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第四章

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 照りつける太陽の下、涼太郎は待っていた。海面に目を落とし、海の色に溶け込んでしまうその魚群が泳ぎ過ぎて行くのを、ただひたすらに。

「おーい、まだなのかリョータ?」

 眼下から叫ぶ隆道の声も少年の耳には届かない。魚見櫓(うおみやぐら)の上には心地のいい風が吹くが、涼太郎の頬を流れ落ちる汗はそのまま彼の集中力を醸し出す。今、涼太郎の気を動かすことの出来るのは、銀の鱗をもった魚影だけ。

 そして、隆道が舟の上で一つ伸びをした瞬間、光が海中を跳ねた。

「隆道! 来た! 洸眼鯡(こうがんひ)だ!」

「ふぐぁ…… よ、よっしゃ、待ってたぜ! 行け鳳華!」

 涼太郎のかけ声、そしてようやく欠伸の閉じきった隆道の指笛と共に一羽の大鷹が空を駆けた。我先にと次の居住区を求める回遊魚の群れに勝るとも劣らぬ速さで空を舞う。

「そこだ! 引いてこい!」

 さらなる合図と共に、鳳華が海中に飛び込んだ。それに続き涼太郎も櫓に取りつけられた梯子を一気に駆け下りた。

「おーし、俺らも引くぜ!」

「わわ、待ってよ隆道。まだ乗ってな……」

 慌てて涼太郎は舟に向かって飛ぶ。隆道が網を引くのと、舟が軽い揺れを見せたのはほぼ同時であった。

「あたたた……」

「……ったく、ぼやぼやしてっと逃げられちまうぜ!? ほら、リョータもさっさと引け!」

 後ろも振り返らずに隆道は叫ぶ。痛む腰をさする間もなく、涼太郎もまた網に手をやった。

「……んしょ。ねぇ、潮人達もうまいこと採れてるかな?」

「さーな。どっちにしろ俺達もそれなりの手土産持っていかないと帰れねーぞ」

「もう。別にそんなにムキにならなくってもいいじゃん。僕らは僕ら、潮人達は潮人達なんだし」

 涼太郎が言うと、鋭く隆道が睨み返す。

「バカ! そんなこと言ってたら負けちまうだろ! これは勝負なんだぞ! この勝負に負けるってことは、風子に劣るってことなんだからな!」

「わかったよ…… 風子のことになるとすぐむきになるんだから……」

「あ? 何か言ったか?」

「……いや、何でもないよ」

 出航前、隆道は一つの約束を交わしていた。隆道と涼太郎、潮人と風子が組み、どちらが多く獲物を捕ってこられるか。肩をすくめながらあしらう潮人の代わりに、風子が勝負を承諾した。審査するのは奈美と渚。 

 負けた方は三日間、勝者の奴隷になるとの条件とともに。

 涼太郎は渋々と腕を動かし続けた。結果は目に見えていた。これから風子にこき使われることを想像すると、吐く息は一層重くなる。

 しばらくして鳳華が網の片端を咥え戻ってくる。引き上げると舟が傾くほどまでに、銀の眼をした魚が詰まっていた。

「ふぅ。大漁大漁っと。こんだけあれば潮人達にも負けはしねーだろ」

「うん、大きさも申し分ない。これだったら村の人達にも十分行き渡ると思うよ」

 汗に漬かりながらも、涼太郎はにこやかに笑う。

「……にしても、これだけの量を酔麻草なしってのはさすがにキツいな」

「しょうがないよ。この種に限っては酔わせちゃうと使えなくなっちゃうもん。目の輝きの質も肝臓の色も落ちちゃうからね」

「ま、そうなんだけどさ」

 肩をほぐしながら、隆道は言った。

 洸眼鯡は食用として用いられていることはなかった。銀色に透き通る眼球は死した後もその輝きを損なわず、真珠と並んで装飾や山村との取引きの為に使う。さらに肝臓は個体ごとに異なった色彩を放ち、乾燥させ粉末状にすると人の肌に馴染んで美を描く。すなわち、祭事に使う化粧として。

「なんかこいつを見ると、あぁ、この時期かなって気がするよ」

「そうだね。隆道は特に楽しみにしてたもんね、武闘祭」

「まぁな。今期こそは風子や潮人をぶちのめしてやんぜ!」

 無理なんじゃないか、という言葉が涼太郎の喉に出かかったが、力こぶを作りながら武者震いをしているその姿を見ると、一度くらいは、と素直に応援したくなる。

「いっぺんリョータも出場てみればいいのに。お前だったら手加減してやんぜ?」

 にやり、と隆道が笑った。

「いいよ、僕はそういうの向いてないし…… それに、祈神祭(きしんさい)の方が僕は楽しみだから。それより、もうそろそろ戻ろうよ。潮人達ももう帰ってきてる頃だよ」

「そうだな」

 そう言って二人は櫂を取り、舟を漕ぎ出した。



 武闘祭まで残すところ七日ほどとなったこの日。涼太郎と隆道は洸眼鯡を捕りに、風子と潮人はやはり祭りに使う紫珊瑚を取りに出向いていた。

武闘祭は三月に一度、開催される。腕に名のある者が申し出て、最後の一人になるまで順番に闘い合う。生まれて十八年以上の年月を経た、すなわち成人した者のみ参加が認められ、彼らが出場するようになってからというもの、前回は風子が優勝、それ以前は潮人が二度ほど勝利を()ぎ取っていた。

 ただ涼太郎のような者にとっては試合は前座に過ぎない。その後の祈神祭も大切な祭であった。(やぐら)に火を焚き、その周りで様々な化粧を施した男女が神海とそこに棲む神に踊りを捧げ、来るべく日々をまた無事に過ごせるようにと祈るのである。とはいえ、名目よりも酒と踊りを楽しみにする村人も少なくはないが、何にせよ日向の村の者にとっては大切な儀式には間違いなかった。

