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第五章

       ◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 陸奥の村はひっそりと静まり返っていた。日向の村も、人など住んでいないかのように寂寥(せきりょう)としている。

 陽も天頂に差し掛かった頃、とある男が家の戸を蹴破り、駆け出した。向かうはつい先日建てられたばかりの巨大な櫓。辿り着いてみるとそこには溢れんばかりの人の群れ。たった二つの村にこれほどまでの人間が集約されていたのかと気づかされる者も、決して少なくはなかっただろう。

 そこに集まる全ての人間が、固唾を飲んで時を待つ異様な緊張感が漂う。

そしてその人の輪の中心には、

「……さて、そろそろだぞ。準備はいいか」

 革鎧に身を包んだ日向の若者と、

「いつでも」

「いい加減待ちくたびれちまったぜ、俺は」

 最も信頼する、その仲間が二人。

 対して、円の向かいには、

「ふん、こんな闘技場を作るとはな。日向の連中も味な真似をする」

「紫苑。あれは使うのですか?」

「その必要もないだろう。日向の腰抜け相手ならな」

 黄金と黒の、正反対の髪をした男が座していた。

 武闘祭も今回で七十を超えるほどの齢を重ねていた。だが他村の村を交え、しかも長の任を賭けた戦いなど前代未聞のことであった。しかし潮人は前言を撤回することなどない。例年通り、儀式は始まる。互いの尊厳と、意志を賭けて。

 祭装束に身を包んだ男女が闘場の上で舞い、塩を撒き、場を清める。そして男が神海に向かって愁雪鳥(しゅうせつちょう)を飛ばすと、

「それでは第一の闘者、前へ!」

 大歓声と共に、戦いの幕が開かれる。

「さて、最初は俺から行かせてもらうぜ」

 指笛と共に隆道が立ち上がった。鳳華を肩に乗せ、舞台へと向かおうとする。が、

「若狭風子!」

 既に闘場の中央に屹立していた男が、声高らかに叫んでいた。

「私は貴女との勝負を望みます! 決して命までは取らぬことを約束しましょう!」

 天草漣。彼の日と同じく、漆黒の長い髪が漣に代わって妖しい光を放つ。いや、唯一違うのは腕と同じくらいの長さの布包みを抱えていたことか。

 漣は二人目だと踏んでいたため、風子は思わず呆然とするがそれも束の間、

「悪いね、隆道。ご指名みたい」

 剛雷を携え、闘場へと跳んだ。

「お、おい! 待てよ風……」

「隆道。行かせてやれ」

 隆道の肩を掴む潮人。風子は音もなく闘場に着地し、親指を立ててみせた。それを見た隆道には、今の風子を止める道理も術もない。

「弓は使わないのか?」

「……何故それを」

 言い淀み、漣は素早く察した。

「紫舜様ですね」

「すまないね。代わりと言っちゃなんだけど、私も切り札を先に見せとくよ」

 そう言って風子は、背に回しつつも隠しきれていない巨槍を漣の目に曝け出す。

「剛雷って言うんだ。覚えといてね」

「なるほど、ならばこちらも合間見えていただかないと、礼に反しますな」

 漣は包みを剥ぎ取り、陽を浴びせるべくそれを掲げた。

「愛弓、夜糞峰榛(よぐそみねばり)です。普段はその材料となる木から、(あずさ)と呼んでいますけれども」

 それは複雑な湾曲を見せる半弓だった。「才」に恵まれた漣以外には、当てるどころか矢を(つが)えるのも困難であろう。その弓身に張られるのは、光を透し、触れただけで指すら切り落とすのではと錯覚する、細く透明な弦。

「ふーん…… お互い、切り札は出す前に終わらせたいもんだね」

「ええ、そう願いたいものです」

 言いながら漣は胸元から一輪の花を取り出した。いや、正確に言えば花の形をあしらった、小さな貝殻の首飾りだった。それを硬く握り締め目を閉じると、祈るように空に向かって何かを呟き、また懐にしまい込んだ。

「へぇ、可愛い趣味してんじゃん」

「ご賞賛ありがたく受け入ります」

 戦いの前の精神統一であることはすぐにわかった。同時にそれ以上の想いが秘められていることも。

 胸元は狙わないでおくか、と風子が考えていると、

「余計な配慮は無用です。全力でかかってきなさい」

 鋭い視線が風子を貫いた。

「……後悔はしないでね」

 風子の嘆息を最後に、辺りは静まり返った。

 二人はそれぞれ棍を取り出し、相対する。

 陽は天の頂からやや足を踏み外し、風すらも吹きつけない。

 風子の首筋に汗が滲む。漣の眉が微かに歪む。

 漣が棍を握り直した、その刹那、

「せりゃああ!」

 風子が咆哮を上げ、地を蹴った。射程に飛び込むまで瞬き三つほどの間も(よう)さず、漣の顔面目がけて連撃を繰り出す。だが漣のもとにまで届くのは一撃もなかった。残像を残すほどの風子の棍であったが、全て漣の棍や蹴りによって相殺されていた。そして、

「ぬんっ!」

 寸分狂わず風子の手元を狙った、漣の突き。

「くっ……」

 親指を打たれ、風子の手が止む。漣がそれを見逃すはずはない。すかさず風子の腹に二段目を入れる。

「くはっ!」

 嘔吐を覚える衝撃が風子を襲った。たまらず膝をつくが、風子もただでは怯まない。左腕でしっかりと漣の棍を巻き込んでいた。

「……悪いね。とりあえずあんたの武器は頂いとくよ!」

 手刀で棍を叩き折ろうとする風子。漣は手を引くがびくともしない。しかし、漣の判断は速かった。駆け寄って風子の肩を突き放すように蹴りを入れた。風子の腕が緩み、棍が引き抜かれる。

「せいやっ!」

 返しながらそのまま上段から棍を振り下ろした。風子は地を転がり、それを躱しながら距離をとった。

 起き上がらせる間もなく、漣が駆ける。風子は両腕で後方に飛び退き、構えを取る。が、漣の姿はない。普通の者なら起き上がったところで敵の姿が消えれば少なからず動揺を見せるが、風子は経験的に知っていた。神隠しでもあるまいに、人間が消えるはずはあるまい。素早く棍を頭上に突き上げる。

「よく気づきましたね」

「隆道もよく使う手だからね!」

 ここで風子が反撃に移ったのは漣にとっても誤算だっただろう。天高く舞い上がり、棍に全体重をかけ降来していた漣に鎖骨への一撃を躱す術はない…… はずだった。しかし漣は一つも焦りを見せず、風子の棍の先端を掴む。

