第六章
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「よくやったな、潮人」
仲間らと共に櫓の建造に手を貸す潮人の背に、初老のものとは思えない逞しき声がかかった。
「お、親父?」
「大丈夫なんすか? こんなとこまで来ちゃって」
杖をつき、さらに二人の男に身体を支えられながら、ゆっくりと裕作は息子の元へと向かう。
「祭が始まる前に、話しておきたいことがあってな」
嬉々として話すその声に、潮人は一抹の不安を感じた。こんなときの裕作は、大抵ろくでもないことを口にする。
「えっと…… それじゃあ僕らも席外した方がいいですか?」
「いても構わんが、後で聞いた方が面白いと思うぞ?」
裕作は、涼太郎に少年のような笑顔で返した。潮人は重く溜め息をつく。先の予感は確実だろう。鬼魚が出るか海蛇が出るか。
「じゃ、決まりね。潮人、祈神祭のときにでも聞かせてね」
裕作の意を察したのか、風子は足早に背を向けようとする。
「えっ? 気になるから僕は今聞きたいなぁ……」
「馬鹿だねぇ。美味い肴は美味い酒と一緒に味わいたいでしょ?」
「もう。わかったよ」
風子に引っ張られるようにしながら、涼太郎らは去って行った。
「……ったく、俺をはめるときだけ一致団結すんなよな」
悪態をつく潮人。
「んで、話って何なんだ?」
「ふむ。実はな……」
風子の背が完全に見えなくなったのを確認し、裕作は言った。
「お前に、村長の任を譲り渡そうと思ってな」
……きた。やっぱりだ。潮人は頭を掻き毟る。
「何だってんだ。急に」
「理由など特にいらないだろう。いずれお前は儂からその座を継ぐ。それが早いか遅いかの違いだ」
「なら、遅いほうがいい」
裕作の顔は真摯なものだったが、その雰囲気には飲まれたくない。飲まれれば、その想いを真っ向から受け止めてしまうことになるからだ。
「いつまでも、子供じみたことを」
「そうだよ。俺はまだ未熟なんだ。だから村長だなんてまだ……」
「しかし、儂にはもう務まらないのでな」
潮人がちっ、と舌打ちする。もう既に、父の作り出す空気の中にいるのかもしれない。
「今回の武闘祭で、陸奥とはさらに交流が深まってゆくことだろう。陸奥の民には、こんな儂の姿などに長としての威厳など感じるものか。それに……」
ふっと、裕作の顔が翳る。
「手遅れにならんうちに、と思ったのでな」
切々と語る父の横顔を見て、潮人は夢想する。
こんなにも父は、小さかったか。
こんなにも父は、皺が多かったか。
こんなにも父は、痩せていたか。
こんなにも俺は、大きくなっていたか。
どれくらい経っただろうか。気がつくと、いつしか陽も暮れ始め、高らかな笛と太鼓の音が日向の空に谺し始めていた。夕陽に照らされた父の姿は、静かに佇む古木のようだった。
身を屈めながら咳き込む父の姿に、潮人は我に返った。
「け、けどそれだったら俺だって同じさ。こんな成人したばかりの青二才に、何が出来るってんだ。村の人達だって俺なんか……」
「それは違うな、潮人よ」
確信めいた、父の笑み。
「武闘祭のあの闘いを見た者なら、必ずやお前の後についてくるだろう」
「……ったく」
「それに、そこにいる不思議な娘もな」
「ひゃっ?」
裕作の向く木の陰から、間の抜けた声がする。
「えへへ…… こ、こんばんわぁ……」
「渚? 風子達と一緒だったんじゃないのか?」
「うん…… みんなはほっとけって言ってたんですけど、どうしても気になっちゃって……」
潮人は肩をすくめるが、追求する気もなかった。
「ではもう行くぞ。儂はこのことを皆に伝えなければならないのでな」
「な…… お、おい親父!」
毒づく潮人だったが、悩みは既に霧散していた気がする。
「潮人さん」
「ん?」
「村長さんに、なるんですね?」
「俺は承諾してない」
しかし、潮人は最後の反抗をする。それはむしろ、
