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第三章

       ◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「瀬戸内渚です。よろしく」

 と、渚は新たな二人にも手を差し伸べた。

「伊勢涼太郎です。よろしくね」

「…………」

 涼太郎は渚にも負けない、見る者全てを和ませる笑顔で迎えるが、奈美はといえば風子の陰で怪訝そうな視線を飛ばすばかりだった。

「……ったく、悪いね。こいつちょっと人見知りする方だから」

「あぁ。普段は俺達でも手のつけられないほどやんちゃなんだけど…… あいた!」

 隆道の背に奈美の足がめり込む。足の裏を使わず爪先で、しかも的確に背骨を狙うところはさすが奈美といったところか。

「ねぇ。渚さんはどうしてこの村に訪ねてきたの?」

 海老のような格好で仰け反る隆道を尻目に、涼太郎が言った。

「えと、そうですね……」

 顎に指を当てながら何やら思索しているようだ。

「実は私、漁村の方の暮らしって、あまり知らなかったんです。でも昔、母にそんな村の人達のお話を聞いたことがあって、一度見てみたいなって思いまして…… なんてのはだめですか?」

「だから、なんで俺に聞くんだ?」

岩場でのときと同じように、渚は問い返しながら首を傾げた。隠し事、といえば大げさかもしれないが、あまり触れられたくないことなのかもしれない。

「よし、それならまだ時間もあるし。これから漁にでも出てみるかい?」

 神海に昇る朝陽に目を窄めながら、風子が提案した。例え素性がわからなくとも、一度血束を交わし、神海の上で同じ時を過ごせばそれだけで仲間となる。

「そうだね。久しぶりに皆で神海に出ようか?」

 それは風子や涼太郎も同意見であった。それに、地べたに這い(つくば)りながら鳳華に慰められている男もきっと変わらないことだろう。

「うぅ……」

 ただ一人、幼い少女が不満の声を漏らすのを除いて。



 駿河、伊勢、若狭、周防の四家が共に舟を出すのは、実に二百日ぶりであった。この日は特に大掛かりな漁を計画していたわけでもないので、それぞれ三人乗り程度の小舟を出す。通常、舟は浜に丸太を敷き詰め、その上を転がして海岸まで運ぶのだが、この程度の大きさの舟であれば潮人、或いは隆道や風子の手にかかればその必要もない。村人の舟が置かれた蔵も砂浜に面しているので、綱を結んで海岸まで引っ張り出していく。

 奈美と渚を除く四名は舟を所定の位置につけると、あとはそれぞれ異なった準備を行う。

まずは涼太郎が半里ほど沖へ出て、風と波を読む。鳳華も涼太郎とは違う場で海に潜り、ほどなくして隆道のもとへと戻ってくる。

「今日は南だな。いつも通り珊瑚礁の辺りか、もしくは沖から追い込むのがいいだろう」

「僕も同感。けど、あまり沖まで行くとフカが出るかもしれない」

 頭の水気を払いながら二人は言った。

「潮人さん、フカって?」

「サメのことだよ。この季節なら舟に乗ってれば大丈夫だけど、冬が近づくと冬眠に備えて餌を貯めこむ種もいるんだ。そういった奴は凶暴化してこれくらいの舟なら一撃で転覆させちまう」

「……ちょっと怖いですね」

「この時期なら潜らなければ平気さ。もっとも俺や風子あたりなら水中でも問題はないけど」

だがこの日は渚や奈美もいるため、万一を配慮する必要があった。何にしても危険を遠ざけておくに越したことはない。

「深追いはやめておくか」

 浜に簡単な図を描きながら打ち合わせをする。

 最初に、風子が魚を浜に誘導する。その際、鳳華は風子に同行し、作業が終わると涼太郎のもとへ向かう。あらかじめ涼太郎は魚の進路の途中に待ち構え、鳳華の姿を確認すると、すり潰した毒草を撒き散らす。この毒を体内に吸入した魚は弱まり、浜付近に辿り着く頃には泳ぐことすらままならなくなる。そこを潮人や、後から戻ってくる隆道らと共に一気に捕らえるのだ。