「なっ……!?」

棒の上に倒立したまま漣は、自らの棍を風子の側頭部に叩きつけた。

「ぐはっ……」

「いい判断でした」

 棍を放し、再び地を転がる風子に、漣は吐き捨てるように言った。

 時間にして、僅か十秒にも達しない攻防。それだけで差は歴然としていた。

「おい潮人。風子のやつ何をあんなに焦ってんだ?」

隆道にもそれは映ってしまったようだ。いや、隆道でなくとも既に肩で息をしている風子と、まだ服に砂一つつけていない漣を見れば、自然とわかってしまう。

「いつものあいつなら、もっと相手のことを出し抜いてやれるはずなのに」

 普段から風子と手合わせをし、歯を噛まされている隆道にとっては、風子の行動が全て空回りしているように映った。

「なんか調子でも悪いんじゃ……」

「いや。風子の動きはむしろ普段よりも速いくらいだ。それに威力もな」

 潮人が横目で隆道を見る。

「ってことは……」

「風子は認めたがらないだろうが、あの漣という男。恐らくは風子よりも……」

 そこで潮人は口を噤んだ。

 もしくは、認めてしまっているから、漣の上を行くことが出来ないのであろうか。以前全く手を出せなかった風子の心を占めるのは、恐怖心と先入観。それをたったこの七日間で克服するのは難しい。

 ざざっ、と地を滑る音がした。目を離している隙にも、風子が再び地に伏せられている。

「貴女は、なかなかの腕を持っていると思っていたのですが……」

 漣の瞳に浮かび上がるのは、引き上げた網に魚がかかっていなかったが如き、落胆の影だった。

 その瞳に気づき、ゆらり、と風子が立ち上がる。

どこかで雷が鳴ったかと、漣は錯覚した。

「ふぅ。私はいつも、隆道にこんな思いをさせてたんだね……」

 もう隆道をからかうのは控えておこうかな、と風子は思った。

 そしてふと、以前隆道に言った言葉を思い返す。

『一撃でズバンと来なよ!』

 あれは間違いであったな、と風子は笑う。

「あんたにゃ、そんな戦い方は無理だよねぇ。あれは……」

 敗北を、自らの弱さを知ってしまった者の取るべき道は二つ。そのまま潰れるか、それとも……


「力で押さえるのは、私のやり方だって」


 闘志を再燃し、(はだか)る壁を打ち砕くか、だ。

 風子が剛雷を手に取った。


「……やば。姉さんがキレた」

 人の群れの中で、微かに奈美が呟いた。

 ぞくり、と漣の背に震えが走る。

「先に手の内を曝け出すのは好きじゃないんだけど……」

 風は、常に捉えられてはいけない。それが風子の性分であり、生き方であった。

 しかし剛雷を手にしたこの瞬間、風子は風であることをやめ、


「漣。あんたなら、うまく避けられるよねぇ……?」


 一筋の雷になる。

「これは……!?」

 まず漣の常識を超えたのは、あれほどまでの剛槍を抱えながらも、先程までと変わらぬ、いや、それ以上の速さで駆けられることであった。風子は穂先を前に突き出し、突進してくる。上に跳び、やり過ごそうかと足を溜めた漣を次に裏切ったのは、剛雷を勢いよく振り上げ、口元を歪める風子だった。

 突きではなく、袈裟懸け。

「残念。読みが外れたね」

 最後に、その巨大さに似合わない速さで地に叩きつけられる、鈍い金属の塊。

「みんな! 伏せろおぉ!!」

 潮人の叫びと共に、轟音と土煙が舞う。爆風が吹き(すさ)び、石片が飛ぶその様はまさに落雷の衝撃そのものだった。周りで見ている村民は耳を塞ぎ、子連れの母は子を庇い、悲鳴をあげながら倒れこんだ。

「あの馬鹿…… 少しは加減を知れ!」

 事態を予測していた潮人は腕で顔を覆い、辺りを見回す。土砂の煙幕の中、やはり涼太郎や奈美などは爆風に備えていたためか、咳き込みながらも辺りを見回していたようだった。

 煙幕が晴れ、闘場に残されたのは、

「さっすが、ね」

 風子を中心にぽっかりと大口を開けた土床と、闘場の端の壁際で、まだ腕を十字に組んでいる漣だった。壁まで吹き飛ばされたかと案じたが、目が合うや否やすぐさま構えを取る漣に、風子は胸を撫で下ろした。衝撃の寸前に、漣は自ら後ろに跳んでいたのである。

「これほどまでとは……」

 直接剛雷の槍身には触れなかったものの、石片や砂塵が近距離で襲ったのだろう。服のあちこちが破れ、出血していた。

「一つ訊きたいのですが……」

 腕を押さえ、漣が言った。

「もし私が避けられなかったら……」

「避けられないようなやつに、剛雷は使わないわ」

 ふっ、と息を漏らし、漣は背に手を伸ばす。

「では私も、貴女が避けられると信じましょう……」

 漣の髪と同じ、黒く妖しげな光彩を放つ樹木の枝。梓と呼ばれた弓が、漣の手に収まった。今度は漣の番だった。

「忠告します。これから私は貴女の右肩を狙います。矢を持つ手が開いた、と思った瞬間に左に飛んでください」

 矢を弓に(つが)え、静かに漣は言った。

「なに? 撹乱させようっての? 悪いけどそんな手には……」

「つまらないことは考えないことです。嘘などは言いません。私は貴女を射抜きたくないだけです」

 風子はそっと腰に下げた木の盾に手をかける。

「防ごうと思っても無駄ですよ。この矢の前には銅や鉄でさえ貫通することなど造作もないことなので」

「……言うことを聞くしかないってことね」

 剛雷を地に刺し、風子は腰を落とした。漣の言葉通り左に飛ぶべく力を溜める。きりきり、と弓の軋む音が風子の耳にまで届いた。

「破っ!!」

 気合いと共に漣の手が離れた。風子が地を蹴ったその瞬間、冷気が耳元を過ぎる。

 背後でがしゃん、と何かが砕かれる音。着地し、振り返った風子は崩れ落ちる石壁を目の当たりにし、唾を飲み込んだ。

「見えましたか?」

 背後に漣の声がし、風子の首筋から血が垂れる。

「次は、そのまま動かないでください」

と、漣を振り返ろうとした瞬間。

 右側の壁が崩壊の悲鳴をあげた。

「もういいでしょう。これが梓の力です」

 風子の血が爪先に落ち、赤く染める。

 二撃目は完全に見えなかった。矢を取り出す動きも、弦を引く動きも、そしてどこに矢が放たれ、どのような軌跡を描いて飛んだのかも。

 狙う場所や射る瞬間を忠告されても(かわ)しきれなかった。無論、本気で風子を射るべくその矢が()がれるときには忠告などあるはずもない。そしてその威力は、たった一本で石壁を粉砕するほどだ。それは物であろうと人であろうとも、(かなめ)を狙う漣の眼力が人智を超えていることを示す。