「でもかっこいいですよ? 村長さんだなんて。私はなって欲しいかなあ、なんて……」
こうやって、渚に最後の一押しをして欲しかっただけかもしれない。
「そうだな」
渚のこんな顔を見ているとやっぱり、意地悪をしたくなる。
「お前が言うなら、なってもいいかな」
「えっ……?」
途端に、渚の顔が引き締まった。
「いやいやいや! そんな私の言ったことなんか気にしなくてもいいですよ? というか、そんなんで決めちゃったら責任重大……」
「そう。誰のためでもない。俺は渚のために村長になるんだ」
潮人なりの精一杯の誓い。それが渚にどう伝わったかはわからないが、渚の頬を真っ赤に茹で上がらせるには充分だったようだ。
「し、しししし潮人さん…… それって…… も、もう! からかわないで下さい!」
「からかってるように、見えるか?」
「ひゃあ……」
だが人目もあるせいだろうか、渚はなかなか素直になってくれない。それどころか……
「そ、それだったら……」
照れながらも珍しく渚は、反撃に移る。
「村長になりましたって、みんなにお披露目に行かなくちゃいけませんよね」
「なっ」
渚はぐいぐいと、潮人の腕を引っ張る。
「お、おい渚。ちょっと早まり過ぎじゃ……」
「いーんです! こういうのは早いほうがいいんですから。それにこんなお祭りの日じゃないと人が集まる機会なんてありませんよ?」
渚は太鼓を叩く村人を追い払い、潮人を櫓の上にまで押しやった。突然止まった音楽に皆が櫓を見上げ、辺りはざわついた。
「はぁ…… はぁ…… さて、潮人さん。もう逃げられませんよぉ? みんなの前でもう一度、宣言してもらいましょうか?」
「ふぅ…… わかったよ」
「えへへ」
しかし、やはり渚は潮人には勝てない。このまま潮人が渚の思惑通りになるはずもなかった。
「その代わり、お前も来るんだ!」
「へっ? わわわ!?」
半ば強引に手を引かれ、渚も櫓に上がった。その小さな肩を抱き寄せ、声を張り上げる。
「日向の者も陸奥の者も皆、聞いてくれ! 我が名は日向の村長駿河裕作が一子、駿河潮人!」
「はわわわわ……」
何事かと騒ぐ村民は、一様に潮人と、その傍らで縮こまる少女に目を見張った。
「四月前、俺は…… 鯨羅に敗北した」
皆が息を呑むのがわかった。そして、渚も不安そうな目で顔を覗き込んでくることも。
「未熟だった。愚かだった。慢心していた。そのせいで父は最早歩けない身体になり、多くの同胞を失い、皆に悲しみを与えてしまった……」
日向の者は顔を伏せ、また陸奥の者はそれを宥めるかのようにして視線をくべる。
「だが、俺は……」
「きゃっ」
渚を抱きかかえ、潮人は煌々(こうこう)と降る陽光を浴びせた。
「潮人さん」
「しっ、もっと堂々としてろ」
小声で交わしながら、微笑んでみせる潮人。
「この娘と出会い、そして心に再び誓うことが出来た! 鯨羅を…… あの憎き悪魔を必ずや滅ぼすと!」
ざわめきが歓声へと変わる。
「皆。もし俺みたいな未熟者でよかったら…… 力を貸してほしい」
対峙する者などいなかった。裕作の言うとおり、あの紫苑との戦いを見たものの誰が、潮人の威厳を疑うことが出来ようか。
かくして潮人は、日向を統べる者となった。
裕作が一人、小さな咳を零す。そのあまりにも細い咽びは、祭りの喧騒に掻き消され誰の耳にも届かない。
祈神祭はいつにない盛り上がりを見せていた。異例の武闘祭や新村長就任のせいもあったが、日向だけではなく陸奥の村民も参加していたからだ。
櫓の周りでは、陸奥が見たこともない舞いを披露し、日向もまたこの日のために捕った数多くの馳走を惜しげもなく振舞った。血束の儀を交す姿もあちこちで見受けられた。ただたとえ「血束」を交したとしても、紫苑に対する視線がすぐに和らぐわけではなかった。直接糾弾があったわけではないが、動揺は日向だけではなく今まで統べていたはずの陸奥にまで広がっている。
だが紫苑はそれらから逃れようとは思わなかった。これからは力ではなく、信頼によって村人達と接していかなければならない。
