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第七章

       ◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 そこは、日向と陸奥の村境からはほど遠く、民家もほとんどと言っていいほど見当たらない。その巨大な建造物は大きな影を生み出すため、人のいない場所で作らなければ、という漣の話も頷ける。

 潮人はそれを見上げると、ただ嘆息を漏らすばかりであった。

「これが…… 船だと?」

 ずっと眺めていると首の骨が曲がってしまいそうだ。

「ああ。俺の計画では計六艘、これを造ろうと思うんだがな」

 建造中の船は、およそ五十人は乗れるほどの圧巻を放っていた。人どころか、家の五、六軒乗せたって沈まなさそうだ。

 長い旅の末に培った紫苑の知識は、着実に鯨羅討伐の足がかりを得ていた。紫苑の強気な発言は、何も自分の「才」を過信していただけではなかったのである。

「食料も充分に積めるが、実はまだ武器がなかなか揃わないんだ。その辺はお前らにもちょっと頼もうかと思う」

 紫苑が鼻を高くしている今も尚、陸奥の民が小槌を高らかに打ち鳴らしていた。

 初めて潮人は、何故陸奥までをも治めようとしたのかわかった気がする。鯨羅討伐にはまず、その尾の巻き起こす波にも負けない巨大な船が必要だったのだ。漁船などでは鯨羅に目にかかる前に転覆してしまう。 

 ではその船を建造するためには何が必要か。山の地形を変えんばかりの大量の材木だ。日向のような漁村だけではそのような物資を調達すること適わない。そのために陸奥に目をつけたのだ。