「……次の戦いも控えています。そろそろ終わらせるとしましょう」

「お互い、最後の一撃ってわけね」

 風が変わった。瞬きすらも隙となってしまうかと思えるような凍りついた空気。



そんな戦慄を濁すかのように、風子がそっと口を開いた。

「私にもさ、妹がいるんだ」

 弓を握ったまま、漣が眉を潜めた。

「ほら、こないだあんたに突っかかっていったやつだよ。覚えてるかい? まだ十五にもなってなくてね、漁にも出られなくって村の童子らと遊んでるようなやつでさ。誰に似たんだか、あんたも見た通りやんちゃな奴なんだ。たまに手がつけらんないこともあるけど、それでもやっぱ可愛くて。こんなこと本人には言えないけどね」

 切々と語る風子を前に、漣は決して梓を手放さない。

「たまに私のことをあまり知らないような子にもさ、うちの姉さんは男なんか目じゃないんだとか、こんなでかい魚を採ってきたんだって自慢げに語っちゃってるみたいでさ。恥ずかしいから止めろって言ってんのに」

「……何が言いたいのです」

戦いの緊張感に耐え切れず自壊したか。あるいは情に訴え、戦意を喪失させる小細工かとも思った。だが風子はそんな漣のいくつも先を歩いていた。

「あんたにも姉弟がいるんじゃない? 血を分けたたった一人の存在、ってやつがさ」

 今度は明らかに顔が変わった。息を呑み、その口を閉じることが出来ないまま風子を凝視している。

「何故……?」

「まさか本当にあんたがあんな可愛らしい趣味の首飾りしているとは思わないわよ。かといって母親にまだ甘えているようにも見えないしね。恐らくはお姉さん、じゃない?」

 いちいち的を射ながら、それでいて趣旨のわからない風子の発言が癇に障る。

「私にも姉の自慢話でもしろ、とでも言うのですか?」

「やっぱり。甘えん坊の匂いが抜けてないもんね。なんとなくわかっちゃった」

 まるで意地悪な頓智(とんち)話を言い当てた子供のように、けらけらと風子は笑った。しゅっ、と風が鳴り、風子の頬に一筋の血が流れる。

「いい加減にしなさい。次は当てますよ」

 自らの殺気に圧され、漣が矢を放つ。

「……ふぅ。朴念仁ね。いい? 私が言いたかったのは」


挿絵(By みてみん)


 剛雷を再び握り、風子は言った。


「そんな強い姉さんが好きなうちの妹でも、こんな戦いなんか望んじゃいないってことよ」



「……あいつら、さっきから何喋ってんだ? 矢を撃たれても風子もまったく動かないし」

 潮人や隆道のもとまで、二人の声は届かなかった。もっとも、聞こえていたとすれば風子も無駄なことを語る口は持っていなかっただろう。ただ、先の一矢からはっきりしたことがある。

 次は、お互い殺す気で行くのだろう。二人の間に何が起きたかはわからないが、終わりを穿つための気は充分過ぎるほどに練られた。間違いなく次が、最後の一手になるだろう。下手に峰打ちなどを狙えばそれだけ剣速も劣る。一抹の邪念すらも許されない本気の勝負。

 思うのは、目の前の相手をただ殺す、という感情だけ。

 漣も、風子も、先程以上に神経を研ぎ澄ます。二人の距離はおよそ十歩といったところか。風子は梓から放たれる矢を躱し、その距離を詰め、剛雷を叩き込まなければならない。あまりにも不利な駆け引きだった。しかし、一度漣の懐に飛び込めば勝機はある。

 風子が息を呑んだ。目を細め、しっかりと撃つべき相手を見定める。対する漣は直立したまま身動き一つしない。矢も腰に携えたままだ。最初から構える必要などないという余裕の表れなのか、それとも……

 足を溜める素振りすらも見せずに風子が空を舞った。だが先程までの殺気は発されてはいない。眼下に漣を定め、剛雷の陰に身を隠すようにし、そのまま宙を駆け下りる。

 風子は決して連より先に初撃を繰り出そうとは思っていなかった。躱せないのなら(しの)げ。あの、風圧だけで切れそうな速さの矢を見切るのは不可能だ。ならば喰らっても致命傷にならなければいい。この巨槍に隠れた身体から急所を射抜くのは至難の業だろう。

 漣が剛雷の射程に入った。と同時に微かに漣の腕が動き、腿に冷たい衝撃が走る…… が、まだ腕は動く!

 外した! 裂帛の気合いと共に風子は剛雷を振りかぶり…… そして目を見張った。

「な……!?」

 漣は矢を番えたまま、まさに射抜くような目で風子を見上げていた。

「一度に撃てるのが、一本だけとは限りません」

 向かうは全身を(あらわ)にした格好の獲物。漣は矢が風を切り裂く音と、

「ぐは、ぁ……」

 貫かれた風子の叫びを、同時に聴いた。

 矢は鎖骨のやや下を貫通する。恐らくは肩甲骨までをも砕いていたであろう。

「その腕ではもう、剛雷は持てないでしょう」

 梓を降ろし、目を伏せようとしたその刹那、

「ぬおおぉぉ!!」

 漣は息を詰めた。

 目に入ったのは左肩に矢をぶら下げたまま、絶叫と共に巨槍を掲げた女の姿。

「ば、馬鹿な……」

 信じられない。あの巨槍を支えるのに軸となる肩を射抜かれてもまだ風子の眼は死んでいなかった。果たしてここまで彼女を突き動かすのは何なのだろうか。肩を狙ったのは失策だったか。いや、直前まで確かに漣の矢は心臓に穿たれるべく向けられていたはずだ。それが何故? 無意識の内に相手を侮っていたか。それほどまでに自分の腕と梓の力を過信してたのか。そんなはずはない。陸奥の村に来るまで、幾度とない戦いを繰り広げてきた。その中で、過信と油断は最大の敵になり得ることはもう思い知らされてきた。

 ならばもしかしたら……

 それらの疑問が一瞬のうちによぎり、そして消えた。三本目を放つ余裕は…… ない。

 柱ほどもある巨槍が今まさに漣を頭から叩き潰さんと振り下ろされる。

 漣は目を閉じた。恐怖からではない。最後は自分の命を絶つ者よりも、今も脳裏に焼きついた姉の笑顔を瞼に浮かべ死んでいきたかった。数瞬後には姉のもとへ行ける。そう考えると幾分心は軽くなった。

 だが再度、漣の予想は裏切られる。足元の激震と岩を砕く轟音、人々の悲鳴が同時に巻き起こる。強風にその身が投げ飛ばされるも、一瞬で我に返り受身を取る。そこには、地に槍を突き刺し、必死に身体を支える風子の姿があった。