「なぁ、リョータ」

 ちょうど岸も見えかけた沖合で、隆道が口を開いた。

「ん、何?」

「お前、奈美とはどーなってんの?」

 音を立て、舟が傾いた。

「な、何って…… 何だよ!?」

「そのまんまだよ。奈美とは最近うまくいってんのかって」

 思わず涼太郎は櫂を手放しそうになった。

「あいつ、いっつもお前にひっついてたじゃん?」

「そ、そんなの、隆道や潮人だって……」

「俺らはいい遊び相手だよ。奈美にとっちゃな」

 さも当然のように隆道は言った。

「けどお前、奈美に蹴り入れられたりなんてこと今までにあるか?」

「そりゃ…… ないけど…… でも野次を飛ばされたりなんかは……」

 次第に涼太郎の声が(すぼ)まっていく。

「それにさ、渚と初めて会ったときだっけ? 何かあいつが妙に機嫌悪かったっての」

「う、うん」

「今思えば、あん時一緒に乗ってたのが潮人じゃなくてリョータだったらさ、もっとすんなりいってたんじゃないか?」

いつの間にか櫂を動かす手は止まっていた。

「お前にだったらさ、奈美もちゃんと素直に思ってること言えたんじゃないかって」

「そう、かなあ……」

「今は渚にべったりだけど、やっぱここぞってときにはお前が支えてやんねーと。それが……」

 急に隆道が振り返る。

「男ってもんじゃないのか?」


挿絵(By みてみん)


 しかし、涼太郎は見た。隆道の目に不気味な光がちらついているのを。駄目だ。十中八九、からかってるだけだろう。

「ま、まぁ…… 一応覚えとくよ。でも奈美は僕をそんな風には見てないと思うよ」

「はぁ、気づいてないのは本人だけってな。端から見てりゃ誰だって気づくけどなぁ」

「大体、何でそんなはっきり言えるのさ?」

「あ? 決まってんじゃねーか。男の勘ってやつよ」

 風子に比べたら随分と説得力に欠ける言葉だな、と涼太郎は思った。

「でも今はあれだな、渚が若狭の家に住んでっから。誘い出すのも大変だもんなぁ」

 隆道は勝手に話を進めていく。

「やれやれ、恋敵は女の子ってわけか? 大変だなぁ」

「ほら! 段々左に曲がってきてるよ。そっちちゃんと漕いでよ!」

 ひらひらと手を振りながら隆道は応えた。

「何だよ、自分だって…… 風子に相手にもされてないくせに……」

「は? 何か言ったか?」

「べっつに!」

 荒々しく揺れる小舟の上、鳳華は隆道の肩に停まり、陽に当たっていた。



       ◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 砂浜に小舟が到着すると、風子と潮人が迎えに出た。

「よ、遅かったな」

「悪ぃな。でもその分、期待はしてもいいぜ」

 含み笑いと共に、隆道は早速水揚げを始めた。

「ねぇちょっと、こっち手伝ってよ!」

舟に積みきれず、網のまま引きずってきたものも合わせると、優に舟を覆い尽くすほどの洸眼鯡が砂浜に転がった。

「へへ、どうよ? お前らじゃこうはいかなかっただろうな」

 自慢げに隆道の目が光る。まだ呼吸のある洸眼鯡の中には、その銀の眼で恨めしそうに隆道を見上げているものもあった。

「ふーん。お前らにしちゃ上出来なんじゃないかね」

「ふふん、負け惜しみか、風子? それよりお前らの紫珊瑚はどこだ?」

 風子は無言で指差す。そこにはまるで蔵でも建てたかと見紛うほどの紫の山が鎮座していた。

「な…… こ、こんな……」

 隆道は目を見張った。駆け寄って思わず眺めるが、まだ水気の取れていない珊瑚は明らかにまだ採ってきたばかりのものだった。額に浮かぶ汗の代わりに、珊瑚の山からも雫が垂れ落ちる。

「……は、あはは」

 乾いた笑いが隆道の口から漏れ出した。

「ん? どうかしたんですか? 隆道さん」

 渚は遠くを見つめる隆道の瞳には気づいていない。

「すごいですよね、たったの一日でこれだけ採れるなんて」

「さて、隆道君。出航前に何かおっしゃってませんでしたっけ? どっちが多く捕れるか何やらと」

 さらに追い討ちをかける風子の目は、決して笑ってはいなかった。

「あれ? リョータ達、戻ってたんだ?」

 そしてその妹。

「お、いいところに来たね、奈美。例の勝負の判定を頼みたいんだけど」

「はいはいっと…… で、隆道達の捕ってきたのはあれだよね?」

 奈美は海岸に盛られた魚を見据え、傍にそびえ立つ珊瑚を見上げた。

「……別に、わざわざウチの口から言わなくても結果は出てんじゃん」

「や、とどめはきっちり刺しておかないと」

「はいはい」

 その瞬間、隆道は見た。新しい玩具を前にした天使のような笑顔の姉と、その玩具を授ける任を受けた妹の、悪魔の嘲笑を。

「ほら、渚も一応判定員なんだから、お願い」

「え…… あの…… やっぱり、言わないと駄目ですか?」

 そして、死の鉄槌は振り下ろされた。

「隆道の負けー」

「風子さん達の勝ち…… です」

 砂に何かが倒れる音を聞きながら、潮人は思った。あんなに自信満々で挑んだ勝負に負けるのは、いったいどんな気分なんだろうか。

「早速だが奴隷クン、珊瑚を倉庫にまで運ぶの、手伝ってくれるよな?」

「ねーさんねーさん。何か奴隷さん、一人でやりたいって言ってるみたいだよ?」

「あら、そうなの? 気づかなくって悪かったわねぇ。うふふ、じゃ、あとよろしくー」

 いや、本当に辛いのはそのことをしばらくの間忘れさせてもらえないことか。潮人は何となく理解した。どうでもいいが、隆道の八つ当たりがこっちにまで飛んでくるのは勘弁して欲しい。

「……隆道。まだ陽が昇ってるうちにやっちゃおうよ。あんまり陽に当てると痛んじゃうよ」

「あ、リョータ。せっかくだからあんた、お茶でも付き合いなさいよ」

 風子がわざと涼太郎を遮る。

「え? でも……」

「ほら、あんたも奴隷なんだから。主人の言うことは聞かないと駄目よ」

加えて、同情と差別。

「鳳華。あんたもいらっしゃい。こないだ行商から特上の鷹莱鹿(ようらいか)の肉、手に入れたから。今ならごちそうするわよん」

羽音と共に鳳華は風子の元へと飛び発った。風子達は何事もなかったかのように歩き出した。残された隆道に降り注ぐのは孤独。餌まで使って鳳華を引き離すとは。 

 若狭姉妹(あいつら)、鬼か。

「渚、俺らも行くぞ」

「え、は、はい……」

 せめて俺に出来ることはこれ以上隆道に恥を晒させないことだけだった。というか、元を正せば自分の力量も測れない、奴の自業自得なわけだし。

 砂を蹴りながら後を追ってくる少女の姿を見つめながら、潮人は呟いた。

「平和だな……」

 海に吹く風。そこに生きる人と自然。何の変哲もない毎日と、ささやかな喜び。そしてゆっくりと近づいてくる武闘祭と祈神祭を前にし、潮人の胸中には静かな小波が生まれていた。