手順を確認すると、風子は剛雷を担ぎ立ち上がった。

「ほら、奈美行くよ」

 妹に手を差しのべるが、奈美は首を振った。

「いいよ。姉さんと一緒に行っても何も出来ないし。ウチ、潮人の舟に乗る」

「はぁ? 奈美、あんた何言ってんだ?」

「それだったら網張るのだって手伝えるし。見てるだけなんてつまんないもん」

 言いながら奈美は早くも潮人の舟に乗っていた。

「まぁ、潮人がいいならいいけど。どうする?」

「別に構わないぞ。俺んとこには渚もいることだし、一人も二人も変わらないさ」

「……ちょっと潮人さん? それじゃ私がお荷物みたいに聞こえるんですけど」

「ん? 違うのか?」

「むー!」

口を突き出しながら渚が背中を叩いてきた。本人には悪いが痛くもかゆくもない。毎日のように奈美の蹴りを喰らっていた潮人にとってはなおのことだ。

ふと、潮人は奈美に目をやった。一緒にお荷物扱いされたにも関わらず、奈美はせっせと銛や木箱を積み込んでいる。渚よりもむしろ奈美が飛びかかってくるのを予想していたのだが。

「それじゃ、奈美のことよろしくな」

 言い残して風子が浜辺を去った。続いて準備を終えた隆道も舟を出す。

「でも、潮人さん。捕った魚って食べるんですよね?」

「もちろん」

「毒なんか使っても平気なんですか? 食べるときにその毒が……」

「くすっ。それは平気だよ」

潮人に代わって涼太郎が口を開いた。

「これがその草なんだけど」

涼太郎は懐から麻袋を出し、中身をつまみ出してみせる。萌黄色の粉末が手に広がった。

「これは酔麻草(すいまそう)っていう草なんだ。人間には害はないし、毒って言っても動きが鈍くなったり目を回す程度らしいから、命には別状はないよ」

「なんだか酔っ払いみたいですね」

「そうだね。木天蓼(またたび)っていう木と同じ種類みたいなんだけど……」

「ちょっとリョータ! さっさと行きなよ! もう姉さんも隆道も行っちゃったよ!?」

 奈美の怒号が砂を巻き上げる。

「な、奈美? 何でそんなに怒って……」

「……っるさい! 怒ってなんかないよ! いいから早く行けってば!」

「どうしちゃったんだろう…… じゃ、潮人も渚さんも、また後でね」

 小声で呟くと、奈美にもう一喝されながらも何とか舟を出した。

「……潮人も。早く網積み込んでよ。そればっかりは私だけじゃ持ち上がんないからさ」

 蟹の殻さえも貫けそうな視線で、奈美は訴える。無闇に逆らえばそれこそ銛を突き刺してきそうな勢いだ。

 一つ息を吐き、潮人は網を担いだ。案じたのは澄み渡る神海の空の雲行きでは無論、ない。



        ◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 潮人が(かい)を放し、一刻ほど過ぎた。奈美は舟の端で今か今かと合図の鳳華が飛んでくるのを待っている。渚と潮人は奈美とは反対側に座り、ただ奈美の背を見つめていた。

「ねぇ、潮人さん。またちょっと聞きたいんですけど」

「ん? 何だ」

「風子さんが魚をこっちにおびき寄せるって言ってましたけど、どうやってそんなことするんですか? 舟にも乗らず岬の方に行っちゃったみたいですけど。涼太郎さんみたいに毒か何かを使って……」