それを見て、ようやく漣は自分がまだ生きていると知った。

「何故……」

 漣の手から梓が滑り落ちる。

「何故私を討たなかったのです」

 しわがれた声で問う漣に返されるは、最後の闘志を決して絶やさんとしていた、燃える瞳。その炎がゆっくりと鎮まっていく。

「決まってんでしょ。あんたを殺したくないからよ」

 代わりに、共に生死を分かち合った友としての安らかな微笑みが浮かんでいた。

 ふっと風子の手が剛雷から離れ、倒れ込んだ。

 最後まで二本の足で立っていたのは、漣の方だった。

 そして、

「勝者、天草漣!」

 何度目かの歓声と共に無益な戦いの終わりが告げられた。

「私を討たないと、殺されるとは思わなかったのですか?」

「試合前に命は取らないって、あんたが言ったんじゃない」

「貴女は……」

 漣は唇を噛み、風子の身体を抱え込んだ。

「なーに? 痛いんだからもう放っておいてよ」

「ですが、それでも私に勝ちを譲るのは……」

「まさか。そんな酔狂な真似しないわよ」

 馴れ馴れしい口調。例えるならそう、日向の者と喋っているときはいつもこんな口を叩くのだろうと、そう思わされる声だった。

「結局、私のこと殺そうとはしてなかったんでしょ?」

「……はい」

 正直、もう戦いの最中のことは覚えていない。けれど漣はそう答えていた。何を言っても嘘になるならせめて目の前の女性を落胆させることはしたくない。

「お互い殺し合う気はない。なら最初に倒れた方が負け。で、私が倒れたからあんたの勝ち。それだけじゃない?」

「……食えない女性ですね。貴女は」

「そ? よく言われる」

 笑う二人の傍らで、激戦を繰り広げた弓と槍が折り重なり、宿主を静かに見守っていた。

 そして、漣本人も気づかないほどの心の僅かな片隅で、風子と姉の笑顔を重ねていた。

 弓を「才」として抱く漣の矢をもってしても、その行動だけは射抜くことが出来ない。

 それが若狭風子であった。



       ◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 気を失うどころか、ものの四半刻も身体を休めると風子は漣の肩を借りながらも自らの足で闘場を去った。漣は潮人に風子を託すと、一言だけ告げる。

「傷は大したことないはずです」

 そう言って風子を座らせると、漣は背を向けた。

「さて、潮人お願い」

「わかった。痛みが激しいだろうから布でも噛んどけ」

「優しくしてくれなきゃやーよ」

 辺りに落ちていた木の枝を拾い上げると言われた通り風子は袖を噛み締める。

「行くぞ!」

 潮人は風子の肩にぶら下がる矢に手をかけ、少しずつ引き抜いていく。

「……! くっ……ふ、うぅ……!!」

 目を瞑り、声を漏らしながら風子は必死に痛みに耐える。腕に力を入れれば矢が抜きにくくなるため、ただひたすらに歯を食いしばりながら。

 (やじり)が抜ける際にも、風子は決して悲鳴など上げなかった。手にした枝が風子の握力に耐え切れず砕け散った。

「もう少しだ」

 やがて血に塗れた矢身が風子の肩から抜け出した。潮人は闘場の隅に投げ捨てると、涼太郎を呼ぶ。すぐさま傷口を調べると、涼太郎は安堵に似た表情のまま息をついた。

「うん。痛みは酷いかもしれないけど、多分痕になったりすることはないよ。薬草を塗って三日も安静にすればまた剛雷を持ち上げられるくらいに回復すると思う」

「まさか」

 そんな診断に苦笑したのは風子自身だった。

「明日には漁に出るわよ。三日もじっとしてるなんて性に合わないからね」

「そう言うと思った」

 涼太郎は吹き出しそうになりながらも言った。

「ま、今は加減してくれた漣に感謝でもしとこうかしらね」

「馬鹿言うな!」

 涼太郎を押しのけ、隆道が風子の胸倉を掴んだ。

「風子、てめぇ今俺らがどういう状況かわかって言ってんだろーな!? もう後がないんだぜ? 今度負けたら日向の村は紫苑の言いなりになっちまうんだぞ!」

だが風子は明日の献立でも提案するかのように返す。

「何言ってんの。あんたと潮人が勝てばいーんでしょ」

「な……」

「それともなーに? あんた勝つ自信がないっての?」

「ば、ばば馬鹿言うな! 俺があんな奴らに負けるわけねーだろーが!」

唾を飛ばす隆道に、やはり風子は眉一つ動かさなかった。

「でしょ? ならいーじゃない。期待してるんだから頑張ってね」

 虫でも追い払うように手を振る風子に、隆道の瞳が凍りついた。いや、正確に言うと風子の背後から近寄ってきた男の姿に身構えたのだった。

「さて、談話中に申し訳ない。二回戦目は、趣向を変えようと思うんだが、どうだろう?」

 隆道だけでなく、潮人や涼太郎にも戦慄が走る。

「……と言うと?」

「漣の弓を見て思いついたのだが、今度はお互いに拳を交えず、射候(しゃこう)にて勝負してみないか?」

 紫苑の提案はこうだった。一戦目にて闘場は半壊してしまったため、それを修復する間に弓の腕を競い合おうという。七つの的を設け、十丈ほど離れた位置から矢を放つ。多くの的を射抜いたほうの勝ち、というものである。すなわち、弓の腕をもってして勝敗を決めようというのだ。

 一風変わった勝負に、最初に異論を唱えたのは隆道だった。

「納得いかねえな。さっきの天草もそうだが、陸奥には弓を『才』に持つ奴らが多いんじゃねーか?」

「いや、いいだろう。次は弓で勝負しようじゃないか」

 それをすぐさま覆したのは他でもない、日向の長、潮人だった。

「お、おい潮人!?」

「血を流さずに済むなら、その方がお互いにとってもいい」

「簡単に言ってくれるなよ! 次は俺が戦うんだぜ!?」

 潮人が悪戯っぽく隆道の顔を覗き込んだ。

「やはり弓の勝負だと自信がないのか?」

「な、んなわけねーだろ!」

「そうだな。俺や、それにきっと風子も弓だけはお前の腕は見込んでいるんだからな」

「だけは、ってのがちょっと引っかかるけど…… わかったよ」

 隆道は渋々と頭を垂れる。隆道を乗せるような口調だったが、日向において隆道の弓の腕が誰よりも勝っている、というのもまた事実だった。普段の潮人や風子との手合いや漁に赴く際にも、隆道は弓をよく愛用していた。漣ほどとまではいかずとも、隆道以上に任せられる人物は他にいない。

「漣、貴様……」

 紫苑は漣の待機する場へ戻ると、見る間もなく憎悪に満ちた邪悪な形相を浮かべた。

「何でしょう?」

「日向の者などに情をうつしやがって」

「試合は勝ちました。文句はないでしょう」

 否定をしない、ということは暗黙のまま紫苑の言葉を肯定している。だがそれで紫苑が納得するべくもなかった。表情にこそ出さなかったものの、溢れる殺気は押さえ切れてはいない。漣もまた紫苑の気に圧倒されるまいと拳を握った。