「はぁ、はぁ…… もう、いいんですか? 隆道さん置いて行っちゃって」

「いつものことだ。大丈夫。半日もすれば片付くだろ」

「そうですね。隆道さんもいい加減懲りればいいのに…… あ、今のは内緒ですよ?」

 忘れたわけではない。鯨羅がこの日向の村にもたらす災厄も、怯える村人達のひきつった顔も。

 ただ、幸せもまた、損なわれてはいないのだ。絶望の中でこそ笑うことが出来なければ、新たな希望の芽すらも摘んでしまう。

武闘祭と祈神祭を開けるのは、村人達の活きる気力の証であった。そして、その光を与えたのはそこに住む村人の不屈の精神。

「なぁ、渚」

「ん? 何ですか潮人さん」

 それに気づかせてくれた少女が笑う。

「……いや、何でもない」

 俺も笑えているか、と訊こうとした。だが、そんな答えのわかっている質問は無意味であった。渚も、仲間達も笑っているのだから、自分だけ暗い顔をする理由などない。

 そんな、たった一時でも平静な空気を感じられた、ある日のこと。

「おーい! 駿河のぉ!」

海岸の方から、一人の村民が走り寄ってきた。

「どうしたんだ? そんなに血相を変えて」

「け、喧嘩…… 陸奥(むつ)の村の…… と、取引きが……」

 男は息を切らしまるで言葉にならない。

「何だか穏やかじゃないな。とりあえず落ち着きなよ」

 風子が背中を軽く叩いてやると、ようやく事態を掴めるほどに舌を回す。

「大変なんだ! 石狩の旦那が陸奥のやつと揉め出し始めて…… と、とにかく来てくれ!」

 潮人は風子と顔を合わせると、男の示す方角へ駆け出していった。



        ◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 そこには、十人ほどの軽い人だかりができていた。輪を掻き出してみると、二人の男がお互いに掴みかかり、今にも殴りかかっていきそうな怒気を発していた。

「たった三袋で鯛五尾だと? 人をなめるのもいい加減にしやがれ!」

片方は見覚えのある顔だった。石狩家の主人である。行商人から珍しい肉や魚を買うのが好きで、潮人もたまに新しい珍味が手に入ったと、ご馳走になることもあった。普段はこれ以上にないほど温和で、怒りを剥き出しにすることなど滅多にない。

「おい! やめろ! 何が原因だか知らないが、とにかく離れるんだ!」

「す、駿河の……」

 潮人の一喝に、石狩の主人は拳を収めた。組する男はどうやら日向の者ではないようだが、潮人の醸し出す雰囲気に気後れしたか、掴んでいた主人の襟を離す。

「どうしたんだ石狩の。らしくない。それにあなたも」

 潮人は一歩前に踏み出し、男を見つめる。

「私は日向の村長駿河裕作が一子、駿河潮人という。見たところ、あなたは陸奥の者のようだが?」

 陸奥の村は神海とは反対側にある山村で、漁ではなく主に猟によって日々の生計を立てていた。日向は漁利を、陸奥は農作物や鹿などの肉を(なかだち)に、物々交換も行っている。その歩合も数十年も前にほぼ決められていたため、収穫量による多少の変動こそあれど、揉めることは殆んどなかった。だが。

「そいつから、酔麻草を三袋を買おうとしたんだ。そしたら、鯛を五匹よこせとか抜かしやがって……」

主人の言葉に潮人は目を丸めた。酔麻草三袋なら、鯛どころか小鰯五尾くらいの釣り合いである。

「それだけじゃねぇ! こいつは、日向を虚仮にしやがったんだ!」

「ふん…… 日向の村の腑抜け共とまともに取引きなんか出来るかってんだ!」

 ふてぶてしく唾を吐く男の態度に、思わず潮人の頭にも血が上りかけた。が、その時、

「そう。鯨羅に怯えて小さくなっているような村は、俺らの影となってりゃいいんだよ」

 威圧的な声が人垣を割り、三つの人影が姿を現わした。

「は、播磨(はりま)様……!」

 男は慌てて立ち上がると、何かに怯えるように逃げ去ってしまった。

「初めまして、と言えばいいのか。こういう場合には」

 潮人は思わず目を奪われた。黄金色の瞳と髪。渚の蒼碧の瞳にも驚かされたが、この男の放つ色彩も負けず鮮やかな色彩を放つ。その傍らには、漆黒の長髪を結った男が冷たい視線を投げかけてくる。

 そして、二人の陰に隠れようとしながら俯く少女。


挿絵(By みてみん)


「何者だ」

「挨拶が遅れたな。駿河潮人。俺は陸奥の村長、播磨(はりま)紫苑(しおん)という」

「俺のことは知っているようだな」

「まぁな。ついでに村長であるお前の父のことも…… な」

「手間が省けていい」

 先頭の男の言葉に、潮人の目が疑念に歪む。

「だが戯言を抜かすな。陸奥の村長には会ったことがある。お前のように猪一匹も捕れぬような人物ではなかったぞ」

 そう。陸奥の村長と言えば、山の獲物は無論のこと、あの凶虎鮫すらも素手で仕留めてしまうほどの怪力で、日向の村にもその名を知らしめるほどであった。目の前にいるような、針金の如し痩身の男ではなかった。

「そうだな、俺が村長の任を奪ってからまだ一月も経っていないからな。知らないのも無理はない」

「何……?」

 紫苑の口から、およそ信じられない言葉が浮かび上がった。

「奪った、だと? どういうことだ」

「そのまんまさ。俺が前村長を殺し、代わりに村長の任に就いたんだよ」

 潮人は呑んだ。あんな、屈強さを看板にしているような人間を倒せるものなのだろうか。

信じられなかった。それに、そんな横暴なやり方がまかり通ることも、それを可能にするとは思えない紫苑の細い体躯も。

「なぁ。御託はそんくらいにしとけよ」

 潮人の脇から前に踏み出してきたのは、

「あんたんとこの村の話なんて聞いたって、胸糞悪くなるだけだっての」

 奈美だった。飛びかかるような気配こそ見せないものの、奈美の背から立ち込める空気には潮人すら気圧される力があった。

「何だ、この童子(わらしご)は」

「……っるさいなあ。見た目だけで判断するような奴とはまともに話なんかしたくないって言ってんだよ」

「お前となんか話をしている覚えはないがな」

 だが相手は一歩も物怖じすることもなく、奈美の視線を跳ね返した。

「くっ…… もういいよ! 潮人、こんな奴らほっといて行こうよ!」

「潮人、だと? そうか、そこまで落ちぶれているとはな…… く、くくく…… ふははは!」

 何を思ったか、さも愉快そうに腹を抱え出した。

「な、何笑ってんのさ!?」

「くく、悪かったな。日向の男はこんな小娘にまで姓を表さずに名を呼ばせると思うとな…… こんな腑抜けた男の父が村長ならその裁量もたかが知れているというものだ! ふはは……」