「いや。もっと単純さ。それに、あのやり方は風子にしか出来ないし、一番効率いいからな」

「むー。それじゃ答えになってないですよぉ」

こうやって怒ったふりをするのは渚の癖なのだろうか。潮人は思わず苦笑する。

「ちょっと、何で笑うんですか!?」

「いや、何でもないさ。ん? 見えてきたぞ。ほら渚、あっち」

渚は潮人の指差す方へと目を向けた。遥か青空の彼方に粒貝ほどの影が羽ばたく。だがそれは今までに見たどんな鳥の姿とも異なっていた。  

巨大な棒を手にした別の何かを担いでいるような。

「あれは…… 鳳華ちゃんと……」

「あぁ。それと風子さ」

さらに目を細めると、確かに鳳華の脚には風子が捕まっていた。

「あれって、まさか……」

渚が潮人の肩をつかんだその時、影が二つに割れた。

風子が手を離し、波穏やかな神海へと落ちていく。その手には剛雷を握り締めて。

「せりゃああ!」

声が渚のもとにまで届いた気がした。渚は思わず目を疑う。波に触れるその直前、風子がその巨大な槍を水面に叩きつけ、そして自らも剛雷に負けぬほどの水柱を上げんがための弾丸になっていた。

潮人の言う通り、その方法とは実に単純なもの、魚を驚かせてその場から退かせる、というものであった。 

ただ、単純でないのはその驚かせる方法にあるわけなのだが。

「し、ししし、潮人さん?」

「さて、始まったな」

腰を抜かしそうな渚に、潮人は得意そうに笑いかける。

「何をそんなに落ち着き払ってるんですか!? 風子さんが……」

「大丈夫。あいつはこんな程度じゃかすり傷一つ負わないさ」

「で、でででも!?」

 そういえば、こんな風に舌が回らなくなる様子もよく見かけるな、とやはり潮人はこみ上げてくる笑いを噛み殺した。

ほどなくして何とか落ち着いたようだが、再び好奇心に火がついたのか、渚は浴びるような質問を放ってきた。

 黒飛鷹(こくひよう)のことを話していたので知識は豊富なのだと思ったが、山村か街の育ちなのか、本当に漁に関しては無知らしい。もっとも、こんな漁のやり方をするのは潮人らだけではあったが。渚はそんな潮人の一言々々に目を輝かせ、また更なる疑問を投げかけてくる。