「まぁいい。お前の役目は終わった。身体を休めておくがいい」

 そこに労わりの念はなかった。自らを離れるものは全て拒絶する。それしか今の紫苑は取るべき術を知らない。

「紫舜」

「……はい。兄様」

「わかってるな。何故俺がわざわざ三試合することを提案したのか。そしてここでお前が勝つことがどれだけ重要か」

 紫舜は瞳を閉ざしたまま何も答えない。

「そうすれば駿河潮人は、わざわざ俺が自ら出るまでもない、弱小共の集まりだということが示される。そうすれば奴らを統べるのも容易になるのだ」

「……はい」

「大丈夫だ。漣譲りのお前の弓が負けるわけはない。それに、負けても紫舜を咎めるようなことはしないさ。あまり緊張しないことだ」

「わかりました。兄様」

 紫苑は気づかない。紫舜の胸に秘められた想いを。生まれて初めて、兄に歯向かおうとする決心。それは、兄に心を閉ざした紫舜の罪か、妹が唯一であるが故に信頼し過ぎた紫苑の罪か。



 やがて闘場を移し、再び場は血気と歓声に溢れ返っていた。射候場では何より風がないことが優先されるので、周囲に岩山のそびえる場を選んだ。潮人は試しに一本矢を放つが、ほぼ狙い通り真っ直ぐに飛んでいった。既に闘場の端には十四の的が設置され、試合を見守る村民も流れ矢を避けるべく的から離れて取り囲んでいた。

「よーし。それじゃいっちょ、揉んでやるとす……」

 指を鳴らしながら舞台に飛び乗ろうとする隆道だったが、ふとその足が止まる。闘場の上には既に弓を携える一つの人影があった。

「ど、どういうことだ……?」

 瞼を下ろしたまま、沈黙を守るその少女は、紫舜だった。動揺は隆道を中心に、見守る村民にも広がっていった。あのような目も見えない娘に弓を引けるのかと。ただ変わらないのは、海蛇のように粘液質な紫苑の笑みだけだった。

「紫苑! お前こんな娘に……」

「弓の腕なら心配は無用だ。紫舜は漣から直接その技を磨かれているからな。それに目や己の先入観だけで物を見ると……」

 竹を割るような、一際(ひときわ)高い音が鳴り響いた。振り返ると、紫舜の正面に位置した的の中心からは、羽を振るわせる一本の矢が生えていた。

「痛い目に合うぞ」

 紫苑の目が歪む。

 周囲から巻き起こるのは、歓声だけではなかった。盲目(もうもく)の少女が弓を引き、さらに一寸の狂いもなく命中させたという常識を超えた事象にさざめいていた。

「面白え。相手にとって不足はな……」

 隆道が弓を握る手を強めたとき、背後から細く白い腕が彼を制した。

「隆道さん…… ごめんなさい!」

「のわぁ!?」

 背を引っ張られ、隆道は闘場を転がりながら落ちていった。

「あちゃー、ちょっと勢いつき過ぎちゃった」

 土塗れになりながら、隆道は後頭部を摩る。

「ってぇ…… 何すんだ風子…… じゃない……? は…… な、渚!?」

 驚いたのは突き落とされたことに、ではなかった。それをしたのが渚であり、さらに弓を携え闘場に立っていたことが隆道には理解し得なかった。

「本当に渚なのか? いや、じゃなくて何すんだよ!?」

「渚! どういうつもりだ!? 降りて来い!」

 潮人と隆道が同時に声を上げる。だが渚は済まなそうに手を合わせ、たった一言。

「ここは私に任せてください」

 そこに、いつものおどけた少女はいなかった。真摯な目で相手を、黒髪の少女を見つめる姿があった。

「お前、弓は引けるのか?」

 埃を払いながら詰問する隆道だったが、渚は黙ったままだった。そして、

「……あの娘は、私が止めてみせます」

 そう言い残して、静かに中央へと歩を進めた。

「こんにちは。紫舜さん」

「……! あなたは……」

「声、覚えててくれたんだ。こないだはお互いヘンなとこ見せちゃったね」

 持ちうる精一杯の笑顔で渚は話しかけた。たとえ紫舜には見えずとも。

「どうして渚さんが? 弓は引けるのですか?」

「もう! みんなして馬鹿にして! 私だって潮人さんの漁に毎日付き合ってるんだよ。見たことくらいは、ある……んだから……」

 徐々に声が(しぼ)んでいく。

「どういうつもりか知りませんが、手加減はしませんよ」

 二羽目の愁雪鳥(しゅうせつちょう)が空に解き放たれた。

「では、第二の闘いをこれより始める!」

 また一つ、武闘祭の歴史が覆される。

 一方には盲目の、かたや一方にはまだ日向に来て間もなく、弓を握ったことのない少女が射候の腕を争おうとしていた。

「……では、参ります!」

 ゆっくりと、紫舜が弓を掲げる。両手を上げるようにして、そこから徐々に掌が分かたれる。

目の見えぬ紫舜にとって、的はどのように感知しているのだろうか。風も吹かず、音もない場所であるはずなのに、紫舜は的に正対する。

 弦を引き絞る音だけが、闘場に響く。漣のものよりも少し高いように渚は思った。

「せいっ!」

 それは、何とも美しい型だった。渚の愛する歌に匹敵するほどに、人の心を魅きつける力があった。

 矢は寸分違わずとはいかないものの、しっかりと的に突き刺さり、矢尻を震わせていた。息一つ乱さず射抜くその姿は、紫舜の年齢や容姿からはおよそ想像し難かった。

「うわぁ…… 紫舜ちゃんすっごい……」

「さあ、次は渚さんの番です」

 言いながらも、紫舜は渚の技になどまるで興味を示さないかのように次の的へと歩きだそうとする。

 だが、

「ごめんなさい。私には撃てないわ」

 渚は少し申し訳なさそうに言った。

「どういうことですか? では、負けを認めると……」

「ううん。そういうわけじゃないよ」

 渚は弓を握るどころか、ただ真っ直ぐに紫舜を見つめるばかりであった。

「では何故?」

「私は、紫舜ちゃんとお話しに来ただけだから」

「……!」

 初めて紫舜が声を詰まらせる。次第に焦りの色を浮かべ、ただ何かを思索するようでもあった。

「私には渚さんとお話するようなことなどありません」

「……それでいいの? 紫舜ちゃんは」

「早く弓を握ってください!」

 凛々しくもどこか怯えたように声を荒げる。

「どうして? 私が試合を投げ出せば紫舜ちゃんの勝ちじゃない。それじゃ駄目なの?」

「そんな…… 不戦勝みたいな真似で勝っても、嬉しくないから……」

「嘘。さっきの矢もわざと中心を外してた。何でそんなことするの?」

 少しずつ、渚は紫舜に詰め寄る。

「やめてください! 私は漣様ほど腕が熟達していないだけです! 兄様の前で、そんなこと言わないで……」

 同じ分だけ、紫舜は後ずさる。

「お兄さん想いなんだね。私は兄妹とかいないから、あんまりよくわかんないけど、でも……」

 一呼吸の後、渚は言った。


「羨ましいかな」


「もう、やめて……」

 弓を握る紫舜の手は震えていた。

「ううん、やめないよ。これ以上紫舜ちゃんが目を逸らしているのを放ってはおけないもん」

 渚の決意は固かった。雨の降る夜、自らの無力を晒してまで潮人達に縋ってきた、あの姿は忘れられない。そして、今この目の前の少女の気丈さがとてつもなく脆い水泡のような(はかな)さを含んでいることも。