潮人もまた、陸奥の民に見定められることを意識していた。ただ恐らくは潮人の場合、時間の経過によってその器量が自然と認められていくだろうが、紫苑に関してはそう簡単に事は進まない。罪を許すことと忘れることは、似て非なるものなのだ。
このときまで、潮人は二つのことを失念していた。たとえ紫苑の「才」が強力であるからとはいえ、一月足らずであそこまで村民を統べられるものなのか。
そしてもう一つ。
「兄様」
「ん、何だ紫舜?」
腕を組み、ただ時を過ぎていた紫苑だったが、妹の声に意識を取り戻した。
「あの、久しぶりに弾こうかなと思ったのですけれど……」
「そうだな…… こんな日くらいはいいかもな」
しばし迷った後、紫苑はそう応えていた。同時に、紫舜の顔がぱっと輝く。
「ありがとうございます、兄様! 私、早速琴を……」
「待て。紫舜」
走り出しそうになる紫舜の腕をさっと掴む。
「琴ならもう持って来てあるさ」
と、紫苑はそのまま琴の立てかけてある木の下へと紫舜を導く。琴の包みを手で触れると、驚いたように紫舜は兄を見上げた。
「え…… どうして?」
「こんな日には決まってお前は弾きたいって言い出すからな」
半ば照れながら紫苑は鼻を掻いた。
「あ、は、はい!」
「けど、今の祭囃子が終わって少し経ってからに……」
と、言いかけている間に、流れていた笛や太鼓の音が静まり拍手が巻き起こった。
「終わったみたいですね」
「……だな」
少しだけ、紫舜の目が閉じられていることに感謝した。こんなきまりの悪い顔をしている自分を見られたくはない。
「それじゃ、ちょっと尋ねてきますね」
紫舜は杖も放っておきそうな勢いで小走りに去った。それでも琴はしっかりと抱えていることに、紫苑は思わず吹き出してしそうになる。
少女の走り去るその背を眺めながら、入れ替わりに潮人と渚が顔を見せた。
「よっ、村長。それと御新造さん」
「かっ…… かみさ……」
「からかうなよ」
まだ慣れない呼称だったが、少し酒の回っている身だとあまり気にならなかった。それよりも、紫苑ともう軽口を叩けるようになったのが、嬉しかった。
「紫舜があんな娘だとはな。少し驚いたぞ」
「普段は過ぎるくらいに大人しいやつなんだがな」
「なんかいいことでもあったのか?」
「別に。ただ琴を弾きたがっていたから、それを許しただけさ」
「琴?」
「そう。武闘祭では露見する機会もなかったがな。紫舜の『才』は琴なんだ」
杯を干す紫苑の顔が何となく誇らしげなものに変わる。
「琴? えっ、うそ 聞いてみたい!」
「あの娘らしい良い『才』じゃないか。弓を引かせるよりはよっぽど似合ってる」
「良い『才』ね…… ま、そうかもな」
歯切れの悪い返事だったが、潮人はそれを逃さない。
「何かありそうだな」
紫苑は目を伏せた。潮人でなくとも、その翳りは察することが出来るだろう。
「いや、気にしないでくれ。取るに足らない話だ」
空になった杯を手で弄ぶ。と、そこへ、高い鳥の鳴き声のような音が鳴り響いた。美しい、あまりにも美しい音色だった。
「気の早いやつだな。もう調弦を済ませたか」
波の音に紛れるあまりにも自然に溶け込んでいる旋律が、祭囃子に代わって流れる。周りの喧騒も次第に止んでいき、皆がその琴の調べに耳を傾けていた。見ると、櫓の前で紫舜が腰を下ろし、自分の身長ほどもある白銀の琴に指を滑らせていた。
「綺麗……」
渚はぱっと顔を輝かせたかと思うと、魅きつけられるように紫舜のもとへと向かう。
「おい。行っちまったぞ」
紫苑の問いに、潮人は返さない。ただそれは、紫舜の琴に耳を奪われただけでは、決してなかった。
やがて琴の音色に乗せられながら、渚の歌が始まる。
その調和は、まさに神の織り成す業だった。世界に人間の住む前からそこにあったような歌。耳にしたこともないはずなのに懐かしさが込み上げ、神海に住む己の運命に感謝を覚える。泣いていた童も安らかに眠り、酒に浸る若者もそれ以上の美歌に酔いしれる。