 紫苑の高らかな笑い声と共に、奈美の中で何かが切れた。拳を握り殴りかかろうとしたその瞬間、谺は途絶える。

 二矛の銛が、紫苑の喉元に吸いついていた。風子と、そして普段は銛など握ろうともしない涼太郎までもが、紫苑を威圧する。

「……饒舌(じょうぜつ)な奴は早死にするわよ」

「僕らが潮人を名で呼ぶのは仲間だからだ。お前の尺度だけで物事を測るな!」

涼太郎にとってはきっと勇気を振り絞った行動なのだろう。玉となって浮かぶ汗が静かに頬を伝う。

「潮人さん……」

 渚が潮人の服をきゅっと掴んだ。だがここで驚くべきは、一寸先に銛を突きつけられていながらも、まだその余裕を崩さない紫苑の方に対してであろうか。一瞬だけ目を見開くも、紫苑は再び静かな嘲笑を取り戻した。

「……そう怒るな。すまないが、こいつらの気を収めさせてくれないか? 潮人君?」

 涼太郎と風子の手に力がこもる。あとほんの一寸ほど銛を押し込めば、紫苑の喉に二つの風穴が空くだろう。 

 だがその時、

「ふんっ」

 わずかに紫苑が上体を逸らすと、二人の銛が何かに弾かれ、跳ね上がる。紫苑の背後に構えていた長髪の男が突如飛び出してきたのだ。

「こいつ…… 棍遣いか!?」

 逸早く相手を悟った風子はそのまま男に立ち向かうが、遅れた涼太郎は男の一撃を鳩尾(みぞおち)に食らい、倒れこんだ。

「うわっ!」

「リョータ!? んのぉ!」

 涼太郎のもとに駆けつけようとする奈美の足を、風が掠めた。それは、男が風子との組み合いの隙に放った、小さな矢だった。

「わわっ!?」

体勢を崩し、浜に突っ伏す奈美。

「くっ…… 貴様!」

 風子は素早く銛を取り戻すが、間髪入れない長髪の男の棍を前に、(さば)くことしか出来なかった。息一つ乱さず、男は次々と棍を放つ。

「静まれ! 貴様ら!」

 紫苑の喝が海岸中に響き渡った。潮人も、風子も、渚も、周りを取り囲んでいた村人達も一斉に静まり返る。

「くっ…… 潮人……」

 銛を逆手に握った紫苑が、足元に転がる涼太郎に向ける。

「漣。お前にゃそんなこと頼んじゃいないぜ」

 紫苑が長髪の男に向かって言い放つ。

「ですが紫苑。彼らは紫苑に向かって刃を……」

「……もう一度だけ言うぞ、漣。誰が、そんなこと、お前に命じたんだ?」

 紫苑の方が背丈も筋肉の劣るはずなのに。漣という男の方が遥かに小さく見えた。

「……」

 男は風子を見据えると棍を腰に携え、もう一人の少女を隠すかのように身を置いた。それに(なら)い風子も銛を砂に刺す。

「連れが悪いことをしたな」

 そう言って紫苑は銛を、涼太郎の頬のすぐ脇に突き刺し、背を向けた。涼太郎の顔に砂が舞い上がる。

「リョータ! 大丈夫!?」

 尻餅をついたままだった奈美が、涼太郎のもとへと駆け寄った。

「……何が目的だ?」

 潮人が口を開く。

「商いの騒ぎを聞きつけたにしては、こんな日向のど真ん中まで来るのが早くないか? 最初から日向に、いや、俺に用があったんじゃないのか?」

「……なるほど。単なる腑抜けではない、というわけか」

 潮人の問いかけに、紫苑は答えなかった。

 不気味な沈黙の中、潮人は紫苑の目を見つめる。決して思考を感じ取られないようにと、表情を消しながら。侮辱を働かれたことに、何より涼太郎や奈美を傷つけられたことに対して、怒りを抑えるのは難しかったが、先に動向を読まれたくはなかった。