 やり方はさして褒められたものではないにしろ、考えの方向性は決して間違ってはいなかった。

そしてこんな、鯨羅の生み出す渦や波にも怯まないほどの船が何艘も完成すれば…… いけるかもしれない。潮人の顔にも光が宿る。

「紫苑さーん! ちょっと木がやばいっす!」

 船頭から男が声を張り上げる。

「あとどのくらいだ」

「帆を立てる分くらしかないっす。今日中には底を尽きそうっすよ!」

「わかった! 午後までには何とかする!」

 叫ぶ紫苑が、今度は潮人を振り返る。

「聞いての通りだ。ちょっと山まで木を調達に行きたいんだが……」

 と、そこへ手を振りながら渚が駆け寄って来るのが見えた。

「潮人さーん」

「ん、どうした?」

「漣さんが呼んでます。なんでも航路のことで打ち合わせしたいって。漣さんの家にみんな集まってます」

 渚が息を弾ませる。

「わかった。じゃあついでに風子あたりに山に向かわせるか。紫苑、木はどのくらい必要なんだ?」

「多ければ多いほどいい、というところだな。山が丸裸にならない程度ならいくらでも頼みたい」

「伝えておく」

 潮人が渚を連れようとしたとき、

「すまん、潮人。娘をちょっと置いといてくれないか」

 紫苑が神妙な面持ちで言った。

「え?」

「あぁ、構わないが……」

 渚はまるで、海なのに熊にでも遭遇したように顔を歪めた。

「それじゃ、俺は先に行ってるぞ。漣の家だったな」

 背を見せる潮人に、渚は救いを求め手を伸ばしかけた。慌てて引っ込めると柳眉をひそめ、

「……私に、何の用ですか」

 三歩ほど後ずさりながら、渚は警戒心を剥き出しにする。

「随分嫌われたもんだな」

「当然です! 潮人さんを殺そうとしたくせに」

「だから何度も謝ってるじゃないか」

 肩をすくめ、紫苑は話を切り返す。

「それはそうと…… 娘。お前には聞きたいことがあるんだが」

「そんな呼び方じゃ聞かれたって答えませんよ。私には瀬戸内渚っていう名前があるんですから」

「……じゃ、渚」

「やめてください。あなたなんかに名前を呼ばせるほど落ちぶれたくないですから! べーっ!」

 以前紫苑が潮人に吐いた言葉を、そのままぶつける。

「……悪かった。瀬戸内、でいいか?」

「まぁ、良しとしましょう。それじゃ、さよなら」

「おい! ちょっと待て!」

 踵を返そうとする渚を、紫苑は慌てて呼び止めた。

「何ですか?」

「聞きたいことがあるって言っただろう」

「あ、そうでしたね。ならさっさと言ってください。それと、出来れば早めに切り上げて欲しいんですけど」

 震える肩をなんとか(なだ)めながら、紫苑は落ち着いた声を作り出す。

「お前の歌のことなんだが……」

 烏賊(いか)に墨をかぶせられたかのように、渚の顔色がみるみる変わっていく。

「あれは誰に習った歌なんだ?」

「べ、別に…… 小さい頃からお母さんが歌ってくれて……」

「そうか。ではもう一つ聞きたい」

 紫苑は質問を続ける。渚に答えを考えさせる間を与えないように。さすれば、咄嗟に嘘をつけるような娘ではないはず。

「お前は日向の出身ではなそうだな。ではお前の母は今、どこにいる? 故郷はどこなんだ?」

 それは、潮人が問いたくても聞けずにいた疑問。そして、紫苑が紫舜に抱いている疑問でもあった。

「そ、その…… ちょっと日向からは遠くて……」

「村の名は何という? それとも支那のように国と呼べるほどの規模なのか?」

「あ、え、えっと……」

「頼む。俺にとって大事なことなんだ。包み隠さず正直に答えてくれ」

 紫苑が気迫に怯む渚の肩を掴んだときだった。

「この変態があああ!」

「のはぁ!!」

 骨の軋む音を立てながら、紫苑は地に伏した。奈美の跳び蹴りが、紫苑の頬に綺麗にめり込んでいた。


挿絵(By みてみん)


「場所も時間も選ばないなんて…… やっぱり目を離さないで正解だったわ。ナギ、大丈夫だった?」

「うぅ…… 奈美ちゃん…… うわーん、怖かったあ」

 奈美の肩を借り、渚がさざめいた。胸を借りなかったのは、奈美の背丈が渚の顔まで届かないからだ。

「あたたた…… くっ、誰かと思いきやお前か、(わらし)め」

「うっさい! ガキ扱いするなっての。それより、とうとう本性表したね」

 奈美は銛を向け、紫苑と距離をとった。

「何を言ってやがる?」

「とぼけるな! たった今ナギに襲い掛かろうとしたでしょ」

「馬鹿か貴様。そんなことするはずがないだろう」

「ふん! どーだか!」

 鼻を鳴らし、奈美は相手の反論を次々と叩き伏せた。

「ったく。これがシュンの兄貴なんて言うんだから、ほんと世の中わかんないわ」

 へこんだ側頭部をさする紫苑の手が、急に止まった。

「おい、童」

「んだよシスコン」

「……しすこん? なんだそれは」

 紫苑が当惑する。が、それ以上に奈美の方が不思議そうな顔をした。

「ん。わかんない。けどあんたのこと見てたら何となく頭に浮かんできて」

「何故だかわからんが、すごく腹が立つ響きだな…… いや! そんなことより!」

 頭を振り、謎の言葉を払う。そんなに振ったら脳に差し支えるぞ、とは渚も奈美も言わなかった。

「俺は、紫舜とは似てないのか?」

 その目には渚に迫ったときと同じように神妙な光が宿っていたが、奈美はそれに気づかない。

「あったりまえじゃん! シュンはおとなしいし優しいし、こないだだって子供が喧嘩してるのをなだめて仲直りさせたりしてたんだから!」

「そうか、やはり紫舜は…… では俺は紫舜の何なのだ?」

「さーね。あんた、シュンの兄貴とか言い張ってるけど、本当はどっかから拾われてきたんじゃないの?」

 意図していないはずの奈美の罵倒が、さらに紫苑を抉る。

「シュンは綺麗な黒髪してるのに、あんたは気味の悪い金髪だし…… はっ!? もしやシュンはあんたの家に攫われてきたとか」

「ち、ちょっと奈美ちゃん……」

 播磨の家の総勢に睨まれそうな言葉だったが、紫苑の耳を通り抜けるばかりで、奈美の敵意もろとも風に散ってしまっていた。

「ご、ごめんなさい! 奈美ちゃんも悪気があるわけ……なんだけど、で、でも悪い意味で言ってるように聞こえるかもしれないけれど他の人に対してはすっごくいい娘だから…… って。紫苑さん?」

 奈美の暴言を弁明し(ているようでしていない)ながらも、渚は焦点の合ってない紫苑の瞳に、ようやく気づいた。手のひらをちらつかせても、紫苑は何も見えていないかのようにただ遠くを見つめていた。