今までも同じように皆と漁に出たことはしばしばあったが、渚のような同乗者がいると随分と雰囲気が変わってくるのを潮人は感じていた。 

潮人の役回りは最も待機する時間が長いため、退屈を持て余すことはままあったが、こんな風に時が無駄に思えずに済んでいるのは初めてかもしれない。

いや、きっと原因はそれだけではない。

仲間との久しぶりの漁。もう叶わないかと思っていたことだったが、この目の前の少女のおかげでいともあっさり遂げてしまった。それがたまらなく嬉しいのだろう。

潮人はそう思った。が。

「ねぇ。そろそろ網張ろうよ」

不意に、奈美がそう言った。

「ん? 別にまだ大丈夫だぞ。鳳華が来るまで……」

「そうだけど、いいじゃん、別に早めに張っても。それに、何となく水につかりたくって」

潮人に目を合わせることはなかったが、決して奈美は譲らない。せっかくの空気を濁すその態度に思わず潮人の声にも高波が立った。

「どうしたんだよ。さっきから変だぜ?」

「……別に、そんなことないってば」

だが奈美の瞳はそうは言ってなかった。

「やっぱこっちの舟は暇だったんじゃ……」

「違うってば! 何でみんなしてウチが変だなんて決めつけるのさ!?」

 言葉をさらに覆すように奈美が立ち上がった。

「馬鹿! 舟の上で暴れ……」

 言うが早いか、ぐらりと舟が揺らめく。奈美は足をすくわれ、傍らの銛に手をついた。

「痛っ……」

「おい! 大丈夫か?」

「平気…… ちょっと切っただけだから……」

 奈美の顔が歪む。だが、それは決して怪我のせいではなかった。痛みを訴えるのは滲み出る血に任せているが、潮人はそれに気づかない。

「……ったく、舟の上で急に立ち上がったらこうなることくらいわかるだろ?」

呆れるように言い放つが、奈美は口を(つぐ)み俯くだけだった。風子と違ってあまり漁に出た経験のない奈美にとっては、少し過酷な詰問だったかもしれない。

「ほら、手見せてみろ」

「……もういいよ。ウチ泳いでくる」

「おい!」

「こんなの、ちょっと海で洗い流せば治るってば! いいから、一人にしといてよ!」

反論させる間も与えず、奈美は舟から飛び降りた。泳ぎに関しては特に心配ではなかったが、風子に任された以上、あまり身勝手な行動をさせたくない。

「あの…… 潮人さん」

 渚が小さく囁く。まるでまだそこに奈美がいるかのように。そして、その孤影の奈美に決して声が届かないように。

「私、奈美ちゃんに嫌われちゃったみたいですね……」

「……そんなことないさ」

咄嗟に否定するも、見るからに渚は肩を落としていた。

「きっと、私といるのが窮屈だったんだと思います。さっきも涼太郎さんに、というより私に腹を立ててたように見えました。何故か、はわかりませんけど……」

「風子も言ってただろ。奈美はちょっと人見知りが過ぎるんだ。それにもし本当に渚が嫌なら同じ舟なんかには乗らないさ」

「そう…… でしょうか」

 渚はただ、奈美の飛び込んだ水面を見つめるばかり。

かく言う潮人にも解せない点はあった。最初は奈美も久しぶりの漁に血が騒ぎ、背伸びしているだけかと思っていたのだがそれにしては気が立ち過ぎである。しかし風子の言う通りだったとしたら、わざわざ潮人の舟に乗ることなど選ばないはず。ならば。

「何となく、今思ったんだが」

「はい?」

「逆だったのかも、しれないな」

 渚が蟹につままれたような顔で振り返る。

「あいつは渚と仲良くなりたいのかもしれない」

「えっ…… え?」

「今まで、あいつには同い年の仲間なんていなかったんだ。いつも俺や涼太郎なんかにくっついてきていたし。もしくは近所の童子の面倒を見ているか……」

 今度は潮人が視線を落とす。

「そんな風に年上か子供としか接したことはないからな。勿論、初めて出会う人間が苦手ってのもあるだろうけど。でも、渚は風子(あねき)以外では初めての、年の近い女の子だからな」

 だが、初めての人間に対する恐怖が奈美の心を占めているのもまた事実。その葛藤が意思とは無関係に表に噴出してしまっていたことだろう。

「謝らなきゃな。あいつも努力していたことに気づいてやれなかった」

潮人が下を向いていたときには、背中を蹴り飛ばして再び陽に向かわせてくれたというのに。

「そう、ですね…… きっと大丈夫ですよ。奈美ちゃんなら許してくれますって。それに……」

 渚の顔が綻んだ。

「私も、奈美ちゃんとお友達になりた…… きゃっ」

 と、渚の笑みと共に舟が波に押され、揺らめいたその時だった。

「なっ……!」

 潮人は思わず絶句する。水面を彷徨う黒い突起。

「まずい……」

 その背鰭(せびれ)はしばらく円を描くようにゆっくりと水を切ると、そのまま水中に姿を消した。

 ほんの数瞬だったが、潮人は見た。神海の底よりもさらに深い暗闇を思い起こさせるような漆黒の鰭。それが先端の部分で二つに分かれていた。

凶虎鮫(きょうこざめ)…… まさかこんなとこにまで来やがるとは。奈美…… 奈美はどこに行った!?」

「わ、わかりません…… そんなに遠くへは行ってないと思うんですけど」

 潮人の焦りが伝播(でんぱ)したのか、渚もまた青白い顔で立ち尽くしていた。

二又の背鰭をもつ凶虎鮫は、その種の中でも随一の凶暴さを持っていた。何よりも新鮮な血を好むことで知られ、半丈にも満たない魚には目もくれず、より大きな獲物を探してはその牙を血で染める。村の者にもかつて何人か犠牲が出ており、こと人間に対しては見境のない獰猛さを曝すので、潮人や風子でもまず近づくことはない。舟を襲うことはそうないが、海中でその牙に相対するのは自殺行為に等しい。