 見たことのない色の紫苑の瞳からは、何も窺えなかった。ただ返答を考えているようにも見えるし、無言によって潮人を挑発しているようでもある。

 陽の照りつける中、紫苑がようやく口を開いた。

「大したことはない。この日向の村を俺に譲ってもらおうと思ってな」

 それは、潮人の予想していたどんな言葉とも違っていた。驚く間もなく、紫苑は続ける。

「鯨羅のことは、貴様らも知っているな?」

「あぁ」

「日向の村も鯨羅には甚大な被害を受けているだろう。そんな日向と取引する陸奥の村にも、その火の粉は降りかかる」

陽射しを受け、紫苑の髪が輝いた気がした。

「……なぁ、駿河よ。いつまで貴様は、鯨羅の陰に隠れてこそこそと生きているのだ?」

 この言葉に激昂しなかったのは、潮人自身不思議に思えた。ただ、潮人の腕に寄り添う渚の温度が、それに至らせたのであろう。

「こそこそとなんかしてない!」

背後から叫んだのは、涼太郎に肩を貸しながらよろめき立つ、奈美だった。

「潮人は…… 潮人は、お父さんが……!!」

「奈美…… もういいから」

 撃たれた腹を押さえ、涼太郎が呻く。

「敗れたのは単純に貴様らの力不足だ。そもそも、あの鯨羅をたった一つの村の力だけで倒そうなどというのが間違っている」

「だからお前自身の手で陸奥を統べ、そして日向も統率しようというのか? どこの者とも知れぬ貴様が?」

「俺も鯨羅の恐ろしさや、自分の限界くらいはわかっている。俺一人で鯨羅に立ち向かうほど馬鹿ではないさ」

 そこにいたのは、潮人と同じ志を持った、一人の若者だった。穏やかで平和な日々を侵す鯨羅を憎み、挑もうとする男。しかし、

「だから力を集めようと、ここまで来たってわけか」

「その通りだ。正直、貴様らには失望したぞ」

「何だと?」

 潮人は紫苑の蔑むような視線を跳ね返す。

「日向の鯨羅討伐の話は耳にしていたからな。さぞかし名のある武人がいると思ったんだが…… このざまか」

 紫苑の顔が苛立ちに歪んだ。

「これ以上は、貴様らや陸奥の者のような抜け殻共には任せてはおくわけにはいかな……」

「勝手なこと言うな! あんたみたいに…… 簡単に人を殺したりするような奴に、誰がついていくもんか!」

 奈美の悲痛な叫びに、風子も続く。

「確かにうちの村は少しばかり腑抜けかもしれないけどね。けど逆上のあまり道を見失っているやつよりはましだと思うよ」

「何だと? 紫苑がそこの男より下だというのか?」

(しゃち)と蟹くらいの差で、ね」

 一瞬、漣の顔が醜悪に歪んだ。再び、潮人と紫苑、風子と漣、そしてその場にいた者全員の間に戦慄が生まれる。が、

「……ならば、武闘祭で決めないか?」

 それを解き放ったのは、潮人の一言だった。

「武闘祭、だと?」

「日向でもうすぐ開かれる祭だ。本来ならば村の者同士で腕を競い合うのだが……」

「それを日向と陸奥の者で闘う、というわけか」

「そうだ。もしお前らが勝ったら……」

 息を呑んでから、潮人ははっきりと言った。今この場に父がいれば、きっと同じ言葉を発していたことだろう。

「播磨紫苑。お前に親父の、日向の村長の座をくれてやる」

「なっ……!」

「潮人!?」

 奈美と涼太郎が目を見開いた。そして二人が詰め寄る前に、

「くくく…… いいだろう。受けてやる」

 紫苑が蛇のように笑い、言葉を返す。

「日は七日後。(やぐら)と舞台が建つので場所はわかるだろう。異存はないな?」

「心得た。だが一つだけ……」

 紫苑がちらりと漣を振り向き、言った。

「戦うのは三人にしないか? そのうち二本取った方の勝ち。その方が祭りとして盛り上がるだろう」

 しばし潮人は黙考した。承諾したとして、他に戦うのは十中八九、風子と隆道になる。対する相手は紫苑と、後ろに控えた漣という男になることだろう。漣には先程、あれだけの体術を見せつけられ、残されたもう一人の実力もわからぬのは危惧するところであるが、それは相手も同じ。潮人自身を含めて二勝する確率は…… 五分だ。

「……わかった。ではそれまでにあと一人、備えておいてくれ」

 紫苑と漣の陰に隠れた少女が参加する、ということは有り得ないだろう。そう思い、潮人は告げた。

「では楽しみにしているぞ」

 身を(ひるがえ)し、紫苑が少女を引き連れ去って行こうとした、そのとき。

「待て」

 潮人が、紫苑を呼び止める。

「何だ?」

「お前が、鯨羅を倒そうという意志に満ちているのは、わかった。だが……」

 言葉を切るも、潮人は続けた。

「何故、お前はそれほどまでに鯨羅を憎んでいる?」

 一瞬の間であったが、潮人は見た。紫苑が何かの思いを馳せ、拭い去れない過去の屈辱に身を引き裂かれんとするのを。

「……貴様に話す道理はない」

 それだけを言い残し、紫苑は歩を進めた。

「失礼」

 風子の前に漣が立ちはだかり、さらに奈美に視線を向ける。

「名は…… 何と言う」

 漣の問いかけに、二人は同時に答えた。

「若狭風子だ」

「若狭…… 奈美」

「なるほど。姉妹ですか」

 男にも負けぬほどの背丈を持つ風子だが、漣の身体はそれにも増して高く、風子を見下ろす程だった。

天草(あまくさ)(れん)と申します。以後、お見知り置きを」

 言い残して漣は紫苑の後を追い始めた。風子の顔が影から脱し、陽が突き刺さる。

「……大変なことになっちゃいましたね」

 離れていた渚がぽつりと呟くが、空から放たれる陽光に溶けてしまい、それぞれが想いを募らせていただけだった。

 故に誰も気づかない。

 紫苑に控えていた少女が何度も足を止めていたことを。そして、渚もまた、少女の背を遠くから見つめていたことを。



       ◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「そっか…… 俺のいないとこでそんな奴らが……」

 夕日に晒されながら、隆道は声を落とした。

「そんなわけで隆道。お前にも戦ってもらいたいんだが、頼めるか?」

「へっ。言われなくとも、俺一人でもやってやるぜ!」

 言いながら隆道は豪快に指を鳴らしてみせる。

「すまんな、隆道」

「水くせぇこと言うなって。にしても、俺も見てみたかったな。リョータが怒ったとこなんて、見たことねーかんな」

 隆道はさも悔しそうに唇を噛んだ。もし涼太郎本人が目の前にいたら、きっと赤面しながらに食って掛かっていたことだろう。

 怪我のこともあり、涼太郎と奈美は既に帰っていたが、潮人らは隆道に事態を説明すべく浜に残っていた。

「涼太郎さん達、大丈夫かなぁ……」

渚が不安げに集落の方を眺める。

「心配ない。相手も本気だったわけではなかったようだし、それに涼太郎の家には薬草も色々と揃っている。明日には回復してるさ」

「でも……」

 渚の顔は晴れなかった。日向では漁に出る際に怪我はつきものなので潮人は気にも止めなかったが、慣れない渚にとっては心配の種は尽きないのだろう。

「私、やっぱりちょっと様子を見てきます。すぐ戻ってきますから」

 言い残して渚は涼太郎の家へと向かっていった。

 残されたのは、武闘祭で紫苑らと対する者達。それ故か、空気が当日の緊張を案じるものへと変わる。

「風子は、相手と闘い合ったんだっけか?」

「まあ、ね」

 虚ろな返答。その意味するところは隆道にも潮人にもわからない。

あの時の風子には油断も不調もなかった。だが皮肉にも、日向で一、二の実力を誇る風子だからこそ相手の力を読め、不安に陥らせてしまっている。

「天草漣、か……」

 棍を突き出す、あの漆黒の瞳が浮かび上がる。一瞬で涼太郎を倒し、風子の銛を避けながら奈美にも矢を放つ余裕を見せていた。さらにその後は、風子自身には殆んど手を出させずに。