ただそこには、他の聴衆とは異なった驚きに思考を支配される男が二人、いた。
潮人は紫舜に、紫苑は渚に。
自分だけが知っているはずの歌を。
人の心にここまで感銘を与えられる曲を。
他にも奏でられる少女がいたのか、と。
「潮人…… あの娘は一体……」
紫苑は潮人の目を覗き込む。同じ疑問を、潮人も抱いていることには気づかない。
「実は、俺にもよくわからないんだ。渚のことは」
「どういうことだ?」
一呼吸の後、潮人が言った、
「渚は、日向の出身というわけではないんだ」
紫苑の眉がすっと潜められた。間もなく、潮人は続ける。
「……なぁ、紫苑。俺にも聞かせてくれないか? お前らの故郷の話、それに、何故鯨羅を追っているのか……」
今再び、渚と出会った頃の好奇心が蘇る。似た「才」を持つ紫舜のことを深く辿っていけば、渚を知る糸口になるかもしれない。
「お前でもうろたえたりすることがあるんだな。汗まみれだぜ?」
紫苑の問いかけにも、潮人は応えなかった。応えられなかった。
ただ、渚があまりにも遠いところにいるような、そんな気がして。
『何だか潮人さんって、海月みたいですね。まるで捉えどころがないんですもん』
そんな風に渚のはにかむ顔を思い出していた。
やっぱり、お前の方が海月みたいだぞ。
喉を突く言葉も、渚には聞こえるはずもない。
「まあいい。支那の話をするのは別に構わないが、場所を変えたいな」
「ああ。でも何故?」
「紫舜には聞かれたくないこともあるんでな」
歌はまだ、村中に響き渡っている。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「……ったく、結局今期は誰とも戦えなかったぜ」
隆道は酒を煽りながらも、人々の喜びに反するかのように悪態をついていた。
「いいじゃない、またすぐ次がくるってば。あ、この木の実すっごく美味しい!」
「……ったく、リョータはいい気なもんだぜ。珍しい飯がありゃ幸せなんだもんなぁ」
隆道は溜め息をつきながら手酌する。
「そんな、人を食いしん坊みたいに言わないでよ。だってこんなご馳走食べられるなんて滅多にないじゃない」
「そうそう。それに戦ったってどうせ隆道は姉さんか潮人にゃ負けちゃうんだからさ」
涼太郎の背後からひょっこりと奈美が顔を出した。
「けっ! 小うるせえ奴が来やがった」
「自分で酌するなんて相変わらず寂しいね。隆道は」
「何ら? おめわざわじゃ喧嘩売りに来らんか」
すでに酒が回っているせいか、少しばかり呂律が怪しい。
「まさか。ウチはちょっといい話持ってきただけよ。隆道は聞いておいた方がいいと思うけどなぁ……」
「は? 情報らと?」
充血した目でしたり顔の奈美を見上げる。
「そ。さっき向こうの方で姉さんと漣さんが二人っきりになってたよ」
「お前、あんな奴らのこともう名前で呼んでんのか?」
「いーじゃん。『血束』も済ませたし、いつまでもこだわってたら損じゃない」
「ふぇっ! そういうもんかれぇ」
ふてぶてしく唾を吐く隆道に、奈美の不可解な笑顔が向けられた。
「隆道はぁ、別の理由で漣さんが気に入らないんじゃないのぉ?」
「あ?」
「だから、姉さんと仲良くしてんのが嫌なんじゃないのかってことぉ」
「ばーーーか! 何れそれれ俺が腹立てなきゃいけねーんらよ」
瓢箪のまま酒を流し込み、隆道は腰を上げる。
「あれ? どこ行くの隆道?」
「うっせ! 少なくとも奈美のいねーとこだよ。酒がまずくなるかんな。行くぞ鳳……」
隆道の呼びかけも途中で止まる。鳳華は涼太郎の膝元で鷹莱鹿の丸焼きに顔を突っ込み、肉を啄ばんでいた。こうなってしまってはいかに隆道といえども鳳華を引き離せない。
「けっ! どいつもこいつも……」
悪態をつきながら隆道は海岸の方へ足を向けた。口調のわりには随分足はまともなんだな、と涼太郎は思った。