潮人の脳裏に、奈美の横顔がよぎった。

『ちょっと洗い流せば……』

そして、手の平から滴る血の雫。

「あいつ…… 手に怪我を…… 奈美が狙われる!」

「えっ?」

「やつらは血の匂いには何よりも敏感なんだ! ほんのかすり傷でも嗅ぎ取り、どこまで追いかけていく…… くそっ……! 奈美、奈美ぃ! どこだー!?」

潮人の絶叫にも、繰り寄せる波は静寂を保っている。まるで凶虎鮫の狂気を覆い隠すかのように。潮人の焦心を吸い込むように。

 潮人は船縁に立ち、銛を掴むがすぐにその手を離す。勝ち目のない相手に立ち向かって生き延びられるほど神海は甘くない。何か他に手があるはずだ。何か……

「潮人さん…… ちょっと、お借りしますね」

 背後で渚が呟いた。振り返り、潮人は目を疑う。赤く染まった短刀を手にした渚が、もう片方の手首からさらに紅い血河を流していた。

「な…… 何をやってるんだ!? 渚!」

「凶虎鮫は血を狙う…… そう言いましたよね?」

 目を伏せ、渚は舟から手を差し出した。二又の鰭が再び姿を表し、渚の血に輝く水光へと向かってくる。

「私がしばらく鮫を惹きつけます。その間に奈美ちゃんをお願いします!」

 細い肩に伸びる潮人の手。そこからすり抜けるように、渚は水の中に消えた。潮人の頬を濡らすのは、わずかに散った飛沫だけ。汗を掻く間もなかったひとときの雫。

「馬鹿な…… な、渚ぁー!!」

 声から身を隠すように凶虎鮫もまた背を沈める。

 ややあって、別の波間から息を継ぎながら水を吐く奈美が顔を見せた。

「な、奈美……?」

「ぷっはぁー。ちょっとばかし潜り過ぎたかな。さすがのウチも死ぬかと思…… あれ、渚さんは?」

奈美は知らない。渚が自分をかばって海に飛び込んだことを。いや、凶虎鮫の存在にすら気づかなかっただろう。

潮人は浮き袋をくくりつけた綱を奈美に投げつける。

「うわ、何だよ。今さらこんなのなくたって舟まで辿り着けるよ」

「……いいから。早く上がってこい」

怒鳴りつけたい気持ちを抑えるのが精一杯だった。異変に勘づいたのか、奈美も口を開くことなく浮き袋を掴む。

「ね、ねぇ…… 渚さんは?」

舟に上がる際に差し出された潮人の腕は震えていた。

「……凶虎鮫が現れた。そいつをおびき寄せるために、渚は手首を切り、舟を、下りて……」

短く綴られる潮人の言葉。一言ごとに、奈美の身体も震え出す。歯を食いしばり、何かに耐える潮人の口元を見てしまったから。

穏やかな波は決して渚の血痕を消すことはなかった。代わりに、人影も魚影も映し出しはしない。ただその凶悪な鮫は確実にこの赤黒く濁った水の向こうにいる。狙うは今なお美酒にも紛うほどの鮮血を流す極上の少女。

「……渚さんを探してくる」

 奈美は馴染まぬ銛を手に取った。

「奈美、やめろ」

「だって! ウチの…… ウチのせいで渚さんが……」

「誰のせいでもない。仮にお前が悪いとしても、海に飛び込んだところで何も出来はしない」

 潮人は重く言い放つ。

「何諦めてんのさ!? そんなのわかんないじゃないか! このまま黙って待ってたって……」

「諦めたわけじゃない! 無駄に命を捨てるな、と言ってるんだ。俺達は舟の上から出来ることをするしかない」

 言いながら潮人は、小さな袋を取り出した。口紐を緩め小刀で穴を開けると、渚の消えていった方角へ投げ込んだ。

「何……? それ」

「釣りに使おうと思ってた餌だ。新鮮な(いわし)やなんかが詰まってる。もしヤツが匂いを嗅ぎつければ、こっちの方に向かっていくかもしれない」

「もし…… 嗅ぎつけなかったら?」

 潮人は目を閉じたまま応えない。もし餌に気づいたとしても、あれだけの血を流していた渚の方を狙うかもしれない。

 ならば。それ以上の血で誘い出す、か。

 潮人はまだ小刀を離してはいなかった。柄を握り締める手に、覚悟が秘められる。

目を閉じ、一度(ひとたび)息を吐いたときだった。

「ただいまーっと」

 水柱と共に上がる脳天気な声。潮人にとってはつい数刻前までの、奈美にとっても潜る前までと何ら変わらない姿だった。額に張りついた前髪が、水浴びをする無邪気な童子のようだった。