 もし陸奥の残り一人が漣をも上回る実力を備えていたとしたら……

「……らしくねえな、風子」

「ん?」

 呆れたような隆道の声。

「お前、いっつも俺に言ってんじゃねーか。勝負なんて所詮は時の運。今日負けても、明日にはどうなるかわからない、ってな」

 がははと隆道は大口を開け、風子の背を叩く。本当は勝者の務めを果たすべく、隆道の気を持ち上げるための言葉だったのだが。

「それにお前が負けたって、俺と潮人が勝つから大丈夫だっての」

「……いや、それはキツいだろ」

「なに!?」

 自然と軽口が飛び出た。隆道の馬鹿さ加減に乗せられてしまう自分が、何となく愉快に思える。が、風子の懸念はもう一つ。

「なぁ、潮人。お前はどう思う?」

「何がだ」

「あの…… 紫苑ってやつさ」

 それだけで何となく風子の言わんとすることがわかった。

「あの漣という使い手を気合だけで威圧してしまう…… 恐らく奴の実力は……」

「漣以上であることは、間違いないだろうな」

 統率ではなく支配。敬意ではなく恐怖が漣の心に一抹でもあるのは、間違いない。では、その根源は一体何なのであろうか。昼間の騒動では紫苑は殆んど動きを見せなかったので、まだ実力を計れない。いや、そのために漣が動いたのではないか。漣の暴走に見せかけ、自らの力量を隠していたのではないか。それともただ単に、潮人が動かず風子が刃を向けたから、紫苑に従う漣の方が手を出したのであろうか。

「とにかく、風子が手の内を見せちまったのは少しまずかったな」

 隆道がわざとらしく溜め息をつくが、風子は気にも留めない。

「……いや。切り札はまだ見せてはいない」

 視線を追うと、天を突き刺しそびえ立つ剛雷。穏やかに風を浴びながらも、風子に代わって闘志を満たしているように思えた。

 立ち上がり、風子はその巨槍にそっと触れる。そして、

「……さて、とりあえず私は帰るよ。もう話しとかなきゃいけないこともないだろうし」

 風子は微かな笑みを浮かべた。決して誰にもその身を掴ませない風のように。

「そうだな。誰が出て来ようとも、俺ら三人がぶちのめす。それだけだぜ」

 対して、隆道は顔中の筋肉を持ち上げるかのように、笑う。

「俺はまだ残ってるよ。少し考えたいことがあるんでな。それに渚も戻ってくるかもしれないし」

「ま、いちゃつくのは勝手だけど、若狭家(うち)には早めに戻らせてよ? 夕餉が遅くなっちゃう」

 夜は渚は若狭の家に泊まっているので、風子の心配も最もだった。何はともあれ、表面上には風子にも笑顔が戻ったので、潮人は少しばかり胸を撫で下ろした。もっとも風子の心中を読むのは、奈美に詩吟を語らせるよりも難しい。

 雨雲が近づいてくる。湿った空気と遠くで鳴り響く雷の音がそう物語っていた。

「鯨羅を倒す、か……」

 浮かぶのは黄金色の瞳に、意志を秘めた男の姿。あれほどまで罵倒されながらも、今となっては紫苑を憎む気持ちは一握りすらも浮かばなかった。

 鯨羅の名を出した瞬間、紫苑は間違いなく自分と同じ顔をしていた。愛する仲間と、家族と、村を守ることを切に願う気持ち。守れなかった無念を、測り知れない恐怖を、敗北の苦汁を、過去に紫苑も啜ったに違いない。鯨羅と実際に闘った者同士だからこそわかる痛み。だからこそ、仮の安息の中で怯懦を隠し過ごしていた日向の村が許せなかったのかもしれない。

 だが紫苑の愚かさはその矛先を間違えてしまったことだった。憎むべきは神海を荒らす鯨羅であるのに。鯨羅に対抗する強大な力を求めんがばかりに、それを更なる力で統率しようとしてしまっている。

 だがそんな紫苑を憐れとすることは、潮人には出来なかった。今の紫苑の姿は、自分の姿にもなり得るから。

 仲間が、父が潮人を支えてくれていた。それがない人間の辿る末路には、同情はしても責めることなど出来ない。

 苦悶する潮人の髪に、ぽつりと雫が垂れてきた。とうとう降ってきたらしい。

およそ月さえも覆い尽くしてしまうような雲が闇夜の到来を暗示していた。それが潮人の、日向の村の行く末なのであろうか。

 神海に背を向け、家路へと向かおうとしたその時、視界の彼方に何かが映った。

 それは小さな人影であった。潮人と同じく海岸を散策でもしていたのかと思ったが、すぐに異変に気づく。服はあちこち破れ、どうにも足取りがおぼつかなかった。杖を手にし、何かを探しているように歩くが、しかし首は全く動かすこともない。

「あれは……」

 時折寄せてくる波に草鞋(わらじ)を濡らし、それでも黙々と歩く姿に、潮人は見覚えがあった。

 珊瑚のような濃紫の長い髪をした少女。確か昼間に、紫苑の陰に控えていた少女ではないか。

 雨が次第に強まるが、少女はそれをしのぐ様子もなく、ただ淡々と脚を動かしていた。

 潮人は服を脱ぎ駆け寄ると、少女の頭上に広げ、雨を遮った。少女は不思議そうな顔をしたものの、やはり潮人のことなど目に入っていないかのようにただ歩く。

「……何をしている。こんなところで」

 たまらず潮人は声をかける。

「あっ……!」

 少女は息を呑み、足を崩してしまった。

「……そんなに驚いてくれなくてもいいだろう。一応ここは日向の村なんだから。俺がいても不思議ではあるまい」

 最初は紫苑の命で日向の偵察にでも来たのかと思ったが、両手で身を庇いながら怯える少女の姿が、そうではないと告げていた。

「立てるか?」

 雨を凌ぎながら、潮人もしゃがみこむ。

「その声…… もしや、駿河様でいらっしゃいますか?」

 初めて耳を通り抜けたその声は、紫苑や漣のものとは明らかに違っていた。透き通るようで、それでいていつまでも耳に、脳の奥にいつまでも残しておきたくなるような。そう。渚の歌声と同じような(きらめ)きを持っていた。

