。鯨羅の巻き起こす嵐に、渚の笑顔を曇らせるわけにはいかない。
潮人は海岸を散策する。渚もこの海辺にいるだろうか? 特に約束などは交してはいないが、夕陽が海岸を照らすこの時刻になると、二人はいつも顔を合わせていた。そこで何でもないような話を、日が暮れるまで語り尽くす。
渚をもっと知りたくて。日々の生活の中で何を思い、何に幸せを感じるのか。
「あっ…… 潮人さん」
少女はそこにいた。見慣れたはずの茜色の姿が、いつもより眩しく映った。
「すまんな。待たせてしまったか?」
「それはもう。あまりに遅かったんで夕陽で焼けちゃいました。なーんてね」
無邪気に笑う渚が愛しくて。
「なるほど。だからそんなに顔が真っ赤なんだな」
こんな意地悪を言ってみる。
「え…… そ、それは…… ようやく、潮人さんと二人きりになれたからかも…… しれないです……」
いつも通りに渚は上目遣いに俺を見て、
「……って、なんてこと言わせるんですか」
俺は、からかわれたことに気づいた渚を、
「なら、俺の顔も赤くなってるかな」
「あ…… こんなことしたら、顔見えないです……」
後ろからそっと抱きしめてやるんだ。
海岸を二人、手をつないで歩き、岩場へと向かう。たったそれだけだったが、潮人にとっては大切な時間だった。きっと渚にとっても同じだろう。身体全体で喋る渚は、時々熱中し過ぎて手を離してしまうが、それでもまた何かをねだるように腕を組んだりしてきた。
渚がそばにいる。その事実だけが潮人の頭を離れない。渚は普段と何ら変わりないはずなのに。こんなにも近くに感じられるなんて。
それは、想像を絶する巨船を目の当たりにしたためか。紫苑との絆が深まったのを感じたためか。希望でしかなかった鯨羅の討伐が、現実のものとして目の前に広がった気がした。
全てがいい方向に向かっている。村の民と何気ない毎日を送るという、たったそれだけの当たり前の幸せを、もうすぐこの手に収めることができるかもしれない。
もし鯨羅を打ち倒せば、三月前には考えもしなかった新たな幸せがやって来る。その後は何をしようか。陸奥の民と一緒に、山を登ってみるのもいい。魚だけでなく、鹿や猪を追いかけるのも面白いかもしれない。また隆道や風子と猟較をするのだろうか。涼太郎や奈美と一緒に木の実を集めるのもいい。それに、紫苑や漣はどんな風にして獲物を捕らえるのだろう。見てみたい。
そして、帰れば渚が待っていて、またこうして二人で海岸を歩くのだ。
「何考えてるんですか?」
渚か顔を覗き込んでくる。
「先の…… 未来のことさ」
「未来?」
「そう。鯨羅を倒した後の、な」
潮人もまた、渚の瞳を見つめ返す。他の者は持ち得ない、蒼碧の輝き。
「そうですね。海が穏やかになったら、みんなどうなるんですかね」
「元の暮らしに戻る。それだけさ」
それだけなのに。潮人にとって、いや、神海の岸辺に集う者達にとっては何よりもかけがえのない幸せだった。
「でも、私は鯨羅が現われる前の日向は、知らないですから……」
渚が肩を落とす。考えてみれば、渚には偽りの明るさで取り繕った村の姿しか見せていなかった。ならば、本来の日向の活気を見せてやりたい。また一つ、叶えたい未来が増えてしまった。
「でも、潮人さんがそんな顔をしてるくらいなんだから、きっとすごく楽しいんだと思います」
すぐにまた笑顔を取り戻した。そう、この明るさに俺自身もつられてしまったのだ。
「今度はみんなで山にも登ってみたいですね。奈美ちゃんと木の実を取ったり、畑仕事を教わってみたり。あとは陸奥の方たちも海に連れ出したいです。そうしたら、私も少し漁の先輩になれますよね? でも漣さんなんかは素潜りする姿が想像出来ないかも。それに……」
「ぷっ……」
饒舌になる渚がなんだかおかしくて、つい笑いが込み上げてきてしまった。
「もう! 何で笑うんですか?」
「いや、渚も考えていることは一緒なんだなと思って」
「本当ですか? じゃあ、私もようやくの仲間入りですね」