「……そんな風に愛称で呼ぶのもやめてください。今の私たちは敵同士なんですよ!?」

 紫舜は必死に射るべき的を映し出し、それ以外からは神経を遮断しようとする。

「わかったわ。ねぇ、紫舜ちゃ…… いえ、あなたは……」

だがそれも。この渚の問いが胸を貫くまでだった。

「あなたは本当に勝ちたいの?」



 最早紫舜の闘う相手は渚ではなかった。憎しみに染まった兄と再び対峙出来るかどうか。新しく信じてみようと思える人間に弱さを露呈(ろてい)することが出来るか。全てを託せるかどうか。

 紫舜は定まらぬ指先で矢を射る。先ほどまでの人を魅了する型は微塵も感じられない。的の端を削り取り、その後ろの壁に矢を生やすだけだった。

「きっと、あなたはお兄さんのことが本当に好きなんだと思う。だから今もこうして、お兄さんの望むまま私達の敵になりすまそうとしてる」

 また壁に、矢の花が咲く。

「そして、あなたたちも鯨羅を憎み、愛するものの仇を討とうとしてる」

 風を切り、また一輪。

「それなら、私たちは何故今こうして争い合ってるの?」

 ざわめきと共に、また一輪。

「あなたや漣さん、それにお兄さんの悲しみは、私たちと同じじゃない!」

 羽を散らしながら、また一輪。

「あなたは今まで頑張ってきたと思う。けど、最後にもう一回だけ勇気を出してお兄さんと話してみよ? 潮人さんや、日向のみんな、それにもちろん私も……」

 最後の花は、涙に濡れて。

「きっとあなた達と同胞きょうだいになれるよ」

 軽い、羽毛が舞い降りるように紫舜の身体が崩れる。長い紫の髪に隠れ、涙は見せなかった。

 渚が立ち上がる。紫舜の頬を拭うよりも先にやるべきことがある。

 紫舜の弓を取り、矢を(つが)えた。初めて弓に触れる渚の型は決して美しいとは言えなかった。が、狙うはただ一つ。紫舜の無念を乗せた悲しみの花。矢は紫舜の放った矢に当たり、共に弾き飛ばされていた。観衆も、渚が紫舜同様狙いを外しているのかと思い嘆息をこぼしていた。それでも、二本、三本と正確に壁に突き刺さった紫舜の矢を落としていく光景に、人々はみな目を奪われ、歓声が巻き起こる。続いて五本目、六本目と渚の想い(矢)が咲き乱れる。紫舜を捉える枷を打ち砕くかのように。


挿絵(By みてみん)


 最後の花が摘まれ、涙を浮かべた笑顔のまま紫舜は言った。

「私の…… 負けです」

 そっと、包み込むように紫舜の肩を抱く渚。

「駄目だよ。まだそんな風に肩を落としちゃ。お兄さんを説得するまで、そして鯨羅を倒すまでは」

「うん…… ありがとう。ごめんなさい……」

 人々が沸き起こる前に、鈍い光が輝いた。

「女あぁ! 貴様、紫舜に何をしやがった!?」

 青竜刀を抜いた紫苑が吼える。

 誰もが止める間もなかった。陸奥の者も、或いは風子、隆道、涼太郎、奈美のいずれもが、その疾風を目で追いながらも動けずにいた。殺気は妹に膝を折らせた女、渚へと向かっていく。

 振りかぶった刀に二人の少女の怯える姿が映し出された。目の見えぬ少女にも兄の凶行は手に取るようにわかってしまった。ただ救いなのは、鬼と化したその形相を目の当たりにせずに済んだことか。

 渚が庇うように紫舜を抱き締めた。そこに立ちはだかるは、

「やめろ」

 銛を刀身に合わせ、静かに囁く潮人。

「駿河ぁ…… 命がいらぬか!?」

「次の試合の相手は俺だ。そうだろう?」

 至極冷静に紫苑の瞳を覗いた。見たことのない黄金色の真円であったが、その猛け狂う炎は潮人までも焦がすようであった。

「試合だと? まだそのようなことをぬかすか!? 貴様らは一度ならず二度までも紫舜を(たぶら)かせた…… 殺すには充分過ぎるほどの業だ!」

 刀を押す紫苑の力は尋常ではなかった。この細腕からここまでの膂力が出せるものなのか。それを可能にするほど、この男の妹への想いは強いのに。

 瞬息の間の後、悲痛な少女の叫びが響き渡った。

「もう止めて! 兄様!」

「し、紫舜……?」

「お願いです…… どうか目を覚ましてください! 今の兄様は、兄様じゃありません!」

「紫舜……」

 やがて紫苑の腕からゆっくりと力が抜ける。放心しきった目は何かを吹っ切ったようで、それでいて憎悪の光を絶やさずにいた。刀が離れても、潮人は決して銛を握るその手を緩めない。

「……紫舜。漣のもとへ戻っていろ。それに駿河もその女を仲間のところへ連れて行け。二回戦は日向の勝ちだ。すぐに最後の試合を始める」

 刀を鞘に収め、紫苑は背を向けた。

「兄様!」

 漣に連れられる紫舜の叫びも、紫苑には決して届かない。

「試合を冒涜したのは悪かった。俺は次の戦いに全てを賭ける。だから駿河よ。貴様も死ぬ気で来い。それだけだ」

 守るべきものを失いつつも、紫苑の気は収束していた。そんな男が一体どのような戦いを見せるのか。

 だが決して負けることは許されない。それだけは変わらない真実であった。日向のためにも、潮人自身にとっても、そして紫舜のために命を張った渚のためにも。


 神海は押し寄せる波音を集め、旋律を奏でていた。



       ◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 紫苑は神海に向かい祈りを捧げていた。両手で見たこともない印を組み、目を閉じたまま何やら呟いている。形は違えどその姿は、日向の者とさほど変わらない、信仰心の厚い一人の若者として映る。果たして祈るべき神は潮人達の信ずる神と何が違うのだろうか。復讐に駆られた男にも平等に祝福をかざすのであろうか。