「ちょっと。どうしたのよあんた。身に覚えがあり過ぎて反省しきれ…… わ、わあ!?」

 突如、紫苑は奈美の腕を掴む。その重みに耐え切れず奈美が倒れ、上から紫苑の細い身体が覆い被さった。

「なぁ教えろよ 紫舜はどこから来たんだ! 何で俺には紫舜が生まれた記憶がない? あいつの琴は何であんな音を奏でられる? 何で紫舜は髪のいぼぎゃああ!」

 紫苑が嬌声、ではなく狂声を上げ(ひざまず)いた。股間には潮人の屈強な身体にも痣を残す奈美の膝蹴りがめり込んでいた。

「はぁ、はぁ…… お、女なら誰でもいいのか、このロリコン!!」

「ぐぅお…… ろ、ろりこん? さっきから何なんだ。その何故か反論できないながらも不愉快な言葉は?」

「わっかんないよ! あんたを見てたら勝手に頭に浮かんでくるんだってば!」

 息を切らせながらも、奈美は別の意味で息を切らす紫苑に罵声と追い討ちの蹴りを浴びせた。

「な、奈美ちゃん。もう行こうよ……」

 渚が奈美の手を取り、無理矢理紫苑から引き剥がした。背後からはまだ紫苑の形容し難い呻きが鳴っていた。

「……ったく、油断も隙もないんだから」

 砂を撒き散らせながら歩く奈美に、ぽつりと渚が呟いた。

「ねぇ、奈美ちゃん……」

「ん? どしたのナギ?」

「奈美ちゃんも、その…… 気になる?」

 問いかけの意味がわからないといったように、奈美は首を傾げる。

「私がどこから来たのか、とか……」

 近くの岩肌が小さな愁雪鳥が飛び立った。その羽音を聞きながらしばし奈美は渚を見つめた。が、奈美の足元を波が濡らしたと同時に、

「ぷっ…… な、なはははは!」

 転げ回るようにしながら、奈美が笑い出した。今度は渚が目の前の光景を吟味し、立ち尽くしていた。

「にゃはははは…… ナギってば、まだそんなこと言ってるの?」

「奈美ちゃん もう! 真面目に聞いてるのに……」

 渚が怒りを表す前に、そっとその小さな手が握り締められていた。さらに小さな、奈美の手に。

「ごめん。さっき紫苑の言ってたことが気になってるんだね」

 渚は答えなかった。代わりに手の力をきゅっと強める。

「うん…… 実は同じことを潮人さんにも聞かれたことがあって。潮人さんは深くは追求してこなかったけれど、もしかして……」

 奈美が手を離し、そっと渚の首に手を回した。

「そんなことないよ」

 まるで恋人に口づけをねだるような格好。奈美の温度が身体中に広がっていく。

「ナギがどこから来たのか、なんて関係ない。日向の村の人じゃなくったって、そんなの関係ないよ」

「でも、私は『血束の儀』もしてなくて……」

「日向はね、みんな潮人が好きだから一緒にいるんだよ」

 ようやく、渚はわかった気がした。

 何故日向の民が村を捨て、逃げていかないか。

 村民全員が裕作とその息子の潮人を慕い、そして神海を愛し、共に生きていこうと誓っているからなのだ。いや、それは誓いですらない。陽が山の陰から昇り、神海の果てに沈んでいくという摂理と同じくらい、当たり前のことなのだ。