「もしや、とはまた失礼だな。それとも遠目だったから俺の顔なんて見えなかったか」

 言って、すぐに違和感に気づく。遠目…… 目…… そして手に持った杖。

「もしや、君は目が……?」

「仰るとおりです。」

 言葉は確かに潮人に向けられていたものなのに、瞼は閉じられたままだったのだ。

 盲人に接したことのない潮人だったが、戸惑いながらも察することが出来た。たかが隣村まで来るのに、何故これほどまでに着物や髪が乱れているのか。目の見えない者がたった一人で辿り着くのには、距離は数倍以上にも感じることだろう。

「繰り返して申し訳ありませんが、やはりあなたは駿河様なのですね?」

「いかにも。見たところ一人のようだが、君は昼間に紫苑と一緒にいた娘だな?」

 なるべく語気を押さえながら言った。陸奥の村とは確かに緊迫した状態になってしまったが、そんなときに日向を訪ねても歓迎されないことくらいはわかるだろう。それを承知で、しかも盲目の身体を圧してまで来訪した娘にまで敵意を感じては欲しくなかった。

「それに、雨も降ってきた。何の用だが知らんが……」

「駿河様! 兄を…… 兄を止めてください!!」

 言葉が尽きる前に、少女が胸に飛び込んできた。

「止める? それに兄とは一体……」

「兄は…… 兄は怒りに我を失ってしまっています。たとえ鯨羅を打ち破る為だとしても、人を殺めるなんて……」

 それから先は言葉にならなかった。ただ、何も映さない瞳から流れる涙でも、悲しみを帯びてしまうことに潮人は気づいてしまった。

「お願いです。やめて…… やめさ…… てくだ…… い……」

「とりあえず場所を移そう。こんな砂浜の真ん中では……」

 雨も凌げない、と言おうとしたその時、どさっと何かが落ちる音がした。

「潮人さん……」

 振り返ると、渚がそこにいた。蟹につままれながらもそれに気がつかないような魂の抜け落ちた顔で。

「渚? 戻ってきたのか」

しかし返事はなかった。渚の手から滑り落ちた番傘が、渚と共に雨に打たれていた。

「手傘を持って来てくれたのか。しかし風子達は……」

「不潔!」

 再度、潮人の言葉は遮られた。よく話の腰を折られる日だなと思いつつ、先程以上に不可解な折り目だった。

「おい渚。何を……」

「潮人さんがそんなことする人だったなんて…… やっぱり、隆道さんの言う通りだったんですね!?」

「渚! 何を言ってるかわからん」

「そんなトコまでいっといて…… 見つかったからってとぼけるつもりなんですか!? ぐすっ…… うわーん……」

 とうとう泣き出す始末。何だか前にもこんなことがあったな、と潮人は少女を見つめ、さっきまでの状況を回想した。

 人も寄らない砂浜に、時は夕陽も消えた頃、女が着物を乱されて、男が裸で迫り来らむ、少女はやめてと泣き叫び、眺むは魚の群ればかり、雨に紛れるその声は、貪る嬌声、喰われる痛み……


「ふぇーん、風子さぁーーん……」

状況を全く掴めない少女の横で、渚をようやく説得した頃には三人まとめて、まるで海に潜ったばかりのようにずぶ濡れになっていた。



       ◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 巨大な五葉松の下、少女はやはり何処を見つめているかもわからない瞳で言った。

「兄は…… 魚を捕るのもためらってしまうような、優しい人でした」

 播磨紫舜(ししゅん)。彼女の名乗った名は、言わずとも紫苑の血縁であることを示していた。

「そしてもうお気づきかもしれませんが、私達は陸奥の生まれではありません。ここから何百里も離れた、支那(しな)という地から参りました」

 渚は息を呑むが、潮人はただ紡ぎ出される少女の言葉に耳を傾けていた。

紫舜という少女の独白は、半ば予想されていたものだった。紫苑や漣の名は、この付近の村では聞かない響きを持っていた。そして、紫苑のあの黄金の髪。あのような者が近村に居れば自然と目に入るはずなのに、噂にも上らないのはおかしい。

「そんな私達の共通の因縁は…… 鯨羅と呼ばれる、あの怪魚にあるでしょう」

「よもやそんな遠い地にまで……」

「鯨羅は嵐を求め、常に移動し続けています。いつしか支那の海にも鯨羅が現れるようになりました。そして……」

 その先は聞かずともわかった。鯨羅の現れた漁村に、安息などあるはずもない。思わず潮人は顔をしかめた。

「最初は支那も、この村同様荒れ果てました。鯨羅を倒そうなどと思う者は居らず、ただ嵐が起こらないことを祈るばかりでした。ですが兄様が成人する前日の晩にまた、嵐は起こりました」

「鯨羅がまた現れたんだな」

「はい。そしてそのとき、父様が立ち上がったのです。成人の儀が行われる日は兄様の婚礼の儀も重なっていました。そんな祝福すべき日に、鯨羅をのさばらせてはおけぬ、と。」

「それで……?」

 声を震わせながらも渚が先を促した。

「父様は討伐隊を結成し、次の日の早朝から神海に出向きました。ですが……」

「惨敗、か」

 紫舜は無言で肯定する。

「父様とその部下数名がなんとか帰還致しましたが、父様は最後の力で兄様に『才』を受け渡し、ほどなくして息絶えました。そしてその日を境に……」

すっと紫舜は、顔を伏せた。

「兄は変わってしまいました。私や漣様に、鯨羅への復讐を誓って……」

 「才」を受け継いだのは、悲しみも悔しさも飽和しきった頃。それを破裂に至らせたのは父の死だった。そして恐らく紫苑が手にしたのは、風子の剛雷にも劣らない、強大な力。人を修羅に陥れるには充分すぎるほどの因果だった。

「兄は、間違っています! 私も、(りん)様も、そんなこと望んでいないのに……」

 乾き始めていた紫舜の頬が再び濡れる。だが潮人はそれを拭うことはしなかった。潮人に出来るのは、生きるべき未来を見誤った紫苑を止めること。さすれば少女の涙も自ずと果てる。

「ねえ、紫舜ちゃん?」

 渚が優しく紫舜の顔を払った。

「私も…… 実はまだ日向に来たばっかりなの。だから、この村のことはあまりよくわからない。けど潮人さんや、そのお友達のことは、少しずつだけどわかってきたつもり。そんな私から言えるのは一つだけ」