「にひひ。一気に酔いが冷めたみたい」
「もう。奈美も意地悪なんだから」
「リョータも人聞きが悪いなあ。ウチはただいつも通り隆道と喋ってただけだよ? それに、なんか面白いことが起こりそうじゃない?」
口笛混じりに奈美は言う。
「奈美の方こそ、これからは本当に漣さん達とは仲良くしなきゃ駄目だよ」
一瞬だけ口笛が止まったが、すぐに奈美は薄い笑みをこぼした。
「……やっぱリョータには隠し事は出来ないね。うん、もう『血束』を交したなんて嘘。それどころか、これから陸奥の人達と仲良くする自信なんて…… ないよ」
「無理に、とは言わないよ。僕もあまり人付き合いが上手な方じゃないからさ。奈美の気持ちはすごくわかる」
手にしていた木の実の皿をそっと置く。
「潮人はすごいよね。渚ともすぐ仲良くなっちゃうし。紫苑とかもさ、ついさっきまで殺されそうになってたのに『血束』を交せるなんて」
祭囃子の響く中、涼太郎は波音が静かに音色を変えたのを知る。そして、
「なんだか潮人が、遠くに行っちゃう感じ」
目の前の少女もまた、胸をさざめかせる。
「奈美はさ、その……」
神海には、どうして波が起こるのだろう。
「ん、何?」
日向には、こんな恋歌があった。
「潮人のことが…… 好きなの?」
海に住む神が大地に憧れ、手を伸ばしている。
「……え?」
何度も何度も、想いに焦がれながら。
「ううん。そんなんじゃないよ、きっと」
引っ込み思案の大地は、そんな海の想いになかなか答えることは出来ずにいて。
「兄貴みたいな感じ、かな。そりゃあよく頼っちゃったりはしてるけど、好きとか、そんなんじゃないと思う……」
波が寄せて来るのを、動かず眺めることしか出来なくて。
「渚がいつも潮人の周りにいつも居て、ついには村長にまでなっちゃって、ウチからどんどん離れて行くのは少し寂しいなって…… ただ、それだけ」
波が穏やかになった日も。
「でもさ、隆道みたいな馬鹿でからかい甲斐のある奴もいるし、姉さんもいつもいてくれるし。ちょっと口うるさいけどね」
嵐で海が荒れる日も。
「それに……」
大地は変わらぬ笑顔で見守るだけ。
「リョータは変わらないでいてくれるじゃん」
そんな波立つ海の上に、
「……そう、だね」
大地は浮かんでいる。
「僕はこれからも、ずっと変わらないよ」
涼太郎は拳を握り締め、思った。
「そうだよね…… うん」
想いを寄せられ、支えてもらうだけの大地のようにはなりたくない、と。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「探しましたよ」
漣は松の木陰で剛雷を磨く風子に声をかけた。
「ん? 何か用?」
「ええ。少しお話を、と思いまして」
振り返る風子の傍らに、漣は腰を下ろした。
「何をなさっているんですか?」
「見ての通りだよ。本当は祭りの輪に加わりたいんだけど、リョータと渚が酒は傷に障るってうるさいからさ」
漣は何も返さなかった。
「気にしないでよ。前にちょっと飲み過ぎてた時期があったからさ。その分禁酒してると思えばいい」
「ありがとうございます」
言葉だけで漣は頭を下げる。
「あんたは? 酒は嫌いなのか?」
「多少は口にしましたが…… 元々小食の性質でして」
「それはあんま関係ないと思うけど」
手を止め、風子は言った。
「で、何なの? 探してまで私の傷を謝りに来たわけじゃないでしょ?」
「いえ、それだけですよ。と言うより、駿河様と渚様、それに貴女くらいしか話せそうな人はいないので」
漣が口に手を当て笑う。いちいち仕草が上品な奴だと思った。
「正直な男だね。あとリョータ辺りも気は合いそうだけどね、あんたとなら。でも私には、あんま深入りしない方がいいと思うよ」
「ほう。何故です?」
「私はあんたの姉さんじゃないんだから」
かなり辛辣な言葉を浴びせたつもりだった。だが漣は表情一つ変えない。ただ、胸元の貝殻をそっと撫でたのを除いて。