 陸奥も支那も、ましてやどこか遠い地の者であろうとも、そこに共通する想いがあれば受け入れてくれる。

 それが潮人の治める日向の村であった。

「うん…… ありがとう、奈美ちゃん」

「もし今度潮人がそんなくだんないこと聞いてきたら言ってよ。ウチが蹴り飛ばしてやるから」

「それはちょっと……」

 身体を離しながら、渚は言った。

「何でよ」

「潮人さんがかわいそう」

 目を伏せ、わざとらしく溜め息をつく奈美。

「はぁー、元気になった途端ノロケられちゃったよ……」

「えっ べっ、別にそんなつもりじゃ……」

 顔を赤く染める渚を、再び奈美が抱きとめた。

「……ナギがいてくれてよかった。ウチじゃ潮人は頼ってきてくれないから」

「えっ?」

 微熱を帯びたその声に、渚は瞬時に心を汲む。

「ナギが支えてやってよ。ウチはリョータで我慢しとくからさ」

 ほのかな、少女の告白。恋心と呼ぶにはあどけなさの残る想い。

 これほどの決意を固めるまでに、どんな心の過程があったのだろうか。まだ出会って一月も経たぬ自分が、潮人を奪ってしまって良いものなのだろうか。奈美にしては珍しく、その顔色に想いを映し出すことはしていない。だが、それがかえって渚の枷になることを奈美は気づいていない。読めない表情が問題なのではなく、表情を読ませようとしないことが問題なのだ。それは、幼い少女が初めて見せる不器用なかたちの優しさ。

「うん……」

 抱き返す渚の目に一つ、涙の雫が浮かんだ。



       ◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 潮人が漣の家の戸を開けると、風子の姿はなかった。既に連絡が届いていたのか、木材を調達に出向いたという。

「とりあえず座りなよ、潮人」

 涼太郎が猪皮の地図から顔を上げ、潮人を迎える。

「待たせたな」

「いえ、ちょうど意見がまとまったところなので」

 漣は茶を潮人に注ぎ、座り直す。

「さて、今まで伊勢殿と話し合っていたのですが、やはり航路は造船中の浜からやや南のこの辺りからにするべきでしょう」

 漣は地図を指差した。集落からはやや離れ、普段なら船を出すことなどないその湾に、潮人は疑問を抱く。

「理由は?」

「はい。船は基本的に紫苑の『才』によって風を起こし、帆に流すことで前進します。ですがさすがに自然の風向きに真っ向から抗い、大気を操るのはかなりの負担になります。なので少しでも船の進みやすい道を選びたいのです」

 潮人が頷くと、今度は涼太郎が口を開いた。

「今までの話からすると、鯨羅の現れる嵐の夜は大抵海からの追い風が吹いていたんだ。今僕らの造ってる帆船は、向かい風だと、例えば……」

 簡単な図を書き、涼太郎は続けた。

「こんな感じで帆を張ると少し右斜めに進む。ある程度進んだら帆の向きを変え、今度は左斜めに進む。それらを繰り返し、最終的には稲妻形に海を走っていくことになるってわけ」

「なるほど。風で船を、か」

 今まで櫂で船を漕ぐことしか知らなかった潮人達には、まるで思いつかなかった発想だった。

「それと紫苑が、武器が足りないと言っていたのだが」

「ええ。正確には武器を作る材料が足りない、といったところなのですが」

 理解に頭をひねる潮人に、漣は説明を加えた。

「日向で多く使われている銛は、このようなものですね」

 銛を取り出し、漣は続ける。

「基本的に日向の民は直接銛を打ち込み、獲物を捕らえます。しかし鯨羅に対し、そんな距離まで近づけるとは到底思えません。たとえあの帆船を使っても」

 確かに。凶虎鮫程度の大きさの獲物ならまだしも、相手はあの鯨羅だ。そのことは潮人も身をもって体験したことだった。

「となれば、銛を投げるか、弓矢での攻撃が主となるでしょう」

 以前に鯨羅の討伐に出たときのことを思い返す。あの時も力いっぱい投げたはずの銛が、一つも鯨羅の巨体に刺さることはなかった。

「助走もなしに、しかも不安定な船上で銛を投げた場合、飛距離は十丈といったところ…… が」

 銛の柄を握る漣の手に力が込められた。

「このような軽い銛では、何十本何百本鯨羅に叩き込んでも……」

 乾いた音を立て、柄が軋み、そして真っ二つに折れた。

「鯨羅は倒せません」

次第に漣の言わんとすることがわかってきた。

 飛び道具で鯨羅を攻撃するなら、それなりの重さがなくてはならない。具体的には穂だけでなく銛全体を鉄で固めるか、或いは槍身そのものが鉄で出来ているものを使う必要があるのだ。だが潮風を年中浴びる日向では、錆びやすい金属の銛などあまり使われることはなかった。