「何だそれ」
返すと、懐かしそうに視線を遠くに投げかける。
「ほら、以前ここで話したときのことです。何考えてるかわからないから、私のこと海藻みたいって」
「……そんなことあったっけか」
ここ数日は毎日この道を歩いているため、覚え切れない。
「むーっ! 台無しです。私は潮人さんと話したことは全部覚えてますよ」
潮人は口を噤んでしまう。本当は、そんな膨れた渚の顔にも見惚れて、声も届かなくなってしまうだなんて、口が裂けても言えない。
ただ。
「なら、お前でも抱えきれないくらいの日々を、一緒に過ごさないとな」
今は正直に、自分の想いを伝えたい。
「えっ……? それって……?」
目に見えて、渚の身体が強張った。
「俺は、これからもお前と一緒にこの村で生きていきたい。死が俺達を迎え、海に還るその日まで」
渚が口元を押さえ、静かに涙を湛える。渚に永遠を誓うその瞬間に思ったのは、
「渚。お前が好きだ」
本当によく表情が変わる奴だな、ということだった。
「…………はい」
それでもまだ渚は俺の知らない顔をたくさん持っている。それを全て見てみたい。
「私も…… 潮人さんが……」
こんなにも美しい泣き顔を、今までに見たことなかったのだから。
「好きです……」
潮人は優しく、優しく少女の肩を抱いた。手のひらには溶けるような暖かさを、屈強なその腕には想いの全てを込めて。
薄い絹の衣越しに背中に触れる。渚の肌と似た手触りだった。
潮人は瞼を閉じ、そっと顔を近づけ……
「ダメ!」
悲痛な叫びと共に、衝撃が走った。突き出された渚の手が胸元を叩いたのだとわかったのは、厚い潮人の胸板を貫き、心にまで届いてからだった。
よろめきながらも地を踏みしめると、渚の涙が違うものに変わっていた。嬉しくて流す涙でも、他者の悲しみを汲む涙でもない。
謝罪と、果てしない距離を思わせる瞳。
「あ、ご…… ごめんなさい……」
必死になるわけでもなく、何かを諦めた言葉だった。
突き放した箇所を慈しむかのように、そっと潮人の胸に抱きすくめられる。
「ごめんなさい……」
「いや、俺の方こそ渚の気持ちも考えず、無神経だった。すまな……」
「違うんです! 潮人さんの気持ちは嬉しかった! 私だって同じ気持ちだし、潮人さんと結ばれたいとも思っています。それに、潮人さんが何をしようとしたのかもわかっているつもりです。でも……」
かつて、渚がここまで強い意思を見せたことがあっただろうか。おぼろげになりかけている渚との記憶を丁寧に手繰り寄せた。
岩陰で一人、歌を歌っているのを見つけてしまったあの涙。
指を切り、『血束の儀』を交そうとしたときに見せたばつの悪そうな顔。
鳳華も仲間のように扱うのだと言い放った鋭い視線。
歌を聴かせるのを拒んだ照れ笑い。
弓が引けないのにも関わらず、隆道を差し置いて紫舜と相対した決意。
紫苑との話を、まるではぐらかすように隠した笑顔。
……わからない。一体何が渚との壁になっているのか。
そして何故渚はそれを話してくれないのか。だがきっと、話してしまったときには恐らく、渚はもう手の届く場所にはいないのだろう。そんな予感がしていた。
同じ想いを渚も抱いているのならば。まだそう言ってくれるのであれば。今の潮人に出来ることは、渚を信じ、ただ今までと同じように日々を歩んでいくこと。
それだけだった。
「渚……」
潮人が渚を抱き返そうとしたそのとき。
神海の沖に一筋の光が照りつけた。
一瞬遅れて雷鳴が轟く。そして不吉を運ぶ、湿り気を帯びた生ぬるい風。続けて天が豪雨の涙と共に泣き叫ぶ。
何の前触れもない空の急変と、全身を駆け巡る悪寒。太陽も任務を忘れてしまったかのように雲の隙間に怯え隠れていた。
「こっ…… この風…… し、潮人さん」
見上げたその先にある男の顔は、神海の遥か彼方を見つめていた。恐れと、憎しみと、それを打ち砕かんとする闘志を燃やしながら。
「ついに来たか…… 鯨羅」
束の間の平穏は、嵐と共に崩れ去った。