「私が、貴女をそんな風に見ていると?」
「何となくね。どんな人だったかは知らないけど」
「……そうですね。槍を振り回すほどは暴力的ではありませんでした」
風子は目を細める。目の前の男は単なる朴念仁かと思いきや、そうでもないらしい。真面目なことには変わらないのだが、少なくとも漣の仕える紫苑よりは単純ではないらしい。むしろ人との駆け引きには慣れているような、それでいて嘘はついても下手な隠し事はしない器用さも持ち合わせている。
確信はないが、風子の目にはそのように映った。でなければ、
「……ねぇ、もし良ければ聞かせてくんない? あんたの姉さんって、どんな人なの?」
「聞いてどうするんですか?」
「酒はないけど、今晩見る夢の肴にはなるでしょ」
決して冗談や皮肉などは言えないはずだ。
「……わかりました。いい機会ですから、支那のこともお話しておきましょう」
漣は膝を崩し、語り始める。
支那の地が果たして日向から何百里離れているのか。それは最早漣にもわからないという。それほどの長い道のりを、三人は旅してきたのだった。
日向や陸奥のような村とは異なり、支那は国と呼べるほどの規模を持っており、共通点と言えば海に面していることくらいしかなかった。
元来播磨の名は支那の王族を示すものであり、紫苑も例に漏れず、父の次に玉座に座ることを約束されていた。
代々天草家は播磨と友好関係にあったため、政の補佐として播磨に仕えていた。ちょうど紫苑と同じ年であった漣は、従者というより友人として紫苑と接するよう父に命じられていた。紫苑の父である王の望みでもあったのであろう。
「へぇ、あいつが王族の坊ちゃんね。確かにわがままに育てられた感はあるわね。でも日向は内陸とは山で隔てられてるし、基本的に自給自足の村だから『国』なんて言われてもよくわかんない」
「規模の違いがあるだけですよ。何か問題があったときは王を中心として皆で相談し、解決する。税を取ったりすることもありませんでしたし、日向と同じように王が民と一緒に漁に出ていたりもしましたよ」
「そんなことよりさ」
風子が大きな欠伸をする。
「漣の姉さんが、まだ出てきてないんだけど?」
「せっかちな女性ですね」
ふぅ、と息を漏らし、漣は言った。
「一言で言うと姉は…… 天草琳はとても男性的な女性でした」
また漣が貝殻に手をやる。
「漁ではいつも紫苑や私を差し置いて一番網をいっぱいにしてきていました。播磨に仕える身でありながらも国の男に弓や棍の手合いを挑まれ、退けたことは数知れず。母に何度も自粛しなさいと怒られては、その腹いせに今度は姉の方から男に喧嘩を吹っかけてましたね」
「なんか、すごく私とは気が合いそう」
苦笑する風子に、漣は続けた。
「ですが私や紫苑にはとても優しく接してくれました。幼少の頃はいたずらの絶えない紫苑や私にいつも付き合ってくれながらも、姉上には内緒で舟を持ち出したときには本気で叱ってくれました。私に弓の指導をしてくれたのも姉だったのです」
「……ねぇ。さっきから気になってたんだけどさ」
風子は漣の目を見つめる。髪と同じく漆黒の美を兼ねた瞳だった。
「支那も鯨羅に襲われた。そして移動する鯨羅を追って、もしくは力を集めるためにあんたらは旅をしてきた。そこまでは合ってるわよね」
「はい」
「じゃあ何で、今ここに琳さんはいないの?」
郷愁の想いが、漣の胸の内にはあった。それはすぐに風子も察することが出来た。だが故郷を振り返っている、というだけでは、漣の全身から放たれる言いようのない寂しさは説明できない。
そして、紫苑が修羅と化したその理由も。
紫舜の話は渚を介し、風子の耳にも届いていた。風子にとって、そこから支那の三人に何が起こったのか予想するのは、さほど造作もないことではあった。だから全て気づかない振りをしていたに過ぎない。
だが、風子はどうしても漣の口から聞いておきたかったのだ。