「なぎ……さ?」

 潮人も、奈美も、一瞬何が起こったのかわからない。

ほとばしる血の衣装を纏いながらも、何事もなかったかのような全く悪びれた気配のない笑顔。

「むぅ、すっかりずぶ濡れになっちゃいました。でも今日は晴れてるからすぐに乾く…… あれ。どうしたんですか? 二人とも」

 それどころか渚の方が驚く二人を見ながら首を傾げていた。

「渚…… ヤツは、凶虎鮫は……?」

「えぇ。ちゃーんと()いてきましたよ。半里ほど突き放してきたからもう見つからないと思います」

 そう言って渚は手を掲げた。夥しく流れる血は未だ止まらない。細くしなやかな腕から全ての色を奪うように汚していく。

「お前…… 手が……」

「え? あ、これですか? 平気ですよ。ツバでもつけとけばすぐに止まりますって」

 渚の明るさがまるで浮いて見えた。飛び込んでいた時間と海面の色が、明らかに致死量を超えた出血を訴えている。それなのに。

 さらに潮人の頭には次々と疑問が湧き出てくる。海育ちではないはずの渚に、鮫から逃れるほどの泳ぎが出来るものなのか。

 そして何より、さっき出会ったばかりの奈美の為に、鮫の待ち構える海中へと単身で潜れるものなのか。

 だがそんな疑問をぶつける前に、沸々と熱く湧き上がるものもあった。

 渚は海を、神海の恐ろしさを知らない。あんなことをして無事で済むと思ったのか。鮫に捕まらなかったことも奇跡が起きたとしか考えられない。たとえ泳ぎに自信があったとしても、日向の村では間違いなく禁忌に相当する行為だ。こうして再び舟に戻った安堵よりも、命を投げ捨てる真似をしたことが潮人には許せなかった。

 それは、鯨羅に無謀にも最後まで抗い続けようとした自分の姿。だからこそ、その愚行に怒りを感じた。

「おい、渚……」

 問い詰めようとした潮人を押し退ける影。気づいたときには、それはもう渚の胸に飛び込んでいた。

「な…… 奈美ちゃん!?」

「うぅ…… ごめ、ぐすっ…… ごめんなさい……」

 奈美はただ、渚の腕の中で泣きじゃくる。怒られることを怖がっているわけでも、逆に渚の行動を責めるわけでもない。ただひたすらに繰り返される謝罪には、何が込められているのだろうか。

「そ、そんなぁ。謝らなくたっていーよぉ。奈美ちゃんは何も悪いことなんかしてないでしょ?」

「うぅ…… ぐす。でも……」

「それにもし、逆の立場だったら奈美ちゃんだって鮫と戦ってくれようとしたんじゃない?」

 まるで銛を手にした奈美を覗いていたかのように渚は言った。

「うん…… ウチ、渚さんが飛び込んだって聞いて、助けなきゃって思って、潮人に止められたけど、それで、それで……」

「だったらおあいこだよ。それにその気持ちだけで私は嬉しいから。ありがとね、奈美ちゃん」

「ぐ…… す…… わあああん……」

 奈美の涙は止まらなかった。


挿絵(By みてみん)


 こんな形じゃないと素直になれない奈美だったが、渚はそれを受け入れてくれた。その優しさは誰しもが持ちえるものではない。

 そして、出会ったばかりの少女は、奈美の為に命を賭けるほどの義を見せた。

 血に塗れながらも、奈美をなだめる紅い少女を、潮人は美しいと思った。



        ◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 渚の止血が終わった頃に鳳華が飛んできて、潮人は網を張った。そして手筈通り酔った魚が次々に網に引っかかっていく。毒が回りきらなかったり、運良く網を逃れた魚は後から来た隆道や風子と共に捕らえた。