 誰も答えの知る由のない疑問を抱き、潮人は闘場へと赴く。

「何か言いたげな顔だな、駿河」

 蛇の如し笑みは影を潜めていた。ただ純粋に、これから起こる戦いに不安と血の滾りを覚える声だった。

 もしこの男と正式な武闘祭の場で拳を交えることが出来たなら。そんな無意味な思いを吐き出すことなく、

「語るのは戦いの後にしよう」

 潮人は棍を構える。

「お互い生きていれば、な」

 今までの試合とはうって変わり、場は静まり返っていた。

 涼太郎は風子の肩にただ黙って薬草を塗り込めていた。

 風子は涼太郎に肩を差し出しつつも闘場には目もくれず、草笛を噛んでいた。

 隆道は鳳華を肩に乗せ、全ての瞬間を見逃すまいと目を見張っていた。

 奈美は両指を噛み、その傷を合わせながら胸元で印を組んでいた。日向に伝わる、航海に出る者の無事を願う祈りである。

 紫舜は漣の袖を掴み、耳を済ましていた。

 漣もまた紫苑と潮人の背を凝視する。紫舜の思いを汲み、代わりの目にでもなるかのように。

 そして渚は……

「最後の闘者! 前へ!」

 三度空へ放たれる愁雪鳥の白さに目を奪われ、そこに潮人の笑顔を描き出していた。



「この期に及んでまだ棍など使うか、駿河」

 対する紫苑は青竜刀を抜く。

「別にお前の命が目的なのではないからな」

「その余裕…… 相変わらず気に障りやがる!」

 初撃は紫苑が繰り出した。紫苑の性格をそのまま表すかのように、急所へ真っ直ぐと伸びる一撃であった。そうでなくとも確かに紫苑の武器は触れただけで血を吹き出すような恐ろしいものであった。棍で受けるのもままならないだろう。それなら全部躱せばよい。潮人は僅かに身体を逸らし、次の手を待つ。そう、待つほどの余裕が潮人にはあった。

 紫苑の「才」の正体がわからぬまま手を出すのは躊躇(ためら)われた。まずは太刀筋を読み、対策を練ろうと思った。幸い紫苑は待つことを知らず、次々と刃を放ってくる。

 そこで感じた疑問。自らの戦いにおける直感を前に、初めて迷いを感じた。

 この程度なら、たとえ五人集めても漣を上回ることはない。武闘祭の優勝者である潮人と比べたら雲泥の差である。風子や隆道の足元にすら及ばないだろう。

 では何をもってして、あの漣を従えているのか。漣があれほどまで怯えるのはやはり隠された「才」に対してなのか。豪胆で知られる陸奥の村長を倒したその力の正体は、何なのか。

 そこまで考えると、潮人は思考を閉ざした。今の潮人にとって大事なのは、紫苑を倒すことだ。見えない「才」を警戒するくらいなら、それを発揮させる前に倒せばいい。

 潮人は喉下を狙ってくる刀の道筋を正確に見極めると、空高く蹴り上げた。

「許せよ」

 舌打ちさせる間も与えず、今度は潮人の棍が紫苑を襲った。技はなくとも身体能力はそれなりに高いのか、紫苑は距離をとるべく不安定な姿勢からも後ろに飛び退く。だがそのまま見逃す潮人ではない。一気に畳み込もうとする潮人の連撃は、紫苑の腹と(すね)に吸い込まれた。

「ぐはぁ……」

 地に伏す紫苑だったが、容赦はしない。潮人は紫苑の胸元を踏みつけそのまま動きを止めた。

「くっ……」

「もうやめておけ。お前の実力は見えた。俺に敵うまでにはあと三年はかかる」

 屈辱に顔を歪めるのも束の間、紫苑はすぐに平静を取り戻す。

「ふん…… 刀の腕は、だろ?」

 ぞくり、と潮人の背が凍てつく。同時に、その日一度も吹きつけなかった海風が潮人の頬を撫でた。慌てて足を離し、今度は潮人が距離をとる。

「漣が梓を使った時点で何となく予想はしてたがな。やはり只者ではなかった、というわけか……」

 音もなく紫苑は立ち上がった。そして懐から、琥珀色の数珠を取り出す。紫苑の髪よりも曇った光を透かす玉列が、紫苑の代わりに不敵な唸りを上げているように思えた。

「祈り、叫び…… そして死ね」

 空が灰色に染まる。見上げると、暗雲が辺り一面に立ち込め始めていた。

「な…… そ、そんなはずない!」

 木陰で潮人の行方を見守っていた涼太郎が突如声をあげる。

「どうした、リョータ?」

「雨雲が…… それに風も吹き始めてる!」

 遥か上空の彼方では獣が寝返りでも打ったかのような黒い唸りが重く轟いていた。

「今日は雨なんて降らないはずだよ。それに風もさっきまでは山の方から流れていたのに、今は海風に変わってる…… こんな急速に大気が変わるなんて有り得ない!」

 遅れながらも、同じ危惧を潮人は感じていた。なんの予兆もなしにこんなに目まぐるしく天気が荒れるなど前代未聞である。隆道の肩で眠りこけていた鳳華も異変に気づき、怯えるように叫んでいた。

「『才』というのはお前らの村にも伝わるらしいな」

 紫苑の数珠がじゃら、と打ち鳴らされる。

「漣は梓という弓を操る。そしてお前の村でも巨大な槍や大鷹を操ったり、それに自然を読むなど様々な形で『才』は現れているようだな」

 紫苑が数珠を振りかざす。すると潮人を叩く風が一層激しさを増した。

 潮人は確信した。この男の「才」は……

「勘づいたようだな。そう、俺が受け継いだ『才』は、森羅万象、全ての自然を意のままにする力……!!」

 突如眩い光が辺りを照らした。遅れ、轟音が頭上から襲い掛かる。

 潮人は跳んだ。もし潮人ほどの運動神経と卓越した勘がない者ならば、その光に全身を焼き尽くされ、炭となって絶命していたことだろう。

「雷、だと!?」

「初めて貴様のそんな顔を拝んだ気がするぜ。少しは驚いてもらえたようだ」

 つい先程まで自分の立っていた場所にぽっかりと大口が空いていた。

「そうだな。こんなおっかない目にあったのは、初めて凶虎鮫に追いかけられたとき以来かな」

 悪態をつきながらも、立ち込める白煙に潮人は身震いを覚えた。

「その虚勢…… いつまでも保てるものか!」

 人を殺す意志というのはこんなにも大きな質量を帯びて叩きつけられるものなのか。目に見えているわけでも形として表れているわけでもないのに。

 先の凶虎鮫はあくまでも狩猟、生きる為の本能と食欲に従って牙を剥いてくるだけだ。ところが今の紫苑は違う。悪意をもってして、同族であるはずの人間の命を狙っているのだ。そういった意味では紫苑の牙の方が遥かに脅威だった。