「……姉は鯨羅に殺された者の一人です。そして、紫苑の婚約者でした」
彼らの無念を共に背負うために。
共に鯨羅と戦う仲間として、手を取り合うために。
風子は決して宥めるような真似はしない。漣の心を癒すのは鯨羅を倒す、ということだけだ。ならば風子の成すべきは、そのための雷になることだけ。それが叶ったとき、風子は再び一陣の風へと戻ることだろう。
「……さて、いつまでそんなとこに隠れてんだ?」
風子が木陰を振り返り、呆れたように言った。
「悪ぃ。立ち聞きするつもりはなかったんだが」
隆道がばつの悪そうな顔で、姿を現す。
「なぁ、天草よぉ…… その……」
「漣、で構いませんよ。そして、ありがとうございます」
破顔し、漣が言った。
「な、なに礼なんて言ってんだ?」
「私の過去を案じてくださっているのでしょう。けれど言葉を探しあぐねている。その気持ちだけで充分感謝いたしますよ。隆道殿」
「ど、殿って…… ちょっとその呼び方はやめねぇか……?」
「すみません。性分なもので」
何も言えず、どんどん話を進められている隆道の慌てように、思わず風子が吹き出した。
「けど正直さ、お前や紫苑が仲間になってくれんのは、俺達にとってもありがたいよな。今までは潮人やおやっさんだけに頼っちまったけど、今度は俺たちが……」
「ええ。こちらこそよろしく頼みます」
二人がそれぞれ親指を噛み、合わせる。そんな光景を前に風子は、
「……けど、隆道ももう少し腕を磨いた方がいいかもな」
うすら寒さを覚えた。本人同士は輝かんばかりの男の友情を深めたつもりかもしれないが、目の前でそんな暑苦しい真似をされてはたまらない。
「……んだと?」
「そうだ隆道、漣に弓を見てもらったら? そうすれば少しはあんたも戦力になるかもね」
隆道がすっ、と棍を取り出した。
「構えな、風子。九十八戦目だ」
「そんな酒の入った身体でやろうっての? みすみす白星を逃すわよ」
「手負いのお前にはちょうどいいさ」
「そうね。さっさと終わらせるにはちょうどいいかもね」
その言葉を合図に、隆道が飛び掛ってきた。剛雷を拾うまでもなく、素手で棍を捌く。
「ごめん、漣! 多分一杯引っ掛ける間に終わるから、ちょっと待って!」
横目で漣を見ながらも、隆道にもう蹴りを三発ほど入れていた。
「面白い人達ですね。本当に」
腰を下ろし、漣は携えていた瓢箪に手をかけた。
「今宵はもう少しくらい飲んでみるのもいいかもしれませんね」
隆道の呻き声を聞きながら、漣は一人、酒に浸り始めた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
そんな喧騒から少し離れた木陰でのこと。
潮人は全てを話していた。
渚が日向の者ではないこと。正体を探れば魚のようにするりと手元を逃れてしまうこと。「血束」に敏感に反応し、誰とも交さないようにしていること。
そしてあの人間離れした歌…… たとえ「才」に恵まれていようとも、あんな神がかった歌を歌えるものなのだろうか。
一頻り話を聞くと、紫苑は顎をさすりながら口ごもった。
「なるほどな……」
「おい、一人で納得してないで話してくれよ」
「悪い。ただいっぺんに色んなこと聞いたからな。頭が回らなくて」
紫苑は琥珀の首飾りを指で弾く。
「解釈はおいといて、まずは事実から話そうか」
紫苑は、漣が風子に語ったのと同じように、今日までのいきさつを話した。同情をかうわけでも、鯨羅への憎しみを代わりに叩きつけるようでもなく、ただ小さい頃に親に聞かされた物語を思い起こすかのように、淡々と言葉を織り成す。
潮人もまた眉一つ動かさず、紫苑の話を聞いていた。
遠くに聴こえる渚の歌が、二つほど物語を奏でた頃だろうか。紫苑は瓢箪からそのまま酒を喉に流し込んだ。
「本当に潮人に聞いてもらいたいのは、ここからだ」
紫苑の翳る目を見たのは初めてだった。憎悪に満ちているわけでもなく、強い意志を秘めているわけでもない。ただ淋しそうに、悲しそうに潮人には映った。