 渚の言うとおり凶虎鮫はその後姿を見せず、結局、その日は見事なまでの大漁を収めることとなった。

 が、しかし。

「……ったぁ! 何すんだよぉ!?」

「何すんだ、じゃないだろ! この我が(まま)娘が! わかってんのか? 危うく死ぬとこだったんだぞ!?」

「うっさいなぁ。もう潮人に同じこと言われたってば」   

 事の一部始終を聞いた風子が、奈美に激しい激を飛ばした。潮人に絞られていたときはすっかり大人しかった奈美も、風子相手には牙を剥く。

「大体あんたは……」

「わー、なぎさー、たすけてー」

 ちっとも怖くなさそうに叫びながら、奈美は渚の後ろに隠れた。

「ま、まぁ風子さん。これでも奈美ちゃんはもう充分反省したんです。もうそのくらいで……」

「いや、駄目だ。もうこいつは私がずっと見張っている。じゃないと何をしでかすかわからない」

 無論、風子も奈美が本当に、喉元を過ぎたからと忘れきっているわけではないことは知っている。ただ奈美の危機に居合わせなかった自分を恥じているのもあることだろう。妹には甘い筈の風子だったが、だからこその仕打ちなのだ。

「えーっ? やだよずっと姉さんと一緒だなんて。暑苦しいったらありゃしない」

「こら! 人を隆道みたいな扱いするな!」

「おい! 何でそこで俺が出てくるんだ!?」

「何よ。むさ苦しい男の代表でしょ、あんたは」

 涼しい顔で風子は返す。

「……っかぁ! お前俺をそんな風に見てたのか!?」

「何よ。事実でしょ」

「こ……殺す! 風子、そこに居直れ…… うが」

 突進してくる隆道を一蹴すると、風子はこそこそと退散しようとする奈美に向かって行った。

「奈美! そうやって隆道に気を逸らせて逃げようったって、そうはいかないよ!」

「もう、隆道ってば使えないなぁ! 姉さんももうオバさんくさいこと言うのやめてよね!」

 すぐ間近で雷が落ちた気がした。滅多に聞くことのない、風子の切れたときの暗示だ。たちまち潮人は、渚の手を引き距離をとる。

「べーっだ」

 恐れを知らぬ奈美は、今度は涼太郎の背中に移動し、これ以上にないくらい舌を出す。

「わっ、ちょっと、こっち来ないでってばぁ!」

「何よリョータ、見捨てる気!?」

「動かないでね涼太郎…… 動いたらあんたごと串刺しだかんね…… うふふ……」

「ふ、風子…… 目が据わってるよぉ……」

 いつの間にか風子は剛雷まで持ち出していた。涼太郎を中心に、若狭の海は大荒れだった。

「ねぇ、潮人さん……」

「……何だ?」

「みんな…… えっと、その…… 愉快な人達ですね」

 恐らくは彼女なりに選んだのかもしれないが、本人達にはあまり聞かせたくはない。隆道や奈美はともかく、風子あたりは痴態を見せた自らの不覚に、三日間は家に引きこもってしまうかもしれない。

「ちょっと離れた方がいいかもな」

「そう、ですね……」

 立ち込める暗雲を背に、二人は去った。残された涼太郎が少し気がかりだったが、風子の気象を感じ取れなかったあいつが悪いと、潮人は非情を盾にする。

 最後に見た涼太郎の瞳は救いの手を乞いていたが、潮人のもとまでは届かなかった。



        ◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 長い一日の終幕を伝えるべく、陽は傾き始める。渚の髪もまた茜色に染まり、潮人は自然の彩色美に思わず感謝した。