「陸奥で使われるものを集めても、鉄が足りません。なので町まで出向き、調達して来ねばならないのですが……」

「鉄の銛か…… リョータ。お前も鍛えとかねぇと投げらんねえぞ?」

「う、うん……」

 隆道の言葉に、涼太郎は冷や汗を手に滲ませる。

その他にも、漣の討伐計画は非の打ちようもないほどに的確で、大がかりなものであった。それでいて不明な点もはっきりと表れている。敵だけでなく己のことも熟知している証だ。航路、食料、武器の他にも、戦略や非常事態に備えた行動なども予め想定している。

 潮人は改めて理解した。これは漁ではない。戦いなのだ。

少なくとも紫苑や漣はたった一度の敗北でそれを実感し、同じ過ちを繰り返すまいと知恵を絞り、奔走していた。

負けるものか。

ほんの一瞬、闘争心が潮人の胸を焦がした。鯨羅にではない、紫苑と漣に対して。二人に、鯨羅への無念を晴らす思いという点において、負けたくはない。

ただ、そう思ったのも束の間、潮人は食いしばった歯を弱め、一つ深呼吸する。

「あのー、まだお話の途中です…… か?」

 よそよそしい声と共に、渚が戸の隙間から顔を覗かせた。

「いや、まだだが入っても構わんぞ」

 無言で漣も頷く。

「えへへ、それじゃ、おじゃまします」

 肩を上下させながら、渚が隣に座る。

「では、いいですか?」

「あぁ、構わん。すまなかったな」

 漣が猪皮の地図を丸め、話を続けた。

「今日のところは、三手ほどに分かれて作業を続けましょう」

「そうだね。じゃあ僕は町に下りて鉄を仕入れてくるよ」

 涼太郎がそう言って立ち上がろうとするが、隆道がそれを制した。

「いや、それは潮人に任せな」

「そう? あ、うん、そうだね」

 鉄は町でも大分値が張る代物であった。ここ日向の村から最も近い鉱山でもざっと十里ほどはある。その上、採れる量も少ないため出し惜しみする商人も少なくはない。だが、日向の村長である潮人自らが出向けば、その心配も多少は緩和される。

「リョータは俺と一緒に銛作りだな。鉄を加工して穂にするのは俺がやるから、柄の方を頼むぜ」

「うん、わかった」

「では、私は紫苑と共に造船の指揮に戻るとしましょう」

 設計図を手にし、漣もその場を後にしようとする。

「あ、待ってくれ漣。ちょっとその前に頼みたいことがあるんだが……」

 隆道が呼び止める。

「何でしょう?」

「まぁ大したことねーんだが…… あ、リョータは先に行って始めててくれ」

「え? あ、うん……」

 涼太郎の背を半ば追いやるようにすると、隆道は漣に小声で話しかけた。

 戸を閉め、隆道と漣を残すと潮人は渚に向き直った。

「渚。ここに来る前、何かあったのか?」

「えっ 何かって、何ですか?」

 一瞬だけ渚の身が引いた。

日向に来てもう一月が経とうとしている渚。次第に嘘の吐き方が上手くなっていたが、それでも潮人の目は誤魔化せない。

「それを訊いているんだが。浜から走ってきただろう。紫苑に何か言われたんじゃないのか?」

 浜辺での紫苑の瞳を思い出す。会合の間は漣の手前、聞きあぐねたがどうもあのときの紫苑の様子は気にかかる。

「あ、いえ…… その……」

 視線を落とし、渚は口ごもった。こんなときの渚は決まって何かを隠している。しかし、こう見えて渚の口は貝よりも固い。また、その殻を割ったとしても後悔してますます閉じこもろうとしてしまう。

 結果、潮人は渚の意思をそっと汲んでやることにした。

「まぁ、それ以上にいいことがあったみたいなのでな。そっちを聞きたいんだが」

「えっ? あ、あはは……」

 珍しく乾いた笑い。潮人の勘は冴えていた。しかし渚はぱっと顔を綻ばせ、

「ちょっと奈美ちゃんと話してたら、嬉しくなっちゃって」

 と舌を覗かせる。「いいこと」の方を思い出したようだ。

「あいつの子守りがまともに出来るのはお前くらいだからな。肩の荷が下りた気分だ」

 もし風子がこの場にいたならば、何も言わず頷いてくれていただろう。

「で、何を話していたんだ?」

「うーん。ちょっとね」

「教えてはくれないのか?」

「女の子には色々と秘密が多いものですよ」

 渚は片目を伏せ、人差し指で口を閉じてみせた。


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