「紫舜は、俺の本当の妹ではないかもしれない」
切々と紫苑は語る。
物心がついた頃には既に存在していた妹。だが黄金色の髪と瞳を持つ播磨の血筋からは、紫舜のそれは考えられない異形のものだった。子供心にも紫舜の出生を疑うのは決して難しいことではなかった。だが兄である自分を盲目の身で必死について回り、決して紫苑や漣、その姉である琳以外には心を開かない姿に、紫苑はある種の独占欲が沸いたのであろう。
こうして自分を慕ってくれている。それだけでいいのではないか、と。
王族であることもあり、他者と接することがなくても紫舜の生活に不自由はない。ならばいずれ王になり、紫舜をこれからも守っていけばいい。
「少し過保護すぎるか?」
「可愛がるのはいいとは思うが。だがちゃんと紫舜の意思も尊重してやらねばな。兄に自分の考えを言えないようでは窮屈だろう」
潮人は暗に、雨の降る夜単身で紫舜が日向を訪ねた日のことを指した。
「耳が痛いな」
さらに紫苑の想いが過剰になったのは、紫舜が琴を弾くのを聴いたその日からだった。母から授かりでもしたのか、それまで紫舜のそんな姿は見たこともなかった。いつの間にか、妹が好きな何かを見つけたというのは、無論兄として喜ばしいことであった。
だがやはり今まであったものが離れてしまうのは淋しかったのであろう。川に魚を採りに行っても、岸辺で待っていてくれたその姿がなくなってしまう。一人にさせていたのは辛かったが、自分が一人になるのはもっと嫌だ。我侭ながら、それが紫苑の本音であったことだろう。
ある日、琴を弾く紫舜の部屋の扉を開けても、紫舜はそれに気づかず弦に指を滑らせていたことがあった。
そのときの感動を思い起こすと、紫苑は今でも身体が震え出すのを止められないという。
紫苑はそれまでにも、旅の雅楽団の演奏や、名高い詩人の歌を聞いたことがあった。子供には退屈なものではあったが、それらが一流の演奏であったことだけは理解出来るほどの耳を持ち得ていた。だが今までに、音に身を晒しただけでこうして涙がこぼれ出すようなことなどなかった。
紫苑が嗚咽ともとれる呻き声を上げると、紫舜は初めて兄の存在に気づいた。
「あ…… 兄様、いらしていたんですか」
その瞼を下ろしたいつもの笑顔に紫苑は、
「ど、どうしたんですか? 兄様」
妹を抱きしめずにはいられなかった。
こんな素晴らしい旋律を生み出す妹への愛しさ、誇らしさ、
そして…… 一抹の恐怖と疑惑。
母に、このような音楽の「才」などなかった。ではこの人間離れともいえる美しい曲は、文字通り天賦の才の成し得る業なのだろうか。
では、やはり紫舜は播磨の血を引く人間ではないのか。
いや、そもそも何故紫舜はここにいるのだ? 母はいつ紫舜を産んだ? 播磨家の本来の「才」は何なのだ?
様々な思いが浮かび、そして紫舜の戸惑う顔を見るとまた一瞬にして弾け飛んだ。
「いや…… なんでもない」
紫舜の顔をこれ以上曇らせたくなかった。同時に、紫舜に抱く疑念を勘づかれたくなかった。
しかし、紫苑は一つだけ本能的に悟ったことがあった。
あの琴は俺を狂わせる。
「それから俺は、紫舜の部屋の壁を厚くするよう手配し、決して人には聴かせるなと念を押したんだ」
そのときの行動だけは潮人も賛同した。
渚の歌を聴いて、いつも思うことがある。
この歌は、人の心を惑わすのではないか。
人智を超える存在に恐怖する。それは人として生きる者にはごく当たり前のことであった。
もっと聴きたい、と心を促す渚の歌は、あまりにも危険である。
そう結論づけた潮人にも、ある種の独占欲が働いているのかもしれないが。
支那と日向、二つの地に共通する因縁。それが何を意味しているのかは、二人にはわからなかった。
ただ、潮人は初めて出会った渚の顔を思い浮かべていた。そして、次に渚が涙を見せる日が永遠に来なければいいと、切に願い、夜は更けていった。