「綺麗な夕陽ですね」

 渚の蒼碧に夕陽の描き出す真円が映る。

 今日というこの日だけで触れた渚の様々な顔が、次々と潮人の脳裏を掠める。本物の渚がすぐそばにいるのに、今は目に入らない。

「腕は、もう大丈夫なのか?」

「え……? あ、海に飛び込んだときのですね。もう忘れちゃってましたよ、そんなの」

 言葉通り、渚の腕には傷一つ残ってはいない。あれだけの出血がまるで嘘のように。

 そして、口をついて飛び出しそうになった言葉も、潮人の胸の内に消えていく。

『お前は何者なんだ』

 きっとそんな疑問を投げかけても、波に漂う海藻のように、捕らえることは出来ないのだろう。ならば捕まえなければいい。そんなことをしなくても渚はここにいてくれる。この村を、仲間達を愛してくれることだろう。

「ね、潮人さん」

 横顔のまま潮人の名を呼ぶ。

「今、何を考えてるか、当ててあげましょうか?」

「うん? 言ってみな」

 動揺を隠しながら潮人も応える。本当に見透かされているのかとも思ったが、でもきっと渚は……

「お腹空いたな、ってとこじゃないですか?」

 やはりな、と潮人は苦笑する。

「むーっ、違うんですか? 自信あったのにぃ……」

 こうして拗ねたふりをして、

「じゃあ、今晩の夕飯は何かな、とか?」

 でもまたぱっと声を弾ませ、

「あ、それじゃああまり変わらないですよね」

 口元に指を当てては悩んで、

「あ…… わかりました!」

 そして最後には、

「もしかして…… 歌が聴きたい、ですか?」

 はにかみながらうつむいて、顔を隠してしまうんだ。

「残念、もう時間切れ」

 意地悪く俺はそう答える。

「もう…… 何だか潮人さんって、海月(くらげ)みたいですね」

「何だそれ」

「ぷかぷか海に浮かんでいて、近づいて掴もうとしてもさっとすり抜けちゃって…… まるで捉えどころがないんですもん」

 潮人は再び笑いを抑える。

「むーっ! 何でそこで笑うんですか?」

「似たようなことを、俺も思っていたからな。渚は千切れてゆらめく海藻みたいだなって」

「そうなんですか? んー、でももうちょっとまともな例えはないんですか?」

「人を海月扱いしといて、それはないだろ」

「あ…… えへへ、そうですよね。ごめんなさい」

 渚は手を合わせるが、まるで反省の色など見えなかった。その証拠に、悪びれた笑顔は崩れていない。

「じゃ、罰として……」

 今度は潮人が悪戯する番だ。

「歌って、くれないか……?」

 思い返せばまた聴きたくなる透明な調べ。

「え……? で、でもさっき違うって…… それに、そんな風に構えられるとやっぱり恥ずかしいです」 

 胸の前に手を合わせ、渚が目を伏せるとどこからともなく羽音が近づいてくる。鳳華だった。

「あ、鳳華ちゃん…… ほら、きっと私達を探しに来たんですよ」

 まるで真珠を見つけたように瞳を輝かせる。けれど、

「違うな。鳳華も聴きに来たんだよ。渚の歌を、な」

 その白い宝石をさっと横取りしてしまう。そして困り果てる歌姫に悪い王子はこう言った。

「俺じゃなくて、鳳華に聴かせてやってくれないか?」 

 お前の宝物を見せたら渡してやるよ、と。

「……わかりました。でも潮人さんに、じゃないですからね? 鳳華ちゃんに歌ってあげるんですから……」

 鳳華は何も知らず、岩場に羽を下ろした。主人の命も忘れてしばしの休息。

 そして、世界は奏でる。

 風が紡ぐ旋律、波の寄せる律動、遠くで囁く海豚(いるか)の鳴声が、渚の唄を飾る。その中で流れる独唱が、静かにもまして強く光彩を放っていた。

 それは喜び。神海と、そこに生きる全てに出会えたことを感謝する歓喜の詩。

 潮人は思った。人はこれほどまでにも何かに打ち震えることがあるものなのか。渚に、神かと錯覚するほどの歌を秘めていたのかと。

 潮人の目から涙が溢れる。悲しみがあったわけでもない。何かを失ったわけでもない。ただ、渚と同じく神に感謝を告げたいという気持ちが込み上げてくるだけ。そして、そんな気持ちが溢れることでも、人は涙を流すものだと知っただけだった。

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