 首を傾けながら、渚は言った。

「あなたのお兄さんは、潮人さん達が必ず止めてくれる。また、昔のお兄さんに戻してくれますよ」

 勝手なことを、とも思ったが、渚の言葉はそのまま潮人の望みを代弁していたため、何も言えない。

「それに、潮人さんは、女の子の涙には弱いんですよ」

「ばっ……!」

「なんてったって、私も涙で潮人さんを落としたんだから。なーんてね」

 慌てて渚の口を塞ごうかと思ったが、紫舜の手前、そんな醜態を見せたくなかった。見えるはずがないと気づいたのは、笑いながら舌を覗かせる渚にすっかり毒気を抜かれた後だった。見ると紫舜まで口に手を当てながらくすくすと笑っている。

「それはそうと…… 紫舜とか言ったな」

 今度はなるべく威厳を含ませる口調で言った。もう手遅れかもしれないが。

「はい?」

「二、三気になることがあるんだが」

 潮人の雰囲気に、少しばかり紫舜は姿勢を正す。

「紫苑が亡くなった父から継いだ『才』は、一体どのようなものなんだ?」

 途端、紫舜の顔が曇る。紫舜に仲間の、しかも肉親の秘密を口にさせるのは少々心が軋んだが、紫苑に勝つためには多少の情は捨てなければならない。潮人はそう考える。

「紫苑の実力が未知数な以上、確実に勝てるとは言えん。もし知っているなら教えてくれないか」

「……実は、私もよくはわからないのです。今までに兄様は私の前で『才』を発揮したことはありませんでした。もしくは、私が気づかなかっただけかもしれませんが」

 そうか、と潮人は肩を落とす。目の見えない紫舜にとっては、(いた)仕方ないことだ。

「ですが、父様からは何か数珠のような物を授かったようです。恐らくは、真珠か何かで拵えたものだと思います。歩くときにそのような音がしました。以前はそんな音は聞こえなかったのに……」

 武器だと思っていた潮人の想像は、どうやら外れたらしい。

「そしてもう一つ。漣様の『才』は弓です」

 潮人は驚愕した。昼にあれほどの体術を見せていたので、てっきり棍遣いかと思っていた。だがそうではなかった。風子との組合いの際に奈美に放った小さな矢。あれこそが漣の「才」の成せる技だったのだ。

「漣様は五つになる頃には既に弓を手にしていました。ですから漣様と戦う方は、決して弓を握らせないで下さい」

ふと風子の顔がよぎる。風子も射撃は決して不得手ではないが、忠告だけはしておくべきだろう。

「わかった。それだけでも参考になったよ。有難う」

 潮人は質問を絶やさない。

「それと、これは聞き違いかもしれないし、答えにくかったら聞き流して構わないのだが、さっき君は琳、という名を口にしていたね」

 紫舜の肩が跳ね上がった。

「これは俺の勝手な推測だが、もしや……」

 答えるのを躊躇っていたようだったが、やがて紫舜は顔を上げた。

「はい。漣様の姉君様であり、そして兄様の……」

「そこまでにしといてもらおうか」

 全てを捻じ伏せる禍々(まがまが)しい声。いつの間にか、雨に濡れた紫苑と漣が浜に立っていた。

「貴様ら…… よくも紫舜を……!!」

 紫苑は()め掛ける眼のまま、懐から銀の光を抜いた。見たこともない光沢。噂に聞いたことのある、青竜刀という武器だった。漁に使う道具ではなく、人を殺すことを生業とした血塗られた刃。

 潮人はすかさず銛を拾い、構える。

「腑抜けかと思えば、紫舜を(さら)っていくとはな…… そんなに命が要らぬか!!」

「やめてください兄様!! 駿河様達は何もしてません! 私が自分でここまで来たのです!」

 だが紫苑の目には、愛する妹を奪った憎き男しか目には入らなかった。

「死ね!!」

 紫苑は濡れた青竜刀を薙いだ。

「危ない!」

 渚を抱え、剣撃を躱す。一瞬、背を打つ雨が和らぐほどの風圧。その隙にもう一つの影、漣が紫舜の手を引き寄せ、身体を見回す。

「怪我はありません。大丈夫です」

紫舜に外套を被せながら、漣が言った。僅かに紫苑の殺気が静まる。

「そうか…… だが紫舜を攫い、その身を案じさせた罪は重いぞ! 駿河潮人!!」

「妹の言葉に耳を貸さず、誤解を抱いたまま俺を切るか、播磨。お前こそ神海の藻屑(もくず)と化せ!」

 人攫(さら)い呼ばわりされては、潮人の我慢も限界を超える。銛の穂先を紫苑の心臓に向け、腰を溜めた。漣も紫苑を討たせまいと棍を出す。が、

「やめてぇ!」

 二人の少女の悲鳴が渡った。潮人の前には渚が、そして紫苑と漣の前には紫舜が立ち塞がる。

「しっかりしてください潮人さん! そんなんじゃこの人達とやってること変わりませんよ!」

「兄様…… どうか、どうか私を信じてください! 私は攫われたわけでも、暴力を振るわれたわけでもありません。ですから……」

「ならば、何故今お前は日向にいる?」

「そ、それは……」

 雨が波間に吸い込まれるしばしの粛清の中、先に刃を下ろしたのは潮人だった。

「播磨。焦らずとも決着は武闘祭で行う。俺を斬りたければその際に斬れ」

 紫苑は更に前へ踏み出ようとしたが、

「紫舜が無事なら、その必要もない…… 今は、な」

 そう言って、刀を収めた。

「それに、こんなところで貴様を殺しては反感を買い、日向の村民共を()べられなくなるからな」

 やはり不気味な眼光を携えてはいたが、口元は僅かに笑っていた。

「行くぞ、紫舜、漣」

 そう言って紫苑と漣は踵を返す。一度だけ振り返った紫舜は、祈るように潮人の方に手を組んでから、また紫苑に手を引かれ歩き去っていった。

「怪我はないか? なぎ……」

 振り返り、潮人は息を止めた。渚の瞳から流れるのは、決して降り注ぐ雨の川ではない。

「……渚?」

「ごめんなさい…… でも……」

 初めて見たのは、誰もいない岩場で悲しみを乗せた歌を耳に、絶望を神に訴えかけるような涙だった。

 そして今、目に映るのはやはり悲哀が込められた嘆きの涙。

 どちらも他人の…… 自分ではない誰かを想って零れ落ちる憂愁と慈愛の雫。

「心配ない。お前と紫舜の想いは、必ず果たしてみせる」

 返事はなかったが、きっと届いただろう。そっと触れた渚の手が、同じように潮人の手を固く握り締めていた。


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