 臆することは許されない。潮人の死はそのまま日向の滅亡を意味する。このような恐ろしい男が統治する村に、安息などあるはずもない。

 潮人は銛を低く支え、自らの身体もまた地に伏せるかのように身構えた。

「ほぅ。逃げ出すような真似はさすがにしないか」

「甘く見るな。たった一人の妹の叫びにすら耳を背けるような奴に俺を討てるか」

 妹、という言葉に紫苑の手が震える。

「紫舜…… そうだ。貴様が紫舜を……!」

 また空気が蠢いた。そして辺りの空気が全て集まったかと錯覚するほどの気流が潮人に流れ込む。

「ぬっ……」

 足に力を溜めるものの、気を抜けばすぐにでも壁に叩きつけられそうに思える。地面に対し平行に立っているのか、それとも紫苑に相対しているのか。それすらもわからない。

「激昂するか、播磨。だが妹の心を踏み(にじ)った貴様に、その資格があるのか!」

「黙れ! まだこの俺を愚弄するか!!」

「何度でも言ってやる! 貴様は愛すべき妹の意志を無下にした、畜生にも劣る男だ!」

「黙れと言っている!!」

 二撃目の雷が来る。この窮地の中に立っても潮人は天を読むことが出来た。だが先程のように跳躍して避けるのは紫苑の操る暴風が許さない。

 潮人はほんの僅かに足の力を緩めた。風に任せ、身体ごと流される。そして再び、轟音と共に大地が裂けた。

「くっ……」

「どうやら俺は貴様の雷には嫌われているらしいな」

 着地しながらも潮人は決して気を緩めない。激昂させ紫苑の冷静さをゆっくりと削り取る。次に空が光る、その時まで。

「紫苑よ。七日前の晩、何故紫舜が日向を訪れたかわかるか?」

「何?」

「紫舜はお前の暴挙を止める為に、俺に(すが)ってきたのだ。雨の降りしきる中、目の見えぬ身で単身日向まで来訪するその辛さが、そしてそれに至るまでの葛藤と決心が貴様にわかるか!」

「そんな…… 戯言をぬかすな!」

「だと言うのに、あろうことか貴様はこの武闘祭に彼女を参戦させた! 兄を裏切れない、だが縋ったはずの相手に敵として対峙しなければならない…… その苦しみが理解出来ないのか!」

「ぐわああぁぁ!!」

 三度、空が吼える。

挿絵(By みてみん)

 潮人は悟った。逆上しているはずの紫苑が、目の前の敵を一刻も早く仕留めたいと欲する紫苑が、何故雷を連発しないのか。

 しないのではない、出来ないのだ。

 いかに紫苑の「才」が強大であるとはいえ、神の定めた自然の摂理を曲げるのに、彼自身にかかる負荷は果てしなく大きい。

そこに隙は生まれる。

「紫舜…… 俺は…… 俺はああぁぁ!!」

 突風に混じり、ついに嵐が巻き起こった。ちょうど紫苑の怒りを代弁しているかのように天は嘆く。

「無駄だ播磨! おとなしく力を収めろ!」

「ほざくな! 天をも操るこの俺の『才』が、貴様なんぞに敗れるかぁ!」

 数珠の光がこれほどになく輝く。恐らくは、持ち得る全ての力を振り絞った一撃だろう。

 潮人は銛をゆっくりと構えた。狙うは遥か上空に浮かぶ、禍々しいまでの暗雲。

「くたばれ! 駿河潮人ぉ!」

 空から紫苑の心の隙を照らす、雷光が舞い降りた。その光明に潮人は銛を投げつける。

「はっ……?」

風を切り裂くように飛ぶ銛に、雷が降り注いだ。中空でいくつもの火花が暴れ狂う。嵐にも掻き消されまいとするその雷光は、己の運命に逆らう紫苑そのものだった。

「そんな…… まさか……」

 力を使い果たしたか、紫苑はその場に膝をつく。

潮人は走った。吹きつける無数の雨粒と石片を凌ぐのも忘れ、ただ真っ直ぐに紫苑へと向かって。油断を経て憤怒に心を奪われた紫苑には、驚くことは出来ても迫り来る潮人に対抗する術は残されていない。

潮人は先程飛ばした紫苑の青竜刀を拾い上げ、紫苑の首めがけ振り下ろした。

この時、心のどこかで潮人は気づいていた。このまま紫苑が討たれるはずはない。身を(てい)し、必ずそれを止める少女がいるのだということを。

「やめてえぇ!」

 だから潮人は刀を放つその手を、少女の目の前で食い止めることが出来たのかもしれない。


挿絵(By みてみん)


「し…… 紫舜……?」

紫舜が紫苑の胸に収まり、泣いていた。

「播磨よ。鯨羅への無念、俺も忘れたわけではない」

 刀を突きつけたまま、潮人は語る。

「鯨羅に敗北し、俺もお前と同じように多くのものを失った。同胞の死、父の負傷、村の衰退…… まるで全てが消えてしまったかと思った日々もあった」

 わずかに、潮人の顔が曇る。

「けれど、残されたものだってある。新しく気づけたものだってある。いや、それに気づかせてくれた者がいた。まだ俺達は、負けてなどいない。そしてお前にも……」

 泣きじゃくる少女を横目に、潮人は言った。

「まだ、お前を慕ってくれる愛すべき人がいる」


 幼い頃から従順であった妹。それが当たり前であり、たとえ神さえ敵に回ったとしても、妹だけはついてきてくれる。そう信じて疑わなかった。鯨羅が現れ、その信仰とも呼べる想いはますます極まっていった。 

 信じられるのは妹の紫舜だけ。あとは力ずくでも道を切り開いていく。「才」を受け継いだ俺にとってはそれだけが全てであり、存在する所以でもあった。

 日向の村で妹が、敵であるはずの男と一緒にいたとき、全身が千切れそうになった。唯一の存在である妹が他の男の前で涙を流していた、悪夢と呼ぶにも過酷な光景。裏切られたと思った。取り戻したものの、もう妹は俺の知っている妹ではないのではないかと。

 だが、それは間違っていた。

 妹は何も変わってなどいない。

 鯨羅にも負け、力を集めるべく戦った男にも負けた、この惨めな兄を庇い、涙を流してくれているのだから。

 変わったのは、この俺だ。

 この妹の涙は、不甲斐ない兄に対する最後の想い。

 傷つけたのが俺であるならば、その罪を償うのも俺しかいない。


「……すまなかった」

「謝辞など必要ない。俺にはな。だが一つだけ頼みがある」

 そう言って潮人は、親指を少しだけ刀の刃で切った。

「お前の『才』は鯨羅と戦うのに大きな力となる。もし本当に悪いと思うのなら……」

 潮人は破顔した。恐らくは紫苑に向ける、初めての笑顔。

「その力、俺達に貸してくれ」

 血束の儀。それを紫苑が知るはずもない。だが同じように紫苑は指を噛み切り、潮人に差し出した。

「これでお前も日向の血を分けた兄弟だ。紫苑・・

 

 紫苑は琥珀の数珠を空にかざした。暗雲が晴れ、見る間に太陽が顔を覗かせた。久しぶりの陽射しだな、と紫苑は思う。だがこの輝きが嵐に覆われたとき、鯨羅は現れる。鯨羅を倒し、もう二度と潮人や紫舜の顔に影が差さない世界を取り戻す。

 それが、播磨紫苑が心に刻んだ贖罪であった